ユリウスの肖像

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「ツァールスコエ・セーロで、兄の心を占めているものを発見できなかったですって?」
ユリウスの話を聞いたヴェーラが笑い出した。
「ええ、わかったことといえば、切れ者で堅物だということ。世間の評判と同じ」
「堅物!まさにそれよ」
義妹は率直な物言いをする。
「兄にとっては、軍務が恋人のようなものよ。頭の中は戦術やら兵器やら、そんなことで占められているはずだわ」
義妹は笑いながら続けた。
「そんな兄をアデールさんが『石でできた男』と呼んでいたのを、小耳に挟んだことがあるわ」
きっと立ち聞きでもしたのだろう。それにしても、夫は前妻に対して石のような態度だったのだろうか。
「財務大臣夫人からも堅物だという評判は聞いていたわ。でも、実際にはレオニードは評判とは別人のようで、わたしに対しては、その」
ユリウスは言葉を探しながら続けた。
「積極的で優しいの。でも、ヴェーラさんから見て、レオニードは石頭のままなのね?」
「率直に言えば、兄は理性が強過ぎて、心がないんじゃないかと思ったことはあるわ。でも、胸の奥には、家族や国に対する熱い愛があるのよ。本人が自覚しているかは疑問ですけれども」
ヴェーラによると、夫は、かつては明晰な頭脳と鋭い言葉で相手をやり込めることもあったが、最近は穏やかになったそうだ。
「変わったのは離婚してからよ」
と義妹はくすくす笑いながら言った。ということは、夫は離婚を後悔し、考えや行動を改めたのだろうか。やはりユリウスは前妻のアデールのことが気になる。
「彼女は、誰からも賞賛されていないと気がすまない性質なのよ。特に、男性は例外なく彼女にひざまずくのが当然、と考えているようにも見えるわ」
聞けば、社交好きなアデールは、パーティーはもちろんオペラやバレエ鑑賞、観劇にもよく出かけたそうだ。いっぽう、ユリウスは、ロシアに来て以来、まだ一度も劇場に行っていない。
「本当に賢い犬だこと」
レックスの活躍の記事が掲載された翌日に、財務大臣夫人が姿を見せた。いつも最初に聞かれるのは「赤ちゃんはまだか」なのに、その日はレックスの話題で始まった。
「もともと犬はとても鼻がいいんです。それにレックスは何にでも興味を持つんですよ」
レックスは、キルヒバッハさんの有能な愛犬ユリウスの弟犬だが、兄犬よりも好奇心旺盛で怖いもの知らずのように見える。キルヒバッハさんには、レックスに落ち着きがないのは飼い主に似たのだろう、とからかわれたものだ。
「何か特別な訓練をしているの?」
財務大臣夫人がレックスの話題を続けた。彼女は犬嫌いだったはずだ。そのために、ユリウスは、レックスと離ればなれに過ごすはめになったのだから。
情報通の財務大臣夫人は、大の噂好きだ。社交界の出来事や人物の行動を詮索するのが単に好きなのだろう、とユリウスは理解していた。だが、犬嫌いの夫人が、レックスの訓練内容に興味を持つとは、いったい何を知りたいのだろうか。社交界の情報の中心であり続けるためには、有名人の飼い犬の性格や行動にまで興味を持つ必要があるということだろうか。
ユリウスは、これまでも生い立ちのことを財務大臣夫人から何度も尋ねられた。財務大臣がユリウスを引き取り、ユスーポフ侯爵と結婚させるという話は、夫人にとっては青天の霹靂(へきれき)だったのだろう。
けれども、夫人の笑顔の下にある目は、いつになく真剣だ。
ユリウスは、とりあえず肩をすくめて見せた。
「本当のところは、よく知らないの」
これは全くの嘘ではない。ユリウスがレックスをベックさんのところに連れて行ったときには、訓練に立ち会うこともあったが、いつもではなかった。
それにしても、財務大臣夫人のこの声。この目つき。どこか別の場所で見たような気がする。記憶をたぐり寄せるうちに、はっと何かに思い当たったユリウスは、かろうじて声を立てるのは抑えたものの、驚いて思わず立ち上がってしまった。
「どうかなさったの」
ユリウスの動揺した様子に、笑顔で偽装された財務大臣夫人の目が、いっそう鋭くなった。まさか。
「わたしったら、ソコロフスキー伯爵夫人を訪問する約束でしたのに、すっかり忘れていましたわ。こんなときは、どうしたらいいのでしょう」
ユリウスはとっさに出まかせを言った。本当は、この後、イリーナの訪問を受けることになっているのだが。
財務大臣夫人は、「おやおや」と口元を緩め、あわてるユリウスに謝罪の手紙を書くことを勧めた。ユリウスは、翌日にイリーナを訪ねることにして、大急ぎで予定変更の依頼を使いに持たせた。
