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ユリウスがセルロイドの小さなボールを投げると、レックスがジャンプして器用にボールをキャッチした。そして軽快な足取りでユリウスのところに持ってくる。ユリウスは、そのたびにレックスの首をなでて、再びボールを投げてやる。

 

ユリウスは思い悩む気持ちをまぎらわそうと、レックスと遊んでいた。

 

ユリウスを混乱させたのは、「ユスーポフ侯爵の趣向?」というゴシップ誌の記事だ。根も葉もない無責任な情報を垂れ流す記事など無視すればいいのだが、これまで書かれた記事はどれもどこかに根のあることだった。

 

「私が妻に男装を要望したと言いたいのだろう」

 

夫はそう答えたが、ユリウスは腑に落ちなかった。

 

夫が妻の男装に露骨な嫌悪感を示さなかったことには、ユリウスはほっとしていた。ベルリンの後見人のように、「女らしくしなさい」とことあるごとに説教されることはなさそうだが、あまり歓迎されてもいないようだ。

 

「でも、実際には、あなたは、わたしが男装することを望んでいるようには見えなかったわ」

 

ユリウスは率直に言った。

 

「そのとおりだ。活動的な妻をとがめるつもりはない。むしろ、乗馬などを共に楽しめるのは歓迎する。しかし、男装の必要はないだろう」

 

「では、記者がユスーポフ侯爵が妻に男装を要求すると考えたのは、どうしてかしら?」

 

首をひねるユリウスに、夫は肩をすくめてみせた。

 

「おそらく私のことが誤解されているのだろう。そんな趣味はないのだが」

 

眉根を寄せて考え込んでいるユリウスの頬を、夫は両手で包んだ。

 

「さあ、二人の時間にしないか」

 

そのあとベッドを共にしたはずなのだが、その日の朝もユリウスは一人で目覚めた。

 

ある考えが、ユリウスの頭にちらちらとよぎる。

 

夫は軍隊という男の世界に身を置いている。夫は軍務に没頭するあまり、前妻とともに過ごす時間が十分とれなかったと認めている。しかし。

 

財務大臣夫人によれば、夫は女性に対して礼儀正しく接してはいたそうだ。けれども、多くの同年代の男性のように、女性にあまい言葉をささやいたり、女性の気を引いたりすることはなかったという。夫の地位や財産をもってすれば、特に女性のご機嫌を取る必要はなかったからだろう、と財務大臣夫人もニッツ夫人もユリウスも解釈していた。

 

けれども、夫の興味の対象は女性以外にあるのかもしれない。もしかしたら同性愛者。夫がツァールスコエセーロに妻の同行を求めなかったのも、秘密の恋人がいるからかもしれない。

 

財務大臣夫人でさえ思いもつかなったことを、ゴシップ誌の記者は知っていて、あんな記事を書いたのだ。ユスーポフ侯爵は妻を男に見立てようとして男装させたのだと。

 

夫が同性愛者だとしても、侯爵家には後継が必要だ。そのためには妻と関係を持たざるをえないが、女性には興味がないので、妻との交渉を最小限に抑えているのだ。そして、彼は自身の好みを隠すために、妻に対して優しく振る舞っているのではないか。

 

そんなふうに、考えがおかしな方向へいってしまい、ユリウスは混乱していたのだ。

 

レックスは、ユリウスの心がここにあらずなのに気付いたのか、ぼんやりしたユリウスの目の前で行儀よくお座りをして首をかしげている。

 

ユリウスは、もやもやを振り払うように頭を振って、かけ出した。

 

「走ろう、レックス」

 

 

 

 

夫の不在中、ユリウスは財務大臣夫人のちょっとした茶話会に出かけた。そこで、隣り合わせになったヤーシン伯爵夫人から驚くべき話をこっそりと耳打ちされた。彼女とはペテルゴフで会ったような気がする。

 

「なんでもユスーポフ侯爵が『特別な』仮面舞踏会に出席なさるとか。奥さまもいらっしゃるのかしら?」

 

ヤーシン夫人は顔に怪しげな微笑を浮かべている。ユリウスは、通常の仮面舞踏会でさえどんなものか知らなかったが、努めて涼し気な顔をして、ひそひそ声で返した。

 

「通常の仮面舞踏会ではなくて?」

 

「あらあら、そうですの?」

 

ヤーシン伯爵夫人は口元を扇で隠しているが、いやらしくゆるんだ目元から察すると、下品な笑い方をしているようだ。

 

きっといかがわしいパーティーに違いない。ユリウスは、そう直感した。妻に隠れて、夫がそんな「特別な」パーティーに出席するなんて。近日中にイリーナに、その「特別な」仮面舞踏会とやらについて、こっそり質問してみよう。いえ、夫の口から直接聞くべきだ。

 

そのチャンスがやってきた。夫が当初の予定より早く帰宅したのだ。しかし、夫が邸に到着したのが夜更けだったために、ゆっくり話す時間もなく、そのままベッドに連れ込まれてしまった。

 

