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Balance of Power 2​

 

翌日、私たちは、海軍省付近の新古典派様式の美しく大きな建物の中に足を踏み入れた。ひっそりした長い廊下の奥には世話人の秘書の部屋がある。世話人に会うにはこの秘書を通すことになっている。

 

秘書室には先客がいた。陸軍親衛隊の制服に身を包んだ軍人で、階級章は少尉だ。私は軽くお辞儀をした。

 

少尉は無言でうなずいて、私の連れている女性を感情のない目で一瞥してから立ち去った。彼女には女性用の外出着を着せている。私たち二人は決して見栄えは悪くないと思うのだが、少尉は概して女性に対して淡白のようだ。

 

私たちが秘書室の隣の応接間で待つこと十分ほどで、世話人が現れた。世話人は高齢だが、がっしりした体つきの貫禄のある紳士だ。

 

「オルガ、私の天使。よく来てくれた。そちらが話のあったお嬢さんだね」

 

彼女は、私たちがドイツ語で会話をしているのに驚いて声も出ないようだ。このあと、さらなる混乱が彼女をおそうだろう。

 

「ユリウス、君については興味深いことが分かっているよ」

 

世話人は、パスポートが偽造だったことや、銃弾による負傷は今回が初めてではないという医師の話を出して彼女を追い詰め、そして追い討ちをかけた。

 

「君はアレクセイ・ミハイロフを探しているそうだが、彼が反逆者だということを知っているかね」

 

世話人は、アレクセイ・ミハイロフがバイエルンに逃亡していたこと、そして数か月前に帰国したことを説明した。

 

「彼は官憲に追われる立場だ。君が反逆者のバイオリンを持っていたということは、仲間だと言っているのも同じだ」

 

つまり、彼女は不審者として秘密警察に引き渡される十分な理由があり、拷問されることもあり得るのだ。

 

世話人が言い終わる前に、彼女は立ち上がり、その場から逃げようとした。とっさに私は彼女の腕をつかんで微笑んでみせた。

 

「話は最後まで聞いたほうがいいわ。あなたには悪くない話だから」

 

しかし、彼女は暴れて私の腕を振りほどこうともがいた。確かに女性にしては力はあるが、訓練を受けた私にかなうはずがない。

 

「ぼくをどうしようというんだ」

 

彼女が声を震わせながらどなった。

 

「助けが必要なのは、あなたのほうだと思うわ?」

 

私は、悪態をつく彼女を椅子に座らせて、その隣に座った。世話人は向かい側にゆったりと腰掛けている。

 

「我々がいなかったら、君は遅かれ早かれ監獄行きだろう。あそこで拷問を受けてみるかね。それともドイツに強制送還されるほうがいいかね」

 

彼女は一瞬声を詰まらせたが、すぐに世話人をきっとにらんだ。

 

「なぜぼくがドイツ人だと? そもそもおまえは何者なんだ」

 

「自己紹介が遅れて申し訳なかった。ここでは私はププキンと呼ばれているよ」

 

追い詰められた彼女とは反対に、ププキンは終始ゆったりとした態度を取っている。彼はユリウスを安心させることを意識したようだ。

 

「秘密警察には君に手出しをさせないと約束する。ドイツに強制送還もさせない。君はドイツに帰ると不都合が生じるのではないかね」

 

ププキンは一呼吸おいてから続けた。

 

「代わりに我々に協力してほしい。有能な女性が必要なのだ。この美しいオルガのようにね。彼女もドイツ人なんだよ」

 

彼女は目を見開いて私を見た。私は「ええ」とうなずいて微笑んだ。

 

ププキンによれば、まず彼女にロシア語の特訓を受けさせて、法律や薬物の知識、護身術も学ばせたいということだ。すべては彼女にとっては損にならないことも強調した。

 

しかし、私はププキンの話の途中で割り込んだ。

 

「しかし、以前報告しましたが」

 

彼女がこの仕事には不向きであることは報告している。思いつきで行動することが多く、やや心配なのだ。けれども、ププキンの考えは違った。

 

当の彼女は憮然としている。だが、海千山千のププキンはよく心得たものだった。

 

「アレクセイ・ミハイロフを探すことは認めよう。うまくやれば時間も十分できる。探す方法も身につく」

 

そのとき、彼女の瞳がきらりと光った。ただし、ププキンは、反逆者の捜索は慎重に行わなければ監獄行きだと付け加えるのを忘れなかった。

 

