ユリウスの肖像

Balance of Power 1
私は目であり手足である。
私の真の使命は、この館を昼といわず夜といわず見張ることだ。深夜に廊下を行き来する小さな気配も私は逃さない。そのせいで日中はぼんやりすることも多々あるが、それが影で働く私の使命だ。
屋敷の内外に群がる害虫の排除も私の仕事だ。身近な虫けらを退治するのは簡単だが、屋敷外の敵については未だ全容を把握していない。害虫は一網打尽にすべきだ。
害虫とおぼしき者たちが新たにやって来た。主人の元愛人の女が、連れ子とその主治医とともに姿を現し、正妻の座におさまったのだ。連れ子は、確かに旦那様の血筋だろう。何よりも旦那様の若かりしときの写真と外見がそっくりなのだから。
すぐに私は後妻の連れ子が男子ではないことに気付いた。後妻が我が子を跡取りにするために、女の子を息子と偽って育てたようだ。専属の主治医まで連れてきた理由は、女だと知られないようにするためだろう。
後妻は単に裕福な暮らしを夢見ていただけのようだが、犯罪に手を染めるには手腕も才覚も覚悟も欠ける。彼女は女主人としての自覚にも欠け、義理の娘に完全に見くびられている。
母娘が来て初めての冬に、「息子」は母親を暴行しようとした専属の医者を殺害してしまった。しばらく親子ともども放心していたが、やがて二人は雪の降る裏庭に死体を埋め始めた。
私は偽医者の急所を一突きにした彼女は使えると思った。男子校でけんかをするぐらいの腕力もある。彼女は慣れないながらも尾行をしたり、上の姉の部屋の前で聞き耳を立てたりもしていた。訓練を施せばうまくなるだろう。
演劇の練習で鍛えられた演技力も期待できる。クリームヒルト役の彼女は美しかった。
彼女は音楽学校の生徒に心を奪われていた。好きな男の前で男の姿でしかいられない彼女を見るのは、どこかつらかった。しかし、彼女の彼への思いは聞き届けられないことを私は知っていた。
案の定、その男子学生は彼女の前から姿を消した。これで彼女がその男のことを忘れることを私は願った。その学生がロシア政府を転覆させようともくろむ活動家であることは、彼女はまだ知らない。いえ、目を背けているだけなのかもしれないが。
その後、仮の姿をした私は事情があって表向きは館から消えた。しかし、幾度も秘密裏に屋敷に忍び込んだ。
私が姿を消した後、彼女の母親が亡くなった。そのときから、彼女の精神に亀裂が入り、その亀裂は少しずつ拡大していった。彼女の精神はガラスのようにもろかった。私はいったん計画を諦めた。
しかし、その彼女が再び立ち上がった。その男に会いにロシアに行こうと決意したときだ。
彼女が偽造パスポートと毒薬を手に入れたときには、いよいよだと考えた。そして、私はそのときを待った。
それは、雪の季節に終わりを告げる雨の日だった。館での後片付けを済ませた私は駅で彼女が来るのを待った。
音楽学校の友人と別れの挨拶をした彼女は、その日最後の汽車に乗り遅れまいと、まだ冷たい雨のなかを息せき切って駅まで走って来た。
私も同じ汽車に乗り込んで、彼女に気取られないように適度な距離を保ちながら様子をうかがった。
汽車がペテルスブルクの手前の駅で停車したときに、私は、付き添い役の女性と合流し、裕福な娘を装った。私と付き添い役がきょろきょろあたりを見まわしていたら、思惑どおり彼女がフランス語で声をかけてきた。
「よろしければ、こちらの席にどうぞ」
これまでの彼女の顔には、男として生活する精神的負担のせいで、どことなく陰がつきまとっていたが、そのときは憑きものが落ちたような晴れ晴れとした顔つきだった。もともと整った顔立ちの彼女だったが、新たな希望がさらに彼女を輝かせていた。
