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まずい、とユリウスは思った。レオニードを怒らせたようだ。仮面舞踏会の帰りはいい雰囲気だったので、すっかり油断した。夫の書斎で長々と説教が続いた。

 

「あの仮面舞踏会には行くなと念押しし、奥さまも同意したはずだ」

 

「約束を破ったことは謝ります。でも、わたしは、あなたが何に取り組んでいるのか知りたかったし、手伝いたかったの。それに」

 

しどろもどろのユリウスは目を伏せた。

 

「あなたの離婚の理由を発見できるんじゃないかと考えたんです」

 

夫はため息をついて、冷たい声で返した。

 

「私が信じられないということか。奥さまのほうこそ、あの梟男と特別な関係を持つことになったと思うが?」

 

「そんなつもりは全くなかったわ。わたしはあなたが好きなの。お願い、信じて」

 

「もし私が気付かなかったら、どうするつもりだったのだ」

 

「きっとうまく切り抜けられたわ」

 

不信感をあからさまにした夫の峻厳な声が続く。

 

「ほう?男の力にあらがえるのか」

 

夫の低く抑揚のない口調に、ユリウスは言いよどんだ。

 

ベルリンでも、キルヒバッハさんから厳しく叱責されたことはあったが、そんなときは後でニッツ夫人が必ず慰めてくれた。だが、ここにはニッツ夫人はいない。

 

妻としてふさわしくないと判断され、見捨てられるのだろうか。そう思うと胸が苦しくなり、ユリウスの目からぽろりと涙がこぼれた。

 

「好奇心に負けて、本当に軽薄な行動をしたと後悔しているわ。一人で乗り切れると思ったの。どうか許してください」

 

夫は腕を組んだまま、しばらく沈黙していた。涙に動じないようだ。叱責する夫の威圧感はキルヒバッハさん並みだ。耐えきれない。だが、ユリウスは力を振り絞って、かねてから考えていたことを口にした。

 

「柔道だと?」

 

常に沈着冷静な夫の声が裏返った。

 

「ベルリンで小柄な男が大きな男を投げ飛ばすのを見たの。だから、女のわたしでも自分の身を守れるに違いないわ」

 

もちろんレオニードは柔道が何かは知っていた。日本との戦争の前に、日本大使館の武官が、あるパーティーで彼を侮辱した大柄な男を投げ飛ばしたのだ。夫もその様子を目撃し、感銘を受けたらしい。

 

しかし、ユリウスの希望はあえなく一蹴された。

 

「私は妻も守れない男になるつもりはない。奥さまが危険なことに首を突っ込まなければ、済む話だ」

 

そのとおりだ。ユリウスは反論できない。そのとき夫が、ふとドアのほうを見やった。

 

「ヴェーラ、そこにいるのか。何か用か」

 

なんとドアの外に義妹がいたようだ。名門貴族のお嬢様が立ち聞きをするのだろうか。

 

「ドアが少し開いていて、ノックをしようか迷っていたのですが」

 

と義妹がくすくす笑いながらドアを開けた。ユリウスには、この義妹が天の助けのように思えた。

 

「まあ、ヴェーラさん、きっとお急ぎの御用なのね」

 

「外出から帰って来たところ、ちょうど血相を変えたフルニチェフさんとお会いしましたの。お兄さまに緊急の御用だとか」

 

義妹は、大貴族のご令嬢なのに、自ら客を案内するのにやぶさかではないようだ。

 

「取り込み中、邪魔をして申し訳ありません」

 

焦りを隠しきれないニコライ・フルニチェフの声がした。

 

「ユリア、この話は終わりにするが、今後は私を失望させないでくれ」

 

ユリウスは神妙に返事をして、義妹とともに書斎を出た。

 

 

 

 

この日の遅い午後、ユリウスは初めて義妹をお茶に誘った。

 

聞けば、ヴェーラは久しぶりに旧友を訪ねたとのことだった。名門のお嬢様でバイオリニストと結婚したのだが、結婚後に会うのは初めてなのだそうだ。

 

バイオリニストと聞いてユリウスには思うこともあったが、最も聞きたいことは夫のことだ。それに前妻のことだ。どうやって切り出そうかとユリウスが迷っているときに、レオニードが姿を見せて、予定外の外出を告げた。

 

隣にいたニコライ・フルニチェフから、ヴェーラには案内の礼が、ユリウスには会話を中断したことの謝罪があった。

 

