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ユリウスは、翌朝も一人で目覚めた。前の晩は確かに夫といっしょだったはずだ。

 

その夜の出来事を思い出して、ユリウスは顔を赤らめた。夫の愛撫がやさしく首から胸へ、そしてその下へと移動し、さらにその下へと向かった。けれども、ユリウスが初めての感覚にとまどいながらも悦びを感じていたときに、突然ものすごい痛みを覚え、痛い、と大声で叫んでしまった。そして夫婦の行為が終わって間もないうちに、ユリウスは眠ってしまったようだ。

 

痛がったことや、終わったあとにすぐに眠ってしまったことが失敗だったのだろうか。夫を満足させられなかったのかもしれない。もしかしたら自分には女としての魅力がないのかもしれない。

 

ユリウスがため息をつきながらベッドから起きあがろうとしたとき、腰のあたりに鈍痛が走った。コズロワを呼んで着替えたあとも、まだ腰が痛む。ユリウスはカウチにへたりこむように腰かけた。

 

そのとき、奥のドアから夫が入ってきた。

 

ユリウスは夜のことを思い出し、どんな顔をしたらいいのかわからずにまごついたが、夫のほうは涼しい顔をして、ユリウスの頬にキスをしてきた。

 

「今朝は一段ときれいだ、奥さま。調子はどうだ?」

 

ユリウスは、きれいだと言われて嬉しさと照れ臭さを感じて顔を赤らめた。そんなユリウスに夫はもう一度頬にキスをした。

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朝食の席で、その日の午後に予定されていた皇帝陛下の謁見が延期になったと夫から説明があった。その理由ははっきりとは言及されなかったが、政治的な対立が背後にあるとユリウスは推測した。噂では、皇后が頼りにしている僧侶と夫は敵対しているらしい。

 

その日、動くたびに痛そうにしていたユリウスに、夫がゆっくり過ごすように言った。だからユリウスは自室でしばらくソファにもたれかかっていたのだが、体の中心部が痛むたびに、考えが夫婦の夜の営みのことにいってしまう。

 

夫を満足させられなかった妻であっても、夫はやさしく接してくれる。きっと騎士道精神を発揮して、魅力に乏しい憐れな女性に気をつかっているのだろう。

 

けれども、そんなことばかり考えても仕方がない。ユリウスは思いついたように帽子と本を持って庭に出た。

 

前日、散策した庭に、一人静かに読書するのに、もってこいの場所を見つけていた。レックスが、尻尾を振ってやって来たが、しばらくいっしょに棒を投げて遊んだあとコロリョフに引き取ってもらった。いっしょにかけ回ることなんて、とてもできなかったからだ。

 

 

 

 

数日後、ユリウスは夫婦で鉄道の駅に立っていた。つい二か月ほど前に、ニッツ夫人とともに汽車から降り立った場所だ。とうとうそのニッツ夫人と別れのときがきてしまった。ユリウスの目には涙があふれていた。

 

ニッツ夫人は三人の男子を育てた女性だ。彼女の息子たちの話を聞いて、ユリウスはいかに自分が男性として不完全だったかを悟ったものだ。

 

ニッツ夫人の考え方や行動は実母レナーテと違っていた。また、慎重さと女性らしいしなやかな強さを合わせ持っていた。

 

実母のレナーテはやや直観的衝動的で、一見おっとりした面があったが、なんといっても十数年間も心を鬼にしてユリウスを男として育ててきた女性だ。頑固な面がなきにしもあらずだった。そして、その実母の性格や行動は、ユリウスのそれにも影響を与えてきたことに、ニッツ夫人のもとで暮らしているうちに気付いたものだ。

 

また、未婚のレナーテは一人で母親と父親の二役をこなさなければならなかった。そのため、ユリウスは妻と夫の役割の違いを認識することなく育ち、妻が夫にどのように接するのかを両親から学ぶこともなかった。

 

かたやニッツ夫人は、妻として夫を尊敬し夫を立ててきたことが、夫婦円満の秘訣だったと語った。片親の姿しか見てこなかったユリウスは、興味深くニッツ夫人の話を聞いたものだ。

 

結婚式の前夜には、男はプライドの生き物であるとか、だからほめることが大切だとか、時に子どもと同じだと思ったほうがいい等々経験をまじえてユリウスに話してくれた。いくつかの内容は、ユリウスを赤面させたのだが。

 

そのニッツ夫人とは、この日を限りにして手紙さえ出すこともできなくなる。もし犯罪組織に生き残りがいて、死んだことになっているユリウスが生きていることが知られたら、ニッツ夫人やキルヒバッハさんも報復の標的になるだろう。ひょっとしたら夫にもその影響が及ぶかもしれない。

 

 

 

 

ユリウスは夫とニッツ夫人への贈物について考えた結果、既に夫の頭のなかに案としてあったものを取り寄せて準備した。

 

「まあ、きれい。最高に美しい花嫁さんね」

 