私たちはフランス語で行きずりのたわいない旅の会話を始めた。さっそく彼女は人を探していると言って、反逆者の名を出した。私はとぼけてみせた。
「アレクセイ・ミハイロフ? よくある名ですね、もしかしたら」
「何か心当たりがあるのですか」
彼女は身を乗り出して聞いてきた。あまりにも素直な反応が微笑ましくさえ感じられる。
「いえ、ある反逆者を思い出しましたの。記憶が正しければ、数年前、将来を期待されたバイオリニストが反逆罪で死刑になったのですが、その弟がそんな名前でした。噂では弟も反逆罪の嫌疑がかけられていて国外に逃亡したとか」
案の定、彼女の顔色が変わった。感情がすぐに顔に出るのは相変わらずだ。私は続けた。
「反逆者の関係者となると、シベリア流刑、場合によっては死刑になりかねません。深入りはしないほうがいいわ。もちろん、お探しの人は別人だと思いますが」
私は眉根を寄せて同情してみせながら、内心では彼女がその男をあきらめることを願った。
考え込む彼女の気をそらすために、話題をペテルスブルクの観光名所に移した。海軍省や冬宮、聖イサーク寺院などのほかにも、ロシアのおいしい食事や素敵な百貨店などの話もした。そうこうしているうちに汽車は最終目的地に到着し、私たちは別れた。
彼女は、さっそく観光を始めた。ホテルを探すこともしないで、相変わらず行き当たりばったりの行動をする。それも悪くない。いずれにせよ、彼女が乗った馬車の御者は私たちの手の者だ。
彼女が御者の制止も聞かずに自ら暴動に巻き込まれて負傷したことは計算外だったが、概して手はずどおりに事は進んだ。
負傷した彼女は二日間眠り込んだ。その間、私はペテルスブルクの世話人のもとへ挨拶と報告に行き、五年ぶりのペテルスブルクの街の様子と地理を頭に叩き込んだ。
「汽車でお会いしたオルガよ。覚えているかしら?」
彼女が目を覚ましたときに、暴動の後に偶然にも付近を通りかかった私たちが倒れていた彼女を見つけたことを説明した。
「驚いたわ。あなたが女性だったなんて」
「訳があって男装していたんです」
彼女は自分のことを話したがらなかった。
「きっと事情があるのでしょうね」
私が気のない返事をし、まずは怪我を治すことに専念するように言うと、彼女はほっとした表情を見せた。
「あの、バイオリンを知りませんか。ぼくが持っていたバイオリンですが」
心配すべきことは他にもあるはずなのに、まずバイオリンを気にかけるとは。汽車のなかでの話を合わせれば、自ら不審者であることを告白しているようなものだ。しかし、私は同情してみせた。
「お気の毒に、旅券以外のお手荷物は何も残っていなかったわ」
彼女の傷がふさがって痛みが消えたころ、私は今後のことについて尋ねた。暴動に巻き込まれた彼女は、荷物をすべて失い、いまや一文無しだ。彼女は心苦しそうに、お金を借りたいと言ってきた。私の身なりや家の様子から、我が家には余裕があると判断したらしい。
私は同情心を示しながらも厳しい現実を突きつけた。
「働き口で頼んでみてはどうでしょう。必要ならば、わたしの世話人がお仕事をご紹介できるかもしれませんので、どんなお仕事ができるのかおっしゃってください」
「ピアノが弾けますので、ピアノを弾く仕事があれば喜んでしたいのですが」
しかし、彼女はロシア語を話せないばかりかピアノの仕事をした経験もないらしい。私はため息をついた。
「お仕事を紹介してもらうためには、どちらにしても、私の世話人と会ってもらわなくては。世話人はとても厳しいのよ」
世話人は貴族の出自を持ち、いくつかの工場を所有する資本家でもあるが、さらに別の顔も持っている。その顔を知る者はすべて私の仲間だ。
(続く)