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3


陽が高くから射し込んでくる。ぼんやりと目を覚ましたユリウスは、見慣れない部屋を見回した。


――ああ、ここは新しい部屋、とうとう


そう思ったとたん、ユリウスは飛び起きた。結婚したというのに、昨夜は疲れきってベッドに倒れ込んだところまでしか記憶にない。


ユリウスは大きく息をついた。勤めを果たさなかった花嫁に、花婿は怒っているか、あきれているかのどちらかだろう。結婚生活が失敗から始まることになろうとは。


本音を言えば、夜の営みについて不安もあった。だから、早く済ませたいという気持ちと、できるだけ後回しにしたいという気持ちが行ったり来たりしたのだが、結局、先延ばしになってしまった。

bride03: 概要
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bride03: 概要

ユリウスはのろのろと起き出して、呼び鈴を引いた。夜着から簡単にかぶるだけのワンピースに着替えたところに、新しいユスーポフ侯爵夫人担当のゴズロワがやってきた。ユリウスより十歳ほど年上で、髪も目も淡い色をした美人だ。


コズロワが着替えの手伝いを申し出たが、ひどく空腹感を覚えていたユリウスは先に食事を頼んだ。


一人になったユリウスは、水差しからクリスタルのグラスに水をついで、いすにぐったりと腰かけた。夫となった男性に、どんな顔をして会ったらいいのか思いあぐねていたときに、部屋の奥のドアが開いた。隣の夫の部屋に続くドアだ。


「ぐっすり眠れたかな、奥さま?」


窓から射し込む陽の光を背中に受けているからか、彼の姿がまぶしく見えた。思わず起立しそうになったユリウスに、彼は、そのままでと身ぶりで示して、新妻の隣の椅子にすわった。いつも固めていた髪をおろし、リラックスした感じだ。ラフに着たシャツの隙間から男の肌の温度が伝わってくる。それがユリウスの女の部分を刺激して胸がドキドキする。ユリウスはしどろもどろになった。


「あの、その、昨夜は、とても疲れていて、そんなつもりはなかったんです。ごめんなさい」


ユリウスは、頬を赤らめて上目づかいに夫をみながら謝罪した。


「このうめあわせは今晩してもらえると信じているが?」


と言って夫は妻の赤くなった頬にキスをした。


――よかった。怒ってはいないみたい


ユリウスの気が緩むと、今度はおなかの虫が音を立てた。ユリウスは天を仰いで、恥ずかしいとつぶやいた。


夫がくすりと笑ったように見えた。今まで見たユスーポフ侯爵とは違う。髪型や服装のせいだけではない。


「昨日は疲れただろう。今日はゆっくり過ごすといい」



ユリウスの食事が運ばれてきた。頼んだパンとチーズに加えて、みずみずしい苺も盛られていた。コズロワが手早くテーブルにセットし、ティーポットからお茶をついだ。もう一つのポットからコーヒーをつぎ、レオニードの前に置いた。焙煎したばかりの豆なのだろう。すばらしい香りが漂ってくる。


ユリウスは一刻も早く食事に取りかかりたいのだが、気がひける。


「誰かに見られながら一人で食べるのって難しいわ」


レオニード はコズロワにさがるように合図してから言った。


「手助けが必要ということか」


目の前にある苺をつまんで、ユリウスの口の前に差し出した。


思ってもみなかった夫の行動に、ユリウスは目をしばたたかせた。


ユリウスはベルリンのキルヒバッハ家の温室で苺のつまみ食いをしようとしたことがあった。キルヒバッハさんは、苺泥棒め、と言いながら赤い実をもぎ取り、ユリウスの口の前に差し出した。そして、ユリウスはキルヒバッハさんの手から苺を食べることになったのだが、そのときと状況がそっくりだ。


「口を開けていただけませんか、奥さま?」


ユリウスが言われるままに口を開けると、赤い実が夫の指で押し込まれた。手の動きがなんとも言えないほど魅力的だ。ますますキルヒバッハさんのときと同じだ。


「酸っぱい」


ユリウスは思わず目をぎゅっと瞑った。


「こちらの苺のほうがうまそうだ」


という声が聞えた途端、ユリウスのあごが持ち上げられ、そして彼の顔がみるみる近付いたと思ったら、唇と唇が触れた。ユリウスは目を見開いたが、すぐにまた瞑り、だんだんと深くなるキスに夢中でこたえた。

bride03: 概要
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bride03: 概要

どのくらい続いただろうか。二人の唇が離れると、お互いに見つめあった。そのとき、再びユリウスのおなかのほうから、きゅるきゅるという音がした。いちご一個では足りないようだ。