それは、花嫁衣裳姿のユリウスの写真だった。金に色とりどりの繊細なエナメル装飾が施されたファベルジェ製の額縁に入っている。ファベルジェは皇室がイースターエッグを発注している有名な宝飾品の工房だ。

 

二人は他にも何枚かの写真の入った茶封筒もニッツ夫人に手渡した。いずれもユリウス一人で写っているもの、ニッツ夫人と二人で写っているものばかりで、夫を始めロシア人の写っている写真は一枚もなかった。侯爵たちの姿が写っていれば、万一のばあい、その写真を手がかりにしてユリウスの居所が知られてしまう危険性があるからだ。

 

だが、ユリウス一人の写真なら、たとえココシニクを被っていたとしても、お遊びで婚礼の衣装を身につけていたなどと言い訳ができる。

 

ニッツ夫人は涙ぐみながら、侯爵を見て言った。

 

「侯爵様、ユリアは、わたしの大切な娘です。ここに一人残していくのはとてもつらいのです。ここでは血のつながった家族もいなければ、まだ親しい友人もいません。あなただけが頼りなのです。ですからユリアをどうか大切にしてください。そして、そうしてくださると信じています」

 

「大切な娘」という言葉に、ユリウスはこらえきれずにニッツ夫人に抱きついて泣き始めた。ニッツ夫人もユリウスを抱き返した。これまで何度もニッツ夫人と抱擁を交わしたが、それも今回で最後だ。

 

初めてニッツ夫人に紹介されたときの言葉はいまもよく覚えている。これからも決して忘れることがないだろう。

 

「わたし、女の子が欲しかったの」

 

そのひと言が耳に届くと同時にユリウスの心の奥底の何かに触れて、堰を切ったように声をあげて泣き始めてしまった。ユリウスがあんなに大声で泣いたのは生まれて初めてだった。

 

そのときはどうして号泣したのかわからなかったが、あとになってから、女の子の自分でも、受け入れられ、欲しいと言われたことに感極まったのだろうと考えた。それまで実母にさえ否定された女の子としての生を、初めて許されたと感じたのだ。

 

もっとも、息子ばかり、しかもその全員に先立たれたニッツ夫人には、男の子を預かるのはつらかったのかもしれない。だが、女の子のユリウスを認めてくれたその一言は、間違いなくユリウスの心を救った。

 

さまざまな思い出が頭の中でぐるぐる回っていたユリウスの背後から、夫の毅然とした声が聞こえた。

 

「もちろんです、ニッツ夫人。何があろうとも誓って妻を守ります」

 

ニッツ夫人は泣きながら、何度も、お願いします、と繰り返した。

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その日以降も、夜はいっしょだが朝は一人で目覚める日が続いた。ユリウスは、聞いていた結婚生活と少し違うことに不安を覚えながらも、平然としている夫の様子をみて、大丈夫と自分に言い聞かせていた。

 

そんなふうにして二週間ほど過ごすうちに、夫がツァールスコエ・セーロに戻る日が近付いてきた。その前に夫婦そろって皇帝陛下に謁見することになっていた。

 

 

 

 

「お父上はドイツでご活躍だったとか。余も間接的に世話になったことがあると思う」

 

皇帝陛下が初夏の空気と噴水が作り出す水の芸術を楽しんでいたところに、ユリウスが紹介されて言葉を賜った。

 

陛下は皇后にも紹介したいが、皇太子の側にいるので引き合わせられないことを残念がった。

 

あっという間の対面だったが、ユリウスの緊張をよそに、陛下は想像していたよりも気さくに声をかけてくれた。

 

「ペテルゴフを楽しんでいきなさい」

 

そう言ってユリウスに笑いかけたのだ。

 

ペテルゴフは水を芸術的に取り入れている。海、池、噴水。晴れた日の海は紺色に輝き、人工の池が周りの景色を水面に映している。圧巻なのは、形のない水を形にしてみせる、幾重にも連なった噴水の造形だ。

 

陛下とのあいさつのためにユリウスに付き添ってくれた財務大臣夫妻が、途中で誰かに呼び止められたので、ユリウスたちは二人で歩き始めた。

 

ペテルゴフに何度も来ている夫は慣れたもので、ユリウスを海際まで連れて行こうとしていた。彼がペテルゴフで最も気に入っている場所の一つらしい。

 

だが、この美しい場所は、新婚の夫婦が二人きりの時間を楽しむには不向きな場所でもあった。人とすれ違うたびに声をかけられるのだ。

 

「ユスーポフ侯、新しい奥さまを紹介してくださらないこと」

 

「今度の奥さまも美しい方ですのね。どうやってお知り合いになられたのかしら」

 

その都度夫は、相手に敬意を述べてから恭しく答えた。

 

「財務大臣の紹介ですよ。今日は妻にペテルゴフの素晴らしさを案内したいので、無礼をお許し願いたい」

 

そして、隣にいるユリウスも笑顔をつくっては簡単なあいさつをし、お辞儀をしてその場を辞した。

 

だが、背後から、アデールさまとは月とすっぽんね、という声も聞こえてくる。

 