「侯爵夫人、可憐なあなたが男を投げ飛ばすのも一興だとは思いますが、進んで見たいとは思えない光景ですね」

 

「世の中には悪い男はいっぱいいて、時には鉄槌をくだすべきだというのに?」

 

「全く同感です。しかし、多くのまともな男は、女性や子どもたちを守ることを誇りとしています。もちろん賢明なる侯爵夫人は、侯爵殿を信頼なさっていると存じますが?」

 

ニコライの言い回しはニッツ夫人とそっくりだ。それにしても、あまり良い評判の男ではないが、態度や発言内容は悪くない。

 

「もちろん、信頼していますわ。でも、夫の不在時に家族を守るのがわたしの義務だと思いませんこと?」

 

「そのために警備がいる」

 

ユリウスの主張は、すぐさまレオニードから退けられた。

 

「お兄さま、わたくしも習いたいと思いましたわ」

 

不測の発言をした義妹に、六つの視線が集まった。だが、侯爵は冷静だった。

 

「後日、話を聞こう」

 

なぜ義妹は柔道を習いたいと言うのだろう。なぜ夫は頭ごなしに拒否しないのだろう。ユリウスが考えをめぐらせていると、夫たちは、「急ぐので」と言い残して出かけた。後ろにロストフスキーが待機していたのが、ちらりと見えた。

 

「ヴェーラさんは、どなたか投げ飛ばしたい男性がいるのですか」

 

ユリウスは驚いたように尋ねてみた。

 

「わたくしが愚かだったんです」

 

ヴェーラはうつむいて、つぶやいた。ユリウスは、義妹をおそったであろう女性にとって最悪の出来事を想像してしまった。それが男を投げ飛ばしたい理由なのだろう。

 

「お義姉さまこそ、まさか兄を投げ飛ばすおつもり?」

 

空気が重くなりそうなのを察したのか、義妹は、くすくすと笑いながら冗談めかして言った。「以前は活発なお嬢さんだった」と財務大臣夫人が言っていたのもうなずける。

 

ユリウスが知りたいことを聞くチャンスが訪れたようだ。

 

「そうね。レオニードと殴り合ったり、投げ飛ばし合ったりする喧嘩もいいかもしれないわ。喧嘩は対等でなければ、おもしろくないもの。でも、ヴェーラさんから見て、夫には妻に投げ飛ばされるような理由があるのかしら」

 

前半は半分冗談で音楽学校時代を懐かしみながら、後半はごく真面目に言ったつもりだった。しかし。

 

「まあ、お義姉さ、うっふっふっふっ」

 

ヴェーラは、おなかを抱えて、「お兄さまとなぐり合い」と途切れ途切れに声を出しては笑った。冗談に笑ってくれるのは嬉しいものだ。ユリウスも笑った。

 

「大笑いして失礼しましたわ。兄は妹には優しいわ。お義姉さまこそ、兄のことをどう思っていらっしゃるのかしら。第一印象と変わらないままかしら」

 

義妹はユリウスのことをさりげなく探っているようだ。無理もない。この結婚は、世間と同じように義妹にも寝耳に水だったはずだ。

 

お決まりのように、レオニードとの馴れ初めなどを尋ねられたので、いつもと同じ答えをした。遠いつてをたどって財務大臣の紹介で結婚したという筋書きだ。

 

ユリウスは、この結婚の真実を語れない。だから、義妹には、なぜ結婚したかよりも、この結婚生活をどうするかのほうが重要だと強調した。

 

「相手がどんな人でも、幸福にしようって決意していたのよ。でも、レオニードは想像していたよりも、ずっと素敵で、思慮深くて、知れば知るほど思いやりがあることがわかって、そんな彼がどうして離婚したのか理解できなくて」

 

義妹は怪訝な顔をした。

 

「優しい?先ほど叱られていたのに?」

 

「聞かれていたのね。非があるのはわたしのほうなのだから、仕方ないわ」

 

義妹が笑みを浮かべた。

 

「包み隠さず言うならば、兄は前妻には冷淡だったわ。わたくしには、アデールさんの」

 

と言いかけたところで、義妹はユリウスの真剣な視線に気付いて再び笑い出した。

 

「うふふ、お義姉さまは、アデールさんのことが気になるようですわね」

 

義妹の指摘に、ユリウスは、頬が熱くなるのを感じたが、声だけは落ち着かせようと努めた。

 

「ええ、皇帝の姪で、地位も名誉もあり、そのうえ華やかで美しい方だと聞いています。だから、二人の離婚が理解に苦しむんです」

 