いつもは房事が終わると、ユリウスは夫の肌の感触が心地良いためか、疲労のためか、すぐに眠ってしまった。しかし、このときは、夫が同性愛者ではないかという疑いと、例の怪しげな仮面舞踏会のことが気になって、寝付けなかった。

 

夫婦の営みが終わってからは、夫は、しばらくの間、無言でユリウスの頭や頬をなでていたが、おもむろに起き上がり、ガウンをはおって自室へと消えてしまった。

 

ユリウスは声が出なかった。ベッドで一人残されたユリウスの胸に言いようのない孤独感と悲しみがこみ上げ、目に涙がたまってきた。

 

しばらくしてから、ユリウスも起き上がってガウンをはおった。ランプの灯りをつけて、デスクの鍵付きの引き出しから数枚の写真を取り出した。ニッツ夫人とキルヒバッハさん、そしてユリウスの三人で写っている写真だ。

 

――ニッツ夫人、キルヒバッハさん、会いたい

 

キルヒバッハさんは強くて優しい人だ。厳しく叱られたときもあったが、ユリウスのためを思ってのことだ。叱られたことも、いまは懐かしい。

 

ニッツ夫人は優しくて強い人だ。ありのままのユリウスを受け入れ、忍耐強く見守ってくれた。ユリウスが沈んでいるときも、得意になっているときも、機転のきいた励ましの言葉やぴりりとした戒めの言葉をかけてくれた。

 

二人のおかげでユリウスは人生を立て直すことができたと思っている。二人から学んだことは、愛と勇気だ。人を殺したことのある女の子を預かることは、愛と勇気がなければできないことだ。

 

ユリウスも、愛されることばかり考えるのではなく、愛することを意識するようになった。そして、勇気をもって夫を愛そうと決意して、ここロシアにやって来たのだ。ことにキルヒバッハさんがユリウスのために組んでくれた縁談なのだから、夫は悪い人ではないはずだと信じていた。

 

三人で写った写真を眺めながら、ユリウスはむせび泣いた。二人に会いたい。そして、キルヒバッハさんをなじりたい。夫の趣味を知っていながら、わたしを嫁がせたのかと。

 

泣きたいときは泣けばいい。ニッツ夫人もキルヒバッハさんもそう言ったが、言われなくてもユリウスは泣いたものだ。しかし、ユリウスは涙をぬぐって前を向いた。こんなときは考え方を変えるに限る。

 

ベルリンでは十分に愛された。ここでも、少なくともレックスは裏表なく愛してくれる。コズロワやコロリョフも主人思いの人たちだ。リュドミールのいたずらには手を焼くが、完全に無視されるよりもましだ。イリーナも、ユリウスに近付いてきた魂胆は図りかねるが、どうやら悪意はなさそうだ。財務大臣夫妻もユリウスに親切だった。

 

問題は夫だ。ユリウスは、夫が自分のことをどう思っているのかが気になって仕方がない。愛されたいと思う。それは誰もが持つ自然な感情だが、この感情とはうまく向き合わなければ苦しくなる。相手の心を自分の思うように変えるのは難しいからだ。

 

――レックスに会いに行こう

 

そう思い立って部屋を出た。こんな夜更けに使用人の手を煩わせるのは、あまりいい主人とはいえない。あとできちんと感謝の気持ちとともに褒美を出そう。

 

ユリウスが階段を下りると、レックスが吠える声がしたような気がした。きっと空耳だろう。レックスが屋内にいるはずがないのだ。

 

ユリウスが二階にさしかかると、階段に近い夫の書斎から灯りがもれていた。怪訝に思ったユリウスが近付くと、またもや犬が吠えた。間違いなくレックスだ。

 

「レックスなの?」

 

ユリウスが声をかけると、書斎のドアが開いてレックスが飛び出してきた。続いて夫の声が聞こえた。

 

「奥さまがいらっしゃるとは、感無量だ」

 

飛びついてきたレックスを抱き上げ、重いよ、とユリウスがぼやくと、夫がレックスを取り上げた。

 

「あなたは、こんな夜更けにお仕事を?それに、どうしてレックスがここにいるの?」

 

レックスは夫に驚くほどなついている。初対面のときから、夫の後についていってしまったぐらいだ。レックスは、相手が自分が好きかどうかわかるらしい。ひょっとしたら、夫は妻といるより犬といるほうが好きなのかもしれない。同性愛ではなく犬への愛だ。

 

夫は片手で妻の頬をなでながら言った。

 

「おやおや、顔がこわばっているようだ」

 

「ええ、何がどうなっているのか、のみ込めないの」

 

夫はレックスを抱き直しながら言った。

 

「レックスを預かってから間もない頃だ。夜更けに帰宅したところ、忍耐強い犬なので鳴くことはなかったが、痛々しいほど寂しげだったので、書斎に入れたのだ。もちろん、昼間はコロリョフがよく世話をしていたが、やはり大好きな奥さまと離れて寂しかったのだろう」

 

そのとき以来、夫は、在宅時には、レックスが夫のそばで過ごせるように書斎に入れてやったのだという。

 

夫はそう説明すると、レックスをなでて、床にしつらえてある犬用の寝床に降ろした。

 