「急に予定の変更をお願いして、ごめんなさい」
翌日、ユリウスがイリーナを訪ねたら、いつもは客間か居間に通されるのだが、そのときは彼女の部屋に案内された。
「来てくださって嬉しいわ。一刻も早くお願いしたいことがあるの」
イリーナは犬の嗅覚が優れていると聞いて、レックスの力を借りたいという。
「ある物がある人のものかどうかを知りたいのよ。レックスだったら、匂いを嗅ぎ分けて判断できるかもしれないわ」
しかし、正直なところ、レックスがどこまでできるのか、ユリウスは詳しくは知らない。だが、イリーナは引き下がらなかった。
「結果が出せなくてもいいわ。とにかくやってみたいの。お願いよ、ユリア」
ある物とある人については、誰にも知られたくないそうだ。おしゃべりのできない犬なら秘密は守れるということだろう。一抹の不安がユリウスの頭をよぎった。
「かわいがると約束するわ。大切なお客さまと同等以上ですもの。お願い、ユリア」
逆にあまり過保護にするのも問題だ。しかし、何度も懇願されて、ユリウスも条件を出した。ユリウスとコロリョフが調査に同行することだ。
どちらにしてもレックスは忙しいので後日になることも説明した。レックスにとっては、宝探しの遊びのようなものかもしれないが、コロリョフといっしょに陸軍親衛隊でひと働きすることになったのだ。
イリーナは少し考え込んでから、結論を出した。
「ユリア、あなたがいてくれれば心強いわ。ありがとう。心から感謝します。レオニードにも同行をお願いしたいけれども、さすがに難しいわね」
とイリーナはユリウスの手を握った。その目が少しうるんでいるようにユリウスには見えた。
イリーナの部屋を出るときに、ふと目に入ったものにユリウスは仰天した。孔雀の羽根が部屋の片隅に飾られていたのだ。
「ユリア、どうかなさった?」
「いえ、なんでもないわ」
ユリウスは取り繕ったが、イリーナがユリウスの視線の先を見て察したようだ。
「あれは、あなただったのね」
イリーナも、猫の仮面の女性がユリウスだったとは気付かなかったらしい。イリーナのつぶやくような問いに、ユリウスは小さくうなずいた。
「わたしは、男性が苦手なのよ」
イリーナは小さく笑った。
男性嫌いの割には、レオニードに寄せる信頼が大きくないだろうか。そもそも結婚生活はどうなっているのだろう。ユリウスは、まだソコロフスキー伯爵に会ったことがない。彼はここ数か月の間モスクワで過ごしているそうだが。
ユリウスがレオニードをオペラ鑑賞に誘ったら、夫は、あまり気乗りしなかったようだが、活動的な妻を外出させる必要性は感じていたようだ。その数日後には、ユリウスはレオニードに手を預けて、劇場のシャンデリアの下を歩いていた。
夫が知り合いとすれ違うたびに足を止めて妻を紹介すると、妻は簡単な挨拶をする。そんなことを二、三回繰り返していたら、突如、着飾った社交界の人々の談笑がやみ、その場に緊張感が走った。ユリウスたちが、ある男女と鉢合わせしたのだ。会場の視線が二組の男女に集中している。
その様子から考えられるのは、おそらく女のほうは前妻のアデール。ユリウスの胸が波立った。
彼女は、噂にたがわず、人目を引かないではいられない華やかな貴婦人だった。彼女が身に着けている、不思議な色をした豪華な宝石のネックレスとブレスレットは、女性たちの垂涎(すいぜん)のまとだ。
いかにも大切に育てられた感のある貴婦人の姿に、男として育てられたユリウスは引け目を感じた。が、ユリウスも宝石の豪華さでは負けていない。婚約の記念に贈られた大きなサファイヤのネックレスが胸元で輝き、両手にはめられた指輪も存在感を主張していた。ユリウスは、こんな宝飾品をこれ見よがしに身に着けるのには抵抗を感じたものだが、この場では決して主張し過ぎではないと思った。コズロワのおかげだ。
アデールの連れの男は、身だしなみには、ことのほか気を使っているようだ。長髪もよく手入れされており、整髪料でつやつや光っている。その点、髪にまで細心の注意を払っているとはいえない夫とは異なる。しかし、りりしい夫や後見人たちに比べたら、その男はどこか薄っぺらな感じがした。まるで女王様の腰ぎんちゃくだ。
その風格ある女王様とつりあうのは、年齢に不相応なほどの威厳のあるユスーポフ侯爵ぐらいだろう、とユリウスは悔しいながらも思った。彼であれば、どんな華やかな女性と並んでも圧倒されないどころか、さらに魅力が増して見えるだろう。
ユリウスの揺れる心と周囲の緊張感をよそに、夫がユリウスを紹介したあと、二組の男女は、オペラの評判を話題にしただけで、すぐに離れた。
