ユリウスの肖像

7
ユリウスは、小さなボールを手に持って庭の片隅にある犬小屋に向かった。昨晩は夫が帰って来たので、レックスは書斎で過ごしたが、朝になるとコロリョフたちと遊んでもらうために犬小屋に戻ったのだ。
途中で、勉強時間のはずのいたずら坊主が小走りしているのを目の端でとらえたので、用心しながら犬小屋に近付いた。落とし穴はなかったが、尻尾を振って飛び出してきたレックスを見ると、ユリウスは思わず吹き出してしまった。
「レ、レ、ぷぷ」
何か言おうにも、レックスの顔が視野に入るたびに、笑いがこみあげてくる。
「お義姉さま、どうなさったの?」
どういうわけか引きこもり姫が姿を現した。
「ヴェ、ヴェーラさん」
結婚後も、義妹のヴェーラとは、二、三度しか言葉を交わしたことがない。本来なら、もっと丁寧に挨拶をすべきなのだが、このときのユリウスはレックスを指さすのが精一杯だった。
レックスは、ユリウスが手放したボールをくわえながら、ヴェーラに尻尾を振った。
「まあ、レッ、ぷぷ」
ヴェーラもレックスの顔を見るなり吹き出して、おなかを抱えて笑い始めた。ユリウスは、普段はにこりともしない義妹の大笑いに驚いて、何か言おうとしたが、レックスの顔を見るたびに笑いが込み上げて言葉にならない。ヴェーラも、レックスの顔を見ては吹き出している。
そんなふうに主人一家の女性二人が狂ったように笑っているのに気付いたコロリョフが、様子を見にやって来た。
「どうか、なさっ」
と言いかけたところで、声がひっくり返った。
「なんてこった!レックスにお館様なみの立派な眉が」
「お館様なみ」という言葉がヴェーラとユリウスをいっそう笑わせた。コロリョフも肩を揺らして笑っている。
レックスの体には黒っぽい部分もあるが、目の上は茶色だ。そこに、侯爵以上に太くて立派な眉毛が黒々と描かれている。犬のレックスに、人間のような、しかもくっきりとした眉があるのが、おかしくて仕方がない。
しかし、なぜ笑われているのかを理解できないレックスは、無邪気に尻尾を大きく振っている。
一団が大笑いしているときに、来客中のはずの侯爵が、客らしき男を連れて姿を現した。レオニードも客人も、妻たちが大笑いしているのを不思議に思ったようだ。
「皆でお楽しみのところを割り込んで恐縮だが」
普段は落ち着き払っているお館様も、このときばかりは、途中で言葉が途切れた。笑いを噛み殺すのが精一杯だったようだ。
いっぽう、客の男にはユスーポフ家の人々がこぞって大笑いしている理由がわからない。男は、彼らの興奮がおさまるまで挨拶は不可能だと悟ったようだ。そこで、犬のご機嫌伺いを始めた。
「はじめまして。君がレックスだね。君のおかげで命拾いしたのでお礼に来たんだ」
普段のレックスの顔を知らない男は、犬の個性的な顔に少しばかり驚いたようだが、微笑んでレックスのあごをなでた。
レックスのおかげで命拾いした男といえば、ニコライ・フルニチェフに違いない。ユリウスは男のほうを見やったが、レックスの眉毛も視界に入ってくるので笑いが止まらない。ヴェーラも同じ状況のようだ。
「太い眉毛が魅力的なハンサム君に助けてもらって光栄だ」
客の男は、恐れることなくレックスの太く黒々とした眉毛をなでた。すると。
「靴墨?君は靴墨で眉毛を描いているのかい」
真っ先に落ち着きを取り戻した侯爵がレックスの眉毛を指でこすると、少しずつ靴墨が落ちていき、犬の眉毛が薄くなった。
ユリウスもヴェーラもレックスの顔がいつもの顔になると、やっと笑いがおさまり、侯爵から男の紹介を受けた。やはりニコライ・フルニチェフだった。
ユリウスは夫の真意を測りかねた。ポポフさんによれば、ニコライ・フルニチェフは売国奴だというのに。
「ユリア、どうかしたのか」
夫が声をかけた。
「お客様の前でぼんやりして、ごめんなさい。レックスを男前にしてくれた、いたずらっ子にお礼をしなくては、と考えていたものですから」
ユリウスは笑顔をつくり、客人に手の甲を差し出した。
「失礼しましたわ、ニコライ・フルニチェフさん。お噂はかねがね」
続いて、ヴェーラも手の甲を差し出した。
「わたくしも、地元の情報誌で拝見したことがありますわ」
「私のことを評価する記事であれば良いのですが、残念ながらその逆の内容ばかりだ」
苦笑したニコライに、ユリウスは社交的な笑みを浮かべた。
「記事や噂はあてにならないこともありますわ。たいていの記事は一方的で、わたしにはそれらの真偽は確かめようがありませんもの。でも、あなたが犬嫌いではないということは、わかりましたわ」
「内心では、吠えられたり追いかけられたりするのを心配していたのですが、レックスは人なつこくて、胸をなでおろしているんですよ」
ニコライがそう言うと、驚くべきことにヴェーラが微笑んで口を出した。
「ジャーマン・シェパードは元々は牧羊犬ですもの。群からはぐれた羊を見つけたのかもしれませんわね」
先ほどの大笑いは別として、ユリウスはこれまで義妹がにこりとするのさえ見たことがない。
ニコライは、目を丸くしているユリウスにかまわずヴェーラに微笑んだ。なるほど、この男は、この笑顔で女心をつかんできたのだろう。整った顔立ちに、男らしい体格。見た目は悪くないのだ。