「君の置かれた状況を考えれば、悪くない条件だと思うが」

 

彼女は再び憮然とした。

 

「それで、ぼくに危ない仕事をおしつけるわけか」

 

「とんでもない。アーレンスマイヤ氏のお嬢さんに危険なまねをさせるつもりはない。我々は君を守ることを考えている」 

 

彼女はアーレンスマイヤという名を聞くやいなや血相を変えて立ち上がった。全身がわなわなと震えている。

 

「落ち着きたまえ、ユリウス。いや、君は女性なのだから、今後は、そうだね、ユリアと呼ばせてもらおうか」

 

ププキンは、彼女に着席するように促し、これから話すことはいずれも事実だと前置きして話を進めた。

 

「私はアーレンスマイヤ氏の友人だったんだ。だから君のご家族のこともよく存じ上げている。お母上も含めてね」

 

彼女からは言葉も出ない。

 

「レナーテも我々の仲間だったんだよ」

 

これには私のほうが驚き、思わず「まさか!」と声を張り上げてしまった。あのふわふわした人が仲間だったなんて信じられない。

 

ププキンは、ユリウスの母親のことを美しく素晴らしい女性だったと絶賛した。天真爛漫なレナーテの前ではアーレンスマイヤ氏は心からくつろげたし、ププキンもまた彼女の優しい笑顔に癒されたものだと言った。

 

レナーテが音楽学校の生徒に興味を持ち始めたときに、ププキンたちは彼女の幸福のために彼女を任務から解放しようとしたそうだ。そのために、アーレンスマイヤ氏は一切の連絡を絶ち無関係を装った。

 

ところが、怪しい男がレナーテの視界に入った。偽医者のヤーンだ。そこで、彼女は、ヤーンを利用して旦那様たちの仕事の妨害をする者をあぶり出そうと一計を案じた。そして、窮乏生活を送りながらユリウスを男として育てることで、アーレンスマイヤ家の財産を本気で狙っているふりをした。

 

レナーテはお人よしで騙されやすいように見えたが、なかなかどうして、性根がすわっていたのだ。私は感嘆した。

 

「私は、まんまと騙されたというわけね」

 

「ああ、たいした女性だ。もちろん君もだが」

 

ププキンは私に片目を瞑ってみせた。確かに私も捨てたものではないと自負している。日中は役立たずとずいぶん言われたものだが。

 

「レナーテが見かけほどあまい女性ではないことは、ユリア、君には分かるだろう? 心を鬼にして君を男として育て続けたんだ」

 

旦那様とププキンは、マリア・バルバラも教育しようとしたが、どうも筋が悪くて、猟銃の扱い方を教えた程度で見限ったそうだ。

 

「代わりにこのオルガに白羽の矢が立ったのだ」

 

ププキンが話している間中、押し黙っていた彼女が、とうとう口を開いた。

 

「父はロシアのスパイで、そのせいで多くの人生が狂ったんだ。ヤーン先生も、ヤーコプも、アネロッテも、ゲルトルートも」

 

やはり彼女は大きな誤認をしている。そのうえ、彼らの罪の責任を財産に転嫁している。

 

「人生が狂った? 何の話だね」

 

ププキンが聞き返した。

 

「とぼけるな! ロシア皇帝の秘密の財産のせいで罪のない多くの人間が命を失ったんだ」

 

彼女は怒りに震えながら涙声を出した。感情的で論理が飛躍するのは、マリア・バルバラと似ている。可愛いといえば、可愛いのだが。今度は私が答えた。

 

「まず、『人生が狂った』というのは誰のこと? アネロッテやヤーンは欲望に負けて、自ら身をほろぼしたのよ」

 

ヤーコプも同じだ。愛のためだからといえば何もかもが正当化されるわけではない。すべて自分の判断力、その基となる良心と理性、そして自制心の問題だ。

 

「それに、ヤーコプは生きているわ。誰も死体を見ていないでしょう? そうとうの曲者(くせもの)よ。アネロッテをそそのかしたのは彼よ」

 

つまりアネロッテはヤーコプの掌のうえで踊らされていたのだ。私たちは、そのヤーコプを既に捕獲している。

 

アネロッテが旦那様の薬に毒を混入させていたことは、私たちは知っていたが、旦那様は毒が効いているふりをした。旦那様の死因は毒などではなく、持病の発作だ。

 

そこまで言うと、彼女が最後に挙げた名前、ゲルトルートのことが思い出された。私はおかしくなって笑い出しそうになったが、なんとか話を続けた。

 