そうだった。レックスも寂しかったはずだ。

 

「レックス、寂しい思いをさせて、ごめんね」

 

ユリウスはそう言いながら、何度もレックスの背や首をなでた。そして、立ち上がって夫に抱きついた。

 

「レックスをとても大切にしてくれて感激だわ」

 

ユリウスが感激したのは事実だ。しかし、もやもやがどこかに残る。レックスは上目づかいで二人のやり取りを見ている。レックス、レックスと何度も名前が挙がるので、気になるらしい。

 

「でも、あなたはレックスの世話をするために書斎に戻ったの?」

 

夫は肩をすくめて言った。

 

「レックスのそばも悪くないが、可愛い奥さまのそばのほうが断然いいのだが」

 

「え?」

 

ユリウスは耳を疑った。

 

「可愛い奥さまのベッドから抜け出すのが、どれほどの苦行か理解してもらいたいものだ」

 

ユリウスは混乱した。が、すぐに夫の顔がせまってきて、唇がふさがれてしまった。

 

「だが、奥さまの誘惑にあらがえるはずもない。レックス、おやすみ」

 

夫は、唇が離れるとそう言って、ユリウスの肩を抱きながら書棚の一角に向かった。書棚のその部分は隠し扉となっており、その奥には階段があった。書斎のすぐ上は夫の部屋だ。彼はこの隠し階段を通って、書斎と自室を行き来していたのだ。

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その後の夫はいつもと違った。これまでの彼はユリウスに優しかったが、どこか気を遣っている感じがしたものだ。しかし、このときは、遠慮なくぶつけられる男のエネルギーに、ユリウスも夢中になって応えた。

 

ユリウスは初めて夫の部屋で、彼のぬくもりを感じながら目覚めた。しかし、ぼんやりする間もなく、夫の熱を帯びた瞳がみるみる近付き、有無を言わさず夜の続きが始まった。すでに日は高く昇っていた。

 

 

 

朝食兼昼食のときに、夫が夜のベッドから抜け出した理由を明かした。夫は、ユリウスが初めてのときに痛がっていたので、嫌われたくない一心から男の欲望を抑えたのだそうだ。

 

「だが、奥さまの隣で自制するのは拷問だ」

 

だから、夫はことが終わるとさっさと書斎に向かって、軍務や侯爵家の運営に必要な情報収集や思索、あるいは侯爵の決裁を待っている書類に没頭しようとしていたらしい。幸か不幸か、なすべきことは山積している。

 

それを聞いたユリウスは笑った。

 

「てっきり、わたしよりもレックスのほうが、あなたにとって大切なのかと思って、複雑な気持ちになったわ。あなたのことが好きだもの」

 

ほっとしたユリウスは、以前からあれこれ悩んだことも夫に正直に打ち明けた。

 

「私が同性愛者か」

 

夫は小さくため息をついてみせたが、目は笑っていた。第一印象は若干冷たそうな夫だったが、ともに暮らすうちに彼が思慮深く思いやりのあることを知って、ユリウスは嬉しくなった。夫の美点を発見するのは喜びだ。

 

夫が笑顔を見せたところで、ユリウスは、正面切って「特別な」仮面舞踏会について尋ねてみた。

 

「奥さまが好奇心旺盛なのはけっこうだが、良識と品位のある女性が興味を持つべき舞踏会ではない。ご想像のとおり品格がある集まりとは決して言えないからだ」

 

「やはり、そうなのね。ヤーシン伯爵夫人の様子から、いかがわしそうなイベントだとは思ったわ。もちろん、あなたが参加するというのは嘘ね?」

 

「気が進まないが、事情があるのだ」

 

ユリウスの目が厳しくなったのを察して、夫は続けた。

 

「おや、嫉妬してくれるのか?それは嬉しいことだ。だが、決して邪な理由ではない。誓って恥ずべきことはしない。これ以上は聞かないでくれ。奥さまを巻き込みたくない」

 

しばらくユリウスは考え込んだ。

 

「わたしに何かお役に立てることはないのかしら?あなたには、深夜に書斎ですべきお仕事にこと欠かないほど忙しいんですもの。例えば、わたしが、あなたの代理で、ポポフ夫妻のようなご家族のお見舞いに行くのはどうかしら?」

 

そしてユリウスはポポフ夫妻と会ったことを話した。

 

「私の身を案じてくれる優しい奥さまを誇りに思う。だが」

 

夫は、険しい顔をして妻の無茶な行動に不快感を示した。そして、危険なことは二度としないようにと釘をさした。これがキルヒバッハさんだったら説教が続いただろう。

 

それでも、夫は少し考えてから、侯爵家が多大な寄附をしている施設の視察を妻に提案した。

 

 

 

一週間後、地元のゴシップ誌「ネフスキー・ガゼートナヤ」は、ユスーポフ侯爵夫人が音楽学院の学内演奏会に視察に訪れたことを報じた。

 

「ユスーポフ侯爵夫人、怪我をした学生の代理で急遽ピアノ伴奏。ミスを連発するも、よく健闘したと関係者は評価」

 

(2022.02.08)

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