まだユリウスはアデールと会ったことがない。夫が前妻とうまくいかなかったのはなぜか。その理由を探り、同じ轍(てつ)は踏まないようにしなければならないのだから。

 

「兄やご友人から聞いていらっしゃらないの?」

 

ユリウスは、夫からは、留守がちで前妻に寂しい思いをさせたと聞いたこと、知り合いの女性たちからは、秘密の相手の存在を示唆されたことを話した。ヴェーラは、兄は秘密の恋人をつくるほど器用ではないと言って、また笑った。

 

「わたくしには、アデールさんのほうに問題があったように思えますわ。彼女は兄の軍務に口を出し過ぎていたように見えました」

 

再びユリウスの目が光った。そんなユリウスに、ヴェーラは、うふふと笑いながら続けた。

 

「率直に言えば、アデールさんは兄とあまり気が合うとはいえませんでした。わたくしも弟もよ」

 

「意見が異なるのは仕方ないことだわ。どこまで妥協できるかが重要だって、後見人たちから聞いています」

 

「そのとおりかもしれないわ。でも、二人は、お互いに妥協することはなかったわ。お義姉さまも、兄の言いなりになるようには見えませんでしたけれど?」

 

夫はたやすく妥協する性格ではないのだろう。

 

「柔道はあきらめるつもりよ。レオニードにこれ以上叱られたくないわ」

 

ユリウスは肩を落として続けた。

 

「リュドミールにだって、わたしは怒ってばかりだわ。優しい義姉になるつもりだったのに」

 

ヴェーラは、しょんぼりした義姉に微笑んだ。

 

「わたくしは、アデールさんといるときには心から笑ったことなんて、一度もなかったわ。弟もよ。でも、弟は、近ごろ笑顔が増えたように思うわ。それに」

 

ヴェーラは再三笑い出した。引きこもっていたとは思えない。実はとても笑い上戸なのかもしれない。

 

「失礼、レックスのあの顔を思い出してしまったわ。思い出すたびに、笑いが込み上げてくるのよ。それに、ともに大笑いをした相手がいるというのは、いいものね。不思議なことに、旧友といっしょにいるより愉快だわ」

 

その後、ヴェーラは思い付いたように、ツァールスコエ・セーロ陸軍親衛隊の激励に行くことをユリウスに勧めた。

 

「秘密の恋人がいるとしたら、きっとそこね」

 

うふふと笑うヴェーラに、ユリウスは混乱した。秘密の恋人なんていないと言ったのに。

 

 

 

 

そういうわけで、ユリウスはツァールスコエ・セーロ陸軍親衛隊長の執務室に向かっていた。軍務に励む隊員の慰問と激励という名目で、差し入れの大量のチェリーパイを用意して、レックスを連れてやって来たのだ。コロリョフとコズロワもいっしょだ。

 

「やあ、レックス」

 

「レックス、久しぶりだね」

 

陸軍親衛隊では、士官から掃除係まで次々とレックスに声をかけてくれる。夫がときどきレックスを連れて来たらしい。レックスは休憩中の犬好きの人々によく遊んでもらっていたようだ。

 

「こんにちは」

 

ユリウスは、声の主たち全員にあいさつを返して微笑んだ。

 

ユリウスは夫を支える下級兵士や掃除係にも感謝の気持ちを伝えたかったが、物事には順序がある。まずは士官からだ。夫はユリウスを士官用の休憩室に案内した。

 

ユリウスは、皆に感謝の挨拶をして、これ以上ないほど微笑んでみせたが、誰一人、にこりともしない。先ほどレックスに挨拶した気さくさは、どこにいったのだろう。頻繁にゴシップ誌に登場する女性にあきれているのだろうか。

 

だが、ユリウスは隊員たちの本音を聞きたい。いや夫の行動についての情報を得たい。そのためには。

 

「レオニード、お仕事の邪魔をしてごめんなさい。一人で対応できるわ」

 

夫に執務室に戻るように、それとなく伝えた。レックスはというと、夫の後について休憩室から出て行ってしまった。

 

やがて隊長夫人来訪の報を聞きつけた、休憩中の士官たちが次々と集まって来た。

 

まず、ユリウスは愛想よく一人ひとりを気遣ってから、自分も隊長と隊を支える立場であり、いわば仲間のつもりなので、気楽に会話したいという気持ちを伝えた。

 

