ユリウスの肖像

5
さわやかな風が気持ちのいい日だった。ユリウスは、レックスと遊んで過ごそうと庭を歩いていた。
夫は前日に陸軍親衛隊が置かれているツァールスコエセーロに戻っていた。ペテルスブルクに帰るのは一週間後の予定だ。
「しばらくペテルスブルクで落ち着いて過ごすといい」
ユリウスがツァールスコエセーロまで同行するとなると、そこでの社交に加わることになり、気疲れするだろうから、と夫は気を使ってくれたのだ。
確かに、ユリウスはロシアに来てからというもの、目まぐるしく過ごしてきたので、あと少しゆっくりしたかった。だから、夫の言うことはもっともだと思った。
しかし、考えてみれば、新婚の夫婦が離れて暮らすのは不自然で、妻も夫に付き従って皇帝の村とかいう場所に行くべきではなかっただろうか。それとも妻に来てほしくない理由でもあるのだろうか。そんなことを思い巡らせながら庭を歩いていたときだった。
「きゃあああ」
着地すべき地面に足が当たらなかったので、転びそうになったユリウスは、バランスを取ろうと腕をバタバタさせながら悲鳴をあげた。が、やはり転んでしまった。穴が掘られていたのだが、ご丁寧にも上に雑草が置かれていたために気付かなかったのだ。
「いたたた」
ユリウスはうめいた。
「あはははっ、引っかかった」
植え込みの陰から笑い声が聞こえた。ユリウスは、転んだまま、笑い声のするほうをにらんだ。そして、小さな人影がすばしこく逃げるのを見逃さなかった。体を動かすと痛みが走ったが、ユリウスは立ち上がって叫んだ。
「待ちなさい、リュドミール!」
どこかからレックスが現れて二人のあいだを行き来した。ユリウスから怒りを感じ取ったのか、とまどっているようだ。
次にコロリョフが現れて、髪を振り乱して、ドレスに泥や草を付けた侯爵夫人の姿に目を丸くした。
「奥さま…」
ユリウスがリュドミールを追い詰めたと思ったら、いたずら少年は近くの樫の木に登り始めた。レックスも後に続いて登ろうと頑張ったが、無理だったようだ。
レックスと違って、ユリウスは木に登って少年を捕まえる自信はあった。だが、外働きの使用人たちが何事かとぞろぞろと集まり始めたので、ワンピースを着ていたユリウスは、皆の前で木に登るのはあきらめざるをえなくなった。やがてコズロワまでやって来て顔をひきつらせた。
「奥さま、お召し物が」
続けてコズロワは木の上のわんぱく坊主に向かって言った。
「リュドミールぼっちゃま、旦那さまにお話ししておきますからね」
ユリウスはコズロワに促され自室に戻ったが、やられっぱなしのままでは腹の虫がおさまらない。
「コズロワ、用意してほしいものがあるの」
コズロワはユリウスの要望にあきれたようだったが、そこは由緒ある侯爵家に仕える者らしく、すぐに真面目な顔で了承した。
ユリウスの着替えの手伝いをしながら、ため息まじりにコズロワが言った。
「わたしどもも、ぼっちゃまの悪ふざけには手をやいております」
いたずらは男の子にはよくあることだが、リュドミールは、叱るべき主人が不在のときを狙って悪さを実行するそうだ。後から侯爵に説教されても、まるで効果がないという。姉のヴェーラは引きこもっているし、年老いた家庭教師は、わんぱく盛りの男の子がいたずらをしないほうが不健全だと言って取り合わないらしい。
コズロワたちは、ユリウスが彼を罰することを期待しているようだ。侯爵家の女主人には、不在の侯爵に代わって、いたずらっ子を罰する権限がある。
貴族といえども子どもは無作法なものだ。上流階級の家庭では、子どもと大人の過ごす区画が分離されているのは、それゆえだろう。子どもは子ども部屋で過ごし、庭に出る時間も管理され、特別なばあいを除いて、食事も別だ。ユスーポフ家では、子どもは、子ども部屋に厳しく閉じ込められるわけではないが、原則として、大人たちの食卓に着くことはない。
義妹は、あいかわらず部屋に閉じこもっているので、結婚してからというもの、ユリウスは夫と二人で食事をしていたのだが、その日も前日もユリウスは一人きりで食事を取った。
――ツァールスコエセーロへ同行すべきだったかしら?