ユリウスの出自などは大きな関心事のようで、次々と声をかけられる。

 

「ドイツでお育ちになり、財務大臣に引き取られたとお聞きしましたけれども、どういういきさつでしたの?」

 

ときには、意地悪そうな声もあった。

 

「ユスーポフ侯爵にふさわしい女性かどうか、厳しい目でみられていますわよ」

 

ある伯爵夫妻にそう言われたときに、横から聞いたことのある声がした。

 

「わたしはユリアと親しくさせていただいて、彼女こそレオニードの妻にふさわしいと思いましたわ。ユリア、今日もきれいね。ここでお会いできて嬉しいわ」

 

ロシアに来てから、ユリアと呼ぶのは新しい身内以外にはこの人だけだ。ソコロフスキー伯爵夫人。

 

ファッションリーダーと言われるだけあって最先端の装いをさらりと取り入れ、髪型も毎回違う。ユリウスを褒めても、自分こそ一番美しいという自信が淡い緑の瞳にみなぎっている。

 

助け舟を出してくれたのは感謝すべきなのだろうが、これまで二回ほどしか会ったことがないのに、親しいだなんて驚きだ。しかも夫のことも、ユスーポフ侯爵とではなくレオニードと呼んでいる。

 

 

 

 

ニッツ夫人を見送った数日後、ユリウスと夫は二人の人物の来訪を別々に受けた。フルニチェフ伯爵とソコロフスキー伯爵夫人だ。

 

フルニチェフ伯爵のほうは、新婚の夫婦を祝福し気兼ねしながらも弟を助けてくれた礼を述べにやって来たのだ。レックスには、おもちゃを持ってきたのだが、大型の犬が苦手で会おうともしなかったが。

 

ソコロフスキー伯爵夫人のほうは、新侯爵夫人と親交を深めたいという口実で、流行の服やジュエリー、人気のサロンやスポーツ、パーティーに関するご自身の意見を語っていったが、真の来訪の意図は不明だ。ユリウスは、とりあえず、社交会の最新の情報を得るために感心しながら聞いておいた。

 

 

 

 

だが、この日、ペテルゴフでも目ざとくユリウスたちを見つけて声をかけて来たのは、好意的に考えれば慣れないユリウスに気を使っているのかもしれないが、本心はわからない。

 

それでも、ベルリンである程度の社交術を身につけたユリウスは微笑んで返した。

 

「イリーナ、ここでお会いできるなんて嬉しいわ。今日も素敵な装いね」

 

ユリウスが言うと、今度は何とかという女性が口をはさんだ。

 

「ソコロフスキー伯爵夫人とお友達でいらっしゃるんですのね」

 

「ええ、慣れない土地での生活に有益な助言をいくつかいただいて、感謝していますのよ」

 

集まってきた物見高そうな人びとは納得したように頷いた。

 

「イリーナは、社交会では、あなたの世代のなかでは中心的な女性なのよ。何しろソコロフスキー伯爵家は、ユスーポフ侯爵家と並ぶ有数の名家ですもの。きっと頼もしい相談相手になってくださるわ。だから、ご機嫌は損ねないことね」

 

その言葉に反応した別の年下の女性が応援演説をした。

 

「ご機嫌を損ねるだなんて、とんでもない。イリーナはとても寛容なのよ」

 

ソコロフスキー伯爵夫人は、すこぶる評判のいい女性のようだ。

 

そのあたりで夫が、皆の好意と助言に感謝の意を表明して、妻を案内するためにその場を辞することを願い出た。

 

少し歩き続けたら青い海が近付いてきた。その日のフィンランド湾は、二人を祝福するかのように青く輝いていた。

 

「なんてきれいなの。海を見るのは初めてなの。こんなに深い青色をしているのね」

 

感嘆しながら言うユリウスが小走りになったので、レオニードもそれに合わせて大股で歩いた。

 

波止場に到着すると、ユリウスは夫の腕に寄りかかりながら海を眺めた。風が気持ちがいい。けれども、少しばかり冷んやりする。いっぽう夫の腕は温かい。

 

しばらくしてから、今度は森のほうに散歩することになった。少し陽がかげってきたようだ。ユリウスが少し寒がっているのに、夫が気付いたようだ。

 

「男は暑がりが多いのだが、公式の場では着込むことが求められ、他方で比較的寒がりな女性のほうが薄着が求められるのは皮肉なものだな」

 

そう言って夫はユリウスを引き寄せて、腕のなかに妻をおさめた。

 

ユリウスは夫に気遣いに礼を言い、彼の肩に頭を預け、しばらくその温もりを感じ取っていた。しかし。

 

――旦那さまは、こんなにやさしくしてくれるのに、毎朝、目覚めると一人なのはなぜなのかしら?

翌日の地元のゴシップ誌、『ネフスキー・ガゼートナヤ』は、再婚したユスーポフ侯爵がまるで別人のようだと報じた。

 

「あのユスーポフ侯、新妻に骨抜きに!?ペテルゴフの森でイチャイチャ」

​2021.04.07

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