「アネロッテは数千万リーブルにのぼるロシア皇帝の隠し財産があると言ったのでしょう? 彼女はヤーコプの作り話に引っかかり、それを妄想で膨らませたのよ」

 

 

彼女は、信じられないという顔をした。

 

「では、フランクフルトの銀行の金庫にはいったい何があるんです? 父はロシアのスパイで、それを知ったベーリンガー伯の口を封じるために使用人にいたるまで消したんだ」

 

「アーレンスマイヤ氏は、スパイなんかではないよ」

 

ププキンが厳かな声で言った。

 

「ベーリンガー伯とその執事こそ、バイエルン国王の側近の立場を悪用していたハイエナたちだった。彼は裏の顔も持っていたんだよ」

 

ベーリンガー伯は、当時、浪費家の国王と親しく、国王がおとぎ話のような城を建設したときには、業者との間を取り持ち、不自然な入札や横領で一財産を築いたのだ。そのうえ、ドイツ帝国内の土地の買い占めをもくろんでいて、売りしぶる者に対しては恐喝をはじめ卑怯な手段を用いていた。

 

「彼はイギリスの銀行家とも懇意でね」

 

イギリスの一部の金融資本は、ドイツとフランスが再び戦争をすることを密かに望んでいる。ベーリンガー伯も、イギリスの金融機関を通じて国外の薬品や武器などの各分野の企業に多大な投資もしているので、戦争になれば莫大な利益を手にすることになる。だから、独仏間の感情を悪化させるような小さな火種を国の内外で次々とばらまいてきた。一つ一つの事件の規模は小さくとも、積もれば大きくなるものだ。

 

ベーリンガー伯は、さまざまな悪事を秘密裏に実行するための組織を作りあげた。いわば犯罪組織だ。しかし、彼らはあからさまな違法行為は極力避けており、当局も証拠をつかめなかった。

 

バイエルン王国陸軍省がイギリスの金融資本の動向について、ベーリンガー伯に参考意見の聴取を行おうとしていた矢先に一家殺害事件が起こった。

 

「実際は犯罪組織間の闘争だった。しかし、事件の背後でイギリスの金融資本が動いたと考えている。当時、ベーリンガー家の付近にはイギリスの銀行家から送り込まれた男が一人住んでいてね。その男の特徴がヤーンという男の特徴とほぼ一致するんだ」

 

最終的に、バイエルン当局は、一家殺害事件を、利害関係者間の紛争、露骨な言い方をすれば犯罪組織間の抗争と結論付けた。だが、いつのまにか世間では、ベーリンガー伯がビスマルクによってスパイ容疑をかけられ消されたことになっていた。反ビスマルク勢力がバイエルンの愛国心と独立を扇動するために工作したのだ。

 

「それに使用人全員が殺されたわけではない。明らかに無関係な何人かは我々が密かに救出したのだが、彼らが再び狙われることのないように書類上は全員死亡したことにしてある」

 

とはいえ、ベーリンガー家の使用人の多数が不正会計操作や暴力行為に加担した犯罪組織のメンバーだった。

 

「我々とは?」

 

彼女は眉をひそめた。

 

「君のお父上と私だよ。私はドイツではシュワルツコッペンと呼ばれていた。君のお父上とともに軍隊にいたのだが」

 

彼女はシュワルツコッペンはアネロッテの実父だと聞かされている。

 

そこで、ププキンは前アーレンスマイヤ夫人の妄想癖について話した。シュワルツコッペン大佐は奥方と不倫などしていない。アネロッテは前夫人と別の男との間にできた子で、ヨアヒムという男はベーリンガー家の汚れ仕事を請け負っていた男の息子だ。

 

バイエルン王家の血を引く前アーレンスマイヤ夫人は、前国王と同様に現実と空想の区別がつかない傾向があったらしい。ププキンは前夫人の浮気相手と言われてうんざりしているようだ。彼は年齢を重ねても男前なので、若いときには多くの女性の心をつかんだとしても不思議ではない。

 

「アネロッテの妄想癖は前夫人から引き継いだとも考えられる」

 

帝国警察の男は、ベーリンガー伯の裏の顔を知らない。ベーリンガー伯にしてみれば、何かあったときに警察は役に立つと考えて、彼を援助したに過ぎない。

 

反対に、女性に興味のないベーリンガー伯に騙されて結婚した夫人は、帝国警察の男に夫の悪事を暴いてくれることを期待していたらしい。ププキンたちは彼女の救出に間に合わなかった。