部下たちによると、隊長は若いながらも指揮官に必要な思慮深さと判断力を備えているということだった。お世辞も入っているのだろうが、夫は、隊長として彼らの信頼を得ているようだ。ただ、あまり親しみやすいとはいえないようだが。

 

「万一、夫の不品行を見つけたら、遠慮なく知らせてくださいな」

 

「あり得ない!」

 

すぐに何人かの声が同時にあがった。そして、笑いが巻き起こった。

 

「隊長夫人は、隊長の行状を疑っているんですか。隊長が女性に用もなく声をかけただけでも、それこそ大ニュースですよ」

 

笑いが広がり、ユリウスは肩をすくめてみせた。

 

「夫は、自宅でも、あまりくつろぐことなく執務をしていますの。気分転換をしないのが不思議なんです。ですので、こちらでどんな息抜きをしているのか、と思ったんです」

 

「休憩中は、読書のほか、付近の森を散策したり、馬を走らせたりしています」

 

「家にいるときと同じね」

 

ユリウスがため息をついたら、ある士官がうなずきながら言った。

 

「以前、ある将軍から、隊長が羽目を外すことはないのか尋ねられたことがあります。将軍たちとの付き合いでも、慎み深く行動しているようです」

 

夫は上にも下にも堅物でとおっているようだ。ヴェーラがほのめかした特別な関係にありそうな人物は見当たらない。ロストフスキー少尉も四六時中いるようでもなかった。前妻は一度として、ここに来たことはないことも聞いた。

 

「したがって、ご夫婦の朝帰りの記事は、我々にも驚きでした」

 

どっと笑いが起こった。ゴシップ誌のユスーポフ侯爵夫人の記事は、ここでも知られていた。そんな話題が出るほどユリウスは、士官たちと打ち解けていた。

 

話題が音楽学院での演奏に移り、ユリウスはリクエストに応じて休憩室のピアノを弾くことになった。そのとき、一人の兵士が会話の許可を求めてきた。

 

「隊長夫人、レックスが、ある貨物の前で不審な動作を繰り返しているのです。我々に何かを伝えようとしていると思われるのですが」

 

レックスは鼻をくんくんと鳴らしながら、基地内を軽快に探検していたのだが、その貨物に近寄るとその場でお座りをしたらしい。先に進むように促されると、再びにおいをかいで座って、散歩に連れ出した兵士とコロリョフのほうを見るという。

 

兵士は犬の気まぐれだと思ったが、コロリョフがレックスは重要なことを伝えようとしていると主張したそうだ。

 

ユリウスが現場に到着すると、レックスは、聞いていたとおりの動作をした。確かに人間たちに何かを訴えている。

 

「どこかで見たことがあるんだけれど、どこだったかしら」

 

ユリウスは額に手をやって考え込んだ。その間、レックスは座ったまま、ユリウスの方を見ている。しばらくすると、ユリウスは顔色を変えて叫んだ。

 

「爆弾よ」

 

しかし、次の瞬間、ユリウスは叫んだことを恥じた。

 

「軍隊に爆弾があるのは当然のことだったわ。お騒がせして、ごめんなさい」

 

と言いながらレックスをなでて、爆発物を発見したことをほめた。

 

だが、少しずつ周囲が騒がしくなった。それらの木箱は、出入りの食品業者が輸送用に引き取りに来る予定だという。

 

念のため、兵士たちが貨物の中をあらためると、武器弾薬が次々と出てきたのだ。あたり一面が吹き飛ぶのに十分な量のダイナマイトもあった。

 

レックスは、ごほうびに厨房係から大好物の鹿肉をもらい、他にも同様なことはないか、もうひと働きすることになった。ユリウスは馬に乗せてもらって、軽快に走り続けるレックスにつき合った。

 

物資の輸送用の通用口のところに来ると、レックスは敷地外へ飛び出し、道路の向こうの干し草の山に一目散に突進した。レックスは枯葉の山に突っ込んで遊ぶのが好きだ。だから、今回も干し草の山に突っ込むのだろうとユリウスは思った。だが、レックスは何かを見つけたようだ。合図のお座りをしている。

 

兵士たちが干し草をかき分けると、銃器類が入った箱が発見された。

 

 

 

 

翌日、地元のゴシップ誌「ネフスキー・ガゼートナヤ」は、ツァールスコエ・セーロ陸軍親衛隊での武器流出という、珍しく深刻な内容を取り上げた。

 

「侯爵家の優秀犬レックス、お手柄。侯爵夫人から手作りメダルが授与される」

 

 

(2022.10.07)

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