「ええ、まさに羊ですよ。レックスのお友達リストに私も加えてもらいたいものだ。もちろん、先にあなたのリストに載せていただけるのなら光栄なのですが、ユスーポフ嬢?」
「フルニチェフさんには、必要以上の異性のお友達がいると伺っていますわ」
いつになく多弁なヴェーラがいたずらっぽく言った。ユリウスは夫と顔を見合わせた。
その日の夕食には、初めてヴェーラが同席した。
「いつもはリュドミールが勉強の時間になると、レックスをわたくしの部屋に連れて来るのですが、今日は姿を現さなかったので様子を見に行ったんです」
ヴェーラは、レックスを追い返す気力もなく、そのままにしておいたらしい。すると、レックスは彼女にあまえてきたそうだ。やがてヴェーラもレックスに親近感を抱くようになったという。
ユリウスはこの義妹の過去を知らない。ヴェーラに対しては、夫は腫れ物にさわるような態度を取るときもある。弟は姉を元気付けようとしているようだ。

*
上半身がスカスカするドレスに、ユリウスは顔を引きつらせた。
「まさか、この装いで?まるで下着のようじゃない?」
サイズはぴったりなのだが、ナポレオン時代のエンパイアスタイルのようなドレスは、胸元はギリギリのところまでくくられ、肩にあるべき布は上腕にずり落ちたようなデザインだ。スカートの生地には、二本の足の影がうっすらと映っている。
「それでも、この仮面舞踏会には控え目なほうよ?」
そう言ったヤーシン夫人の衣装は、ユリウスのドレスに輪をかけてきわどいデザインだ。豊かで形の良い胸が今にもこぼれ落ちそうだし、薄い生地からは全身のシルエットが透けて見える。
夫からは仮面舞踏会には行かないようにと釘を刺されていたので、ユリウスは、いったんヤーシン夫人に出席を見送る旨を伝えたのだが、なんだかんだと言って彼女の口車に乗せられてしまった。
「まあ、夫の行動が気にならないなんて。秘密の相手と会うのかもしれないのに」
気にならないはずがない。実際に、ユリウスは、夫が怪しげな舞踏会に出席する目的が気になって仕方なかった。夫は邪な目的ではないと言っていたが。
「大丈夫、ばれたりしないわ。秘密は厳守なのよ」
この仮面舞踏会での出来事や様子を口にするのは、たとえ参加者同士であってもタブーなのだそうだ。口が軽いと見なされ、社交界から爪弾きにされるどころか、有力者たちを敵に回し、身の破滅につながるらしい。
それを聞いて、ますますユリウスは、夫の秘密は自分の目で確かめるしかないと考えた。
そういうわけで、夫に内緒でヤーシン夫人に準備を任せてきたのだが、こんなドレスを着るはめになるとは。想像していたよりもふしだらな舞踏会に違いない。にわかにユリウスは不安になったが、ヤーシン夫人になだめすかされた。
仮面を着ければ、顔の半分以上が隠れるので、おそらく誰かわからないだろう。ユリウスたちは、仮面を着け、赤いマントをまとって馬車に乗り込んだ。マントの縁には、レックスが好きなボールのような白い飾り玉がいくつかあしらわれている。まるで道化師になったようだ。
一時間近く馬車に揺られたところで、やっと遠くに灯りが見えた。ものものしい門番のいる鉄柵の門を通ってからも、トウヒの木々の間を行くこと十分弱、やっと正面玄関に到着したときには陽が傾きかけたところだった。北の都の夏は、夜の帳(とばり)がおりるのが遅い。
マントを預けると、梟(ふくろう)の仮面の男女が現れて、ユリウスたちを迎え入れた。女性のほうはやや年増に見えるが露出度の高い服装で、男性の方は黒い燕尾服姿だ。二人の梟の仮面はいずれも、ふんだんに羽根が付けられた手の込んだものだ。
「どうぞ心ゆくまでお楽しみください」
梟の仮面の男女は微笑んでいるつもりだろうが、仮面からのぞく目は鋭かった。
ヤーシン夫人に言わせると二人は「門番」で、来場者がふさわしい人物かどうか判断しているらしい。
豪華なクリスタルのシャンデリアの下で、シャンペンを受け取って周囲を見渡すと、女性のほとんどは、性的な魅力を極限まで訴えるドレスをまとっていた。男性は黒の燕尾服に首元のタイは白という正装だ。着けている仮面は、女性も男性も多種多様だが、参加者の地位や富を見せつけるように凝ったものだ。ユリウスの仮面も真珠の付いた猫だ。
さっそくヤーシン夫人は男性を見定めていた。彼女の夫は、彼女よりもずいぶん年上で、率直に言えば、財務大臣よりも太っちょで不細工なのだ。若くて美人の妻は思うところがあるのだろう。
「あの人、すてきね」
さっそくヤーシン夫人は、お目当ての男のほうへ向かった。途中、何人かの男に声をかけられ、その度に談笑しては、その場を離れていく。一人取り残されたユリウスは、そんな彼女を、ぽかんと見ていた。
とはいえ、いつまでも放心状態であってはいけない。ユリウスは武者震いをするように頭を振って、夫を探し始めた。ダンスのフロアにはいないようだ。
楽団の奏でるワルツを背に、館の奥の部屋に進むと、赤面するような絵がちらほらと壁に掛けられていた。いくつかの絵は、おそらく日本の版画だろうが、露骨過ぎて笑うしかない。
「楽しそうな子猫ちゃん、ぜひ一曲?」
この服装で、べったりくっついて踊るのはごめんこうむりたい。ユリウスが、にっこりして断ると、また別の男が声をかけてきた。
「シャンペンでも、いかがかな、子猫ちゃん?」