 

「ベーリンガー夫人の実父が音楽学校の校長だったことは把握していなかった。申し訳なく思っている」

 

ヘルマン・ヴィルクリヒの素性について確信を持ったレナーテは、あの日、犯罪組織との関係を聞き出すために、彼と会う約束をしていた。必要であればヴィルクリヒを捕縛するつもりだったという。

 

「レナーテからは君が彼の殺意に感付いたことが役に立ったと聞いたよ。君の推理や調査能力をほめていた」

 

ずっと信じられないといった顔をしていた彼女が口を開いた。

 

「話を戻しましょう。ロシア皇帝の財産でないというのならば、いったいフランクフルトの金庫のなかには何があるんです?」

 

「アーレンスマイヤ家の世襲の財産だよ。レーゲンスブルクで一、二を争う古い家柄のね。土地の権利書や古い契約書なども収められているそうだ」

 

「なるほど。だが、ぼくは、まだあなたがたの話が真実だと認めたわけではない」

 

彼女はまだ混乱しているようだったが、軽くため息をつくと、ププキンから私に視線を移した。 

 

「ところで、なぜあの日にアネロッテが話した内容を、あなたは知っているんだ?」

 

「オルガ、そろそろ君のことを話してあげなさい」

 

「私はアーレンスマイヤ家にいたのよ。召使いとしてね。あなたとも頻繁に顔を合わせていたわ。もっとも半年ほど前に死んだことになっているのだけれど」

 

彼女の顔が驚きで歪んだ。

 

「ま、まさか」

 

彼女はごくりと息をのんだ。

 

「ゲルトルート?!」

 

彼女は頭を両手で抱えて、「ありえない」と何度もつぶやいた。

 

私はあの夜のことを話した。犬たちが吠えて暴れていたのは、私が噛まれる前に犬たちに致命傷を負わせたからだということ。私は自分で喉を傷つけ、犬の血を付けて死んだふりをしたこと。服のなかには雪も入れた。アネロッテに正体を知られてはならなかった。

 

弱くて愚かでかわいそうなゲルトルートという皆の思い込みのおかげで、犬たちがゲルトルートを噛み殺したという筋書きができあがり、共有され、事件は片付けられた。異見もなく、皆が同じ既成観念を持っていたせいで、犬たちの死骸や現場の検証も形式的に行われただけだった。葬儀を執り行った仲間の現執事が偽装に果たした役割も大きい。

 

その後、私は、顔のそばかすを取り、眉の形を整えて、別人となってアーレンスマイヤ家付近に住み始めたが、ときどき執事の指示を受けて秘密裏に屋敷に出入りしていた。

 

ユリウスに嫌疑をかけたのは執事だ。そうすればユリウスは行動を起こし、同時にアネロッテも必ず行動を起こすからだ。

 

「そこで、私がアーレンスマイヤ家に入り込み、二人の最後の会話を聞いていたというわけ。あの後、アネロッテには応急処置を施したのだけれども、残念ながら助からなかったわ」

 

アネロッテの血を残したままにして、私は鉄道の駅に向かった。

 

「ゲルトルートが目の前の人物だと信じられないのであれば、私はうまくやったということね」

 

使用人の朝は早いのに、夜行性のアネロッテの動向を探るために夜遅くまで行動していたのだ。それが、ぐずでのろまと思われたゆえんだ。そう思われていたので、かえって動きやすかった。

 

加えて、美人で目立つよりも、少し不器量なほうが行動しやすい。美しさを嫉妬されれば厄介なことにもなる。影は誰にも見向きもされないほうが動きやすいのだ。

 

私が「子息」に恋焦がれているふりをしたのは、「子息」に近付く口実になるからだ。もちろん、アネロッテたちの目を意識して、演技は徹底させた。

 

呆けたように私の話を聞いていた彼女だったが、ぼそぼそとつぶやいた。

 

「わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪といい、暗きを光とし、光を暗しとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする」

 

数分間の沈黙の後、彼女はとうとう観念したように言った。

 

「あなたがたを完全に信じたわけではないが、この国に安全に滞在するためなら、協力するよ」

 

彼女の頭には、最初の認知、つまりアネロッテの話がこびりついているようだ。人がいったん認知したものを変えることは難しい。真実は自分でつかむしかないのだが。

 

彼女がつぶやいたイザヤ書の一節のように、世界では嘘が真実としてまかり通っているのだ。

 

(続く)

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