そんなときに、ソコロフスキー伯爵夫人からお茶のお誘いがあったものだから、ユリウスは喜んで出かけた。伯爵夫人はユリウスの新婚生活に興味津々のようだ。
「社交界では新しいユスーポフ侯爵夫人に注目が集まっているわ。ずいぶんあのゴシップ誌に取り上げられているのね?」
あのゴシップ誌とは「ネフスキー・ガゼートナヤ」のことのようだ。
ユリウスもベルリンでゴシップ誌を読んだことがある。頻繁に取り上げられるのは、有名人や上流階級の乱行や醜聞だ。まるで私生活をのぞき見しているような内容もある。些末なことに尾ひれがつけられて針小棒大に書かれるだけでなく、辛口批評まで付いてくる。
「誰も見ていないはずなのに、しっかりと記事にされていて、まるで誰かが木の上にでも張り付いて、わたしたちを監視しているようだわ」
うんざりとした口調でユリウスが言ったが、伯爵夫人には別の考えがあるようだ。
「かくいうわたしも、少なからず記事にされてきたわ。でも、記事をきっかけに、いろいろな人が声をかけてくれたの」
確かにソコロフスキー伯爵夫人は、その装いが頻繁に取り上げられている。その日も繊細なレースが施された、有名工房のドレスをまとっていた。イリーナは自説を展開した。
「ユリア、あなたに関しては、今のところは悪くはない内容よ。そのうちに牙を向けてくるかもしれないけれども、噂になったり記事で取り上げられたりして、名前が知られれば知られるほど、世間に受け入れられていくものよ」
帰り道に事故があったようなので、ユリウスの乗った馬車は往路と違う道を通った。角に差しかかったときだ。ある民家の前でロストフスキー少尉らしき軍人が待機しているのが遠目に見えた。
ロストフスキー少尉は陸軍親衛隊長付きの士官で、上官の、つまり夫の雑事もこなしている。夫からは極めて有能だと聞いているが、結婚披露宴のときも、夫を迎えに侯爵邸に来たときも、寡黙で無表情なままだった。
その少尉がいるということは、近くに夫がいる可能性が高いということだ。
――何をしているのかしら?
夫は一週間ずっとツァールスコエセーロに詰めることになっていたはずだ。ペテルスブルクに来るのなら、侯爵邸に寄ってくれてもよさそうなのに、と思う。
ユリウスに持ち前の好奇心がもたげてきた。
角をとおり過ぎたあたりで馬車から降りて、物陰に隠れて様子をうかがった。この習性はどうやら修正不可能なようだ。別にコソコソしないで声をかければ済むことなのだが。
やがて夫らしき男が民家から出てきた。
――やっぱりレオニード?
次いで女性が姿を現した。女は夫を見送っているようだ。ユリウスは混乱した。夫が女性の見送りを受けているなんて。
――まさか隠し妻?
その考えが頭をよぎったとたん、ユリウスはむしゃくしゃした。どうやら、自分以外の女と会っているのが感情的に許せなくなるほど、あの夫が好きになったらしい。いや、道徳的にも、夫が妻以外の女と相引きしているのは、妻として許すわけにはいかない。
――朝目覚めると一人だったのは、そういうわけだったのね。わたしとの関係は最小限にしたいと
前妻も夫の不倫を突き止めたに違いない。社交会の最上流にいる前妻にしてみれば、中流女性に夫を取られたとことは屈辱だったはずだ。だから噂が立たないように手を尽くしたのだろう。
馬に乗った夫たちが反対方向に向かうのを見届けると、ユリウスは馬車に乗り込み、夫が女と会っていた民家に馬車を向かわせた。
馬車の中から建物をうかがっていると、二階の部屋の窓から女が顔をのぞかせた。先ほど夫と会っていた女と同じような服を着ている。女は驚いたように口をぽかんとあけたが、すぐに窓を閉めてしまった。その様子を見たユリウスは、何かあると直感した。馬車を降りて入口に向かうと、その女が出てきて遠慮がちに声をかけた。
「あの、もしかしたらユスーポフ侯爵夫人ですか」
ユリウスのことを知っていたらしい。
「ええ、そうです。どうしておわかりになったのかしら」
「侯爵様からお人柄をうかがっておりましたので。わたしはリュドミラ・ポポワと申します。あの、何か」
ポポワは困惑していた。
「侯爵が先ほどまで滞在していたようですわね」
ユリウスのきつめの口調に、ポポワはあわてたようだったが、すぐに微笑んで、ユリウスを家のなかに招き入れた。
ユリウスは、夫とポポワは男女の関係にはないと考えた。第一、関係を持った男の妻を家のなかに入れるだろうか。それに、女性が見送りをしていたとしても、その女性が一人で暮らしているとは限らず、家族がいると考えたほうが適切だ。
素性のわからない人の家に入るのは危険なことだ。だが、ユリウスは夫の行動を把握したいという気持ちに負けた。御者はあきれていた。
「わたしの夫は、モスクワで侯爵様の指揮下で一人の士官として反乱軍と戦ったんです。そのときに足にひどい怪我を負い、切断したのです」
レオニードは除隊になったポポフを援助しているそうだ。
「子どもたちが学校に行けるのも侯爵様のおかげです」
ユスーポフ侯爵は、共に戦った兵士を見捨てない。ポポフのような境遇の元兵士らを階級にかかわらず様々な形で援助しているという。それを知ったユリウスの胸にあついものがこみ上げてきた。夫はすばらしい人物だ。
