ユリウスの肖像

Balance of Power 3
その後、私はいったんドイツに戻った。そして、ロシアと日本との戦争が終結したころに再びロシアの地に足を踏み入れ、ある軍関係のパーティーで彼女と再会した。
彼女は、ふんだんにレースがあしらわれたドレスをまとい、小ぶりのペンダントを身につけ、陸軍親衛隊長とおぼしき男性とともに踊っていた。彼女が軽快にステップを踏むたびに、ドレスの裾が花が咲いたように広がり、しぼみ、また広がる。おとぎ話に出てくるヒロインのような彼女の姿に、私はしばし見とれた。
ダンスが終わり、私があいさつをするために歩いているときに、彼女の声が耳に入ってきた。
「ダンスが下手だというのは、本当のことだったのね」
彼女がいたずらっぽく笑いながら相手の男性をからかうと、男の方は、低音の響く声でいやみたっぷりに返した。
「ダンスよりも有意義なことはほかにも山ほどある。低能な女どもには、ダンスやパーティーに興じる以外にすることがないのだな」
「ひどい言いようね。低能な女のなかに奥さまのことも含まれているのかしら」
陸軍親衛隊長といえば、あのユスーポフ侯爵で、皇帝の姪の婿、すなわち皇帝の義理の甥にあたるのだが、そんな大物相手に、なんてあけすけと物を言うのだろう。そのうえ、侯爵はププキンの支援者だ。
侯爵がじろりと横目で彼女をにらんだが、彼女は軽く受け流した。
「そんな目で見てもむだよ」
そんな彼女の様子を見て私は微笑んだ。彼女は、アーレンスマイヤ家に母親とともにやって来た当初も、マリア・バルバラやアネロッテに対して、からかうようにして憎まれ口をたたいていたものだ。
それにしても、短期間であそこまでロシア語が上達したのはさすがだ。
彼女は私に気付くと満面の笑顔で手を振った。
「オルガ、お久しぶりね。お会いできて嬉しいわ」
そう言って、私を友人として相手の男性に紹介した。私は侯爵にうやうやしくお辞儀をしたのだが、彼女は隣であっけらかんとしていた。
会場の反対側でププキンが一人の士官と会話しているのが見えた。ププキンの秘書室で見かけたあの少尉だった。無表情なのは先日と同じだ。
ププキンは、私たちの姿に気付くと、少尉を連れてこちらにやって来た。
「ユスーポフ侯、それに私の天使たち」
ププキンが私たちに向かって両手を広げた。
侯爵はププキンに挨拶を返すと、彼女を一瞥してつぶやいた。
「片方は、天使というには、ずいぶんとひねくれているが」
「ユリアには無鉄砲なところがあるが、今回の事件が解決したのは、その性格のおかげだと考えている。もちろん侯爵にはユリアを助けてもらって大いに感謝している」
ププキンがそう言うと、彼女は「そうよ」と得意げに胸を張った。侯爵はあきれたように言った。
「下手な鉄砲がまぐれで当たったに過ぎない。そのうえ我々の到着があと数分遅れたら命は無かったのかもしれないのだが?」
ユスーポフ侯が辛辣なことを言おうとも、彼女はまったく気にかけていないようだ。
「でも、わたしは任務に満足しているわ。ドイツ系住民に対する感情の悪化を防げたんですもの。そのうえ、あなたの家にひそむスパイも探し当てたのよ」
この数か月の間、ペテルスブルク市内で火災が相次いたのだが、その一連の火災がドイツ系住民による放火だと噂されていた。そこで彼女が次に狙われそうな地域に目星をつけて見張り、実行犯を突き止めたのだ。
さらに、その実行犯を裏で操っていたのが、陸軍親衛隊の士官、つまり侯爵の部下だったという証拠までつかんだ。少尉はその士官に不信感を抱いており、ププキンに調査協力を依頼していたのだ。その士官の背後には宮廷に出入りするレベルの大物がいるとププキンもユスーポフ侯も考えている。
加えて、彼女は偶然にもユスーポフ侯爵家に出入りする反逆者を突き止めたという。こちらのほうは、彼女の副業、いえ、彼女の本来の入国目的である人探しをしているうちにユスーポフ家にたどり着いたそうだ。そこで、ユスーポフ侯が反逆者の黒幕であり、ゆえにミハイロフとも接点があると考えた彼女は、大胆にも侯爵家にのりこんだのだ。
それにしても、どのような思考回路でもってユスーポフ侯が反逆者だと結論付けたのだろうか。皇帝陛下への忠誠心が人一倍強いユスーポフ侯にとっては、憤死しかねないほどの誤認だ。だが、その結果、侯爵の妹が反逆者の仲間にだまされて利用されていたことが判明した。
「無分別な恋愛感情のたまものだ」
いやみを言う侯爵を、今度は彼女がじろりとにらんだ。
「だから、奥様に『石でできている』と言われるのよ」
ププキンは、「やれやれ」とでもいうように肩をすくめてみせた。
かつての彼女は、男として育てられ嘘をつき続けてきたことや、人を殺したことによる良心の呵責に苛まれ続け、母親を亡くしたときには自分の存在意義を見失っていた。
ところが、いまは本来の自分を取り戻したように見える。正義のためにささやかだが役に立っているという実感が、彼女に力を与えているのだろう。自分が男として育てられ、苦しんだことが、無駄では無かったことも理解しかけているようだ。
罪のない人間はいない。だからこそ、正義を探求し、ごく小さなことであっても正義だと信じることを実行すべきなのだ。それは、他を救っているように思われるかもしれないが、実は自分自身を救っているのだ。旦那様はそう言っていた。
ププキンの仕事は、ヨーロッパにおける各国の勢力の均衡を保つために活動することだ。列強の勢力均衡は、旦那様が尊敬してやまなかったビスマルク閣下の考えだ。ビスマルク閣下がドイツ帝国の宰相を務めていた間、ヨーロッパでは微妙なところで列強のバランスが保たれ、戦火を交えることはなかった。
私たちの目標は小さな火種を見つけて消すこと。その使命に私は誇りを持っている。捨て子の私が、他人からどんなに見下されようとも、自分のことを「不要な子」と思うことなく前向きでいられたのも、旦那様が大切なことを教えてくれたからだ。
それにしても、彼女は侯爵をからかって楽しんでもいるように見える。年上の男性を軽く見ないほうがいいと思うのだけれども。