「ですので、侯爵様の再婚を心からお祝いしています。今日は奥さまのこともお聞きしましたの」
夫のユリウスに対する考えは気になるところだ。そんなユリウスの心を読み取ったかのように、リュドミラは続けた。
「侯爵様は、奥さまはすばらしい女性だとおっしゃっていました」
リュドミラはユリウスの外見なども聞いたらしい。だから、ユリウスが現れたときに侯爵夫人だとわかったそうだ。
「お話ししてくださって感謝しますわ。おかげさまで、結婚したばかりの夫の一面を知ることができましたもの。ところで、夫はたびたび訪れるのでしょうか」
「一年に二回程度なのですが、二か月前にいらしゃったばかりなので驚きました。今日は、ニコライ・フルニチェフのことをお尋ねになりたいとのことでした」
ニコライ・フルニチェフは運河で血まみれの状態でレックスに発見された男だ。命に関わるような重い傷の他に、全身に切り傷や擦り傷、打撲の痕があった。ゴシップ誌によると女性関係が派手で、羽振りのいい生活をしていたらしい。
ユリウスは義足のピョートル・ポポフとも話した。
「あの男はイギリスのスパイです」
日本との戦争の前のことだ。ニコライ・フルニチェフは、中央アジアでロシアと対峙するイギリスに便宜を図り、その見返りを受けていたという噂が流れた。
「確たる証拠はあがっていないのですが、私の戦友のなかにも、あの男の保身のために犠牲になったと思われる者が何人かいるのです」
*
「奥さま、試着なさいますか」
コズロワがユリウスが頼んだ服を持ってきた。侯爵家では仕事が速い。聞けば夫の十代の頃の服を仕立て直したという。ユリウスが試着をしてみたら、ぴったりだった。散歩の時間には、急遽こしらえてもらった服装で、いたずら坊主に対決するつもりだった。
そのいたずら坊主は、ユリウスの姿を見て、目を丸くして叫んだ。
「へんなかっこう」
ユリウスがにらみつけると、義弟はもじもじしながら、きれいな絵がついた箱をユリウスに手渡した。お菓子が入っているような箱だった。
「あの、これ、これまでのこと、ごめんなさい」
いたずら坊主にも可愛いところがあるじゃないの、とユリウスは内心感激して、思わず少年を抱きしめた。
「ありがとう。嬉しいわ。何かしら」
「あとで開けてみてください」
リュドミールは、うつむいて照れているのを隠すように、すぐに背を向けた。
「レックス、行こう」
走るのが大好きなレックスは、リュドミールのあとについていった。
「何かしら」
「奥さま、少しお待ちに」
隣にいたコズロワとコロリョフが心配顔で何か言いかけたが、気の早いユリウスが箱を開けてしまった。すると箱から何かが、ぴょーんと飛び出してユリウスの顔にはりついた。
「きゃあああ!」
ユリウスは、悲鳴をあげると同時に、恐怖と驚きで反射的に顔の異物を払いのけた。その物体は、地面に落ち、その後もぴょんぴょん飛び跳ねている。カエルだった。
「リュドミール!」
頭に血が上ったユリウスは、少年を追いかけた。木に登れば逃れられると思っているのなら、大間違いだ。ユリウスも木に登って、引きずりおろしてやるつもりだった。そのためのズボンなのだ。
玄関に馬車が到着した。リュドミールは、レックスとともにいち早く玄関に到着して、何事もなかったような顔をして待機した。
「おにいさま、おかえりなさい」
「リュドミール、今日の日課はすませたか」
夫が帰宅していることも知らずに、血相を変えたユリウスが、ドタバタと息をきらしながら玄関にかけ込んで叫んだ。
「リュドミール、なんてことをしてくれたの!」
叫んだ後に、ユリウスは軍服に身を包んだ夫がいることに気付き、顔から、さあっと血の気が引いた。夫はズボンをはいて怒鳴った女性が妻だと気付くと、少し顔をしかめて言った。
「奥さま、何か問題でも?」
夫の後ろで、憎たらしい小僧は、ユリウスに向かって舌を出してみせた。ユリウスはいたずら小僧をにらんだ。夫は妻の目線の先を追ったが、そこにはリュドミールが礼儀正しく立っているだけだった。
夫は妻の服装にも違和感を覚えたようだ。
「仮装パーティーでもあったのか?」
憎たらしくても、要領のいい子どもの前で逆上するのは得策ではない。
「ええ、リュドミールの課題の量が足りないのが原因で、エネルギーと時間を持て余し」
とユリウスが言いかけたところで、夫の後ろに隠れていたリュドミールがまた顔を出して、舌を出し、目を白くして、先ほどよりもへんな顔をしてみせた。
「ぷぷぷぷ」
ユリウスはこらえきれなくなって、ケラケラと笑い始めた。夫は何がおかしいのか首をひねって、小さくため息をついた。
「奥さま、楽しげなところを恐縮だが、あいさつはしてくれないのか」
ユリウスは笑いながら夫の胸に顔を埋めた。侯爵は怪訝な顔をしたままだ。レックスは三人の周りでしっぽを振っている。
翌日の地元のゴシップ誌、『ネフスキー・ガゼートナヤ』は、ユスーポフ侯爵夫人が男装して走り回り、大笑いをしていたことを報じた。
「ユスーポフ侯爵夫人が男装⁉︎乱心か、あるいは侯爵の趣向か?」
(2021.09.19)