「腹が減っては何もできぬ。さあ、食べなさい」


ユリウスがフォークを取るときも、夫は妻の顔を見つめている。


「お願いだから、そんなに見つめないで。食べられないわ」


「では、少し失礼するが、すぐ戻る」


レオニードは自室へ行き、手に新聞を持って戻ってきた。


ユリウスがちらりと見ると、「フルニチェフ伯爵の弟ニコライ、失踪。痴情のもつれか?」という記事の見出しが目に入ったが、気分が滅入るような事件は話題にしたくないし、夫は別の記事に集中していたので黙々と食べることにした。


ユリウスが最後のパンをたいらげて、ティーカップに手をのばしたときに、夫は新聞を置いて、今後の予定の話を始めた。新聞に集中していたように見えて、ユリウスの様子も把握していたらしい。ユリウスは紅茶を飲みながら聞いた。


翌日の午後はペテルゴフに出かけて、皇帝陛下に結婚の報告とあいさつ。明後日とその次の日の予定は特に入っていない。その次の日は、とレオニードが言いかけたとき、あわてたユリウスが口をはさんだ。


「その日はニッツ夫人が帰る日なの」


母代わりとして、ユリウスを女の子として見返りも求めず世話をしてくれたニッツ夫人とお別れの日だ。


「ああ、十分に時間を取ってある。ゆっくり別れのあいさつをすればいい。ところで、ニッツ夫人への贈物は用意してあるのか」


「なんてこと!すっかり忘れていたわ」


ユリウスは、大きく口を開けて青ざめている。そんなユリウスにレオニードは明後日にたっぷりと時間が取れるだろうと言った。夫は意外に気が利く。


「それで、奥さま、今日のこのあとの予定は?ベッドで過ごすか」


ユリウスは耳まで真っ赤になった。白昼堂々とこんな話題を持ち出すなんて、からかっているに違いない。相手のペースにのせられてばかりなのも不本意だ。ユリウスは居住まいを正して言った。


「悪くない考えだと思いますが、わたしの希望を聞いてもらえますか」


「なんなりと」


「ほかにも何か大切なことを忘れているような気がするんです」


「奥さまが忘れていたことは、夫の相手、ニッツ夫人への贈物、それから?」


夫が軽く肩をすくめた。


「気分を変えて庭でも散歩してみるか?」


ユリウスは春の光と緑の生命にしばらくふれていない。財務大臣の屋敷には庭と言える庭はなかったのだ。この豪奢な侯爵家の庭はいったいどんなだろう。


「庭!すばらしい考えだわ。さぞかし美しいのでしょうね。もしかしたら迷子になるほど広くないかしら?案内してくださるということかしら?」


「もちろん。我が家の庭が狭くはないにしても、奥さまが行方不明になるのは問題だ」




ユスーポフ家の庭は、色とりどりの花であふれていた。初夏の陽光、といっても雲が太陽を隠してしまうことのほうが多いのだが、それでも自然光は気持ちがいい。木々や花々もつかの間の初夏を楽しんでいるようだ。


ユリウスは夫の腕につかまりながら、あたりを見まわした。


「こんなすばらしい庭があるなんて!まだまだ侯爵家については知らないことばかりだわ。旦那さまのこともですけれども。このニか月の間であなたとお会いしたのは、三回ほどでしたし」


「これからゆっくり知っていけばいいが、さしあたって聞きたいことがあれば、お答えしよう」


ユリウスには聞きたいことが山ほどあったが、いきなり深刻な話題を持ち出すのは避けたい。


「改めて聞かれると質問って出てこないものね。そうだわ。旦那さまは、どんな色がお好きかしら」


「好きな色か。考えたことはなかったな。そういう奥さまは何色が好きなのかな」


「やわらかな色。淡い色であれば、黄色、ピンク、オレンジ、水色、緑、何色でも好きだわ。あなたは濃いめの色が似合いそう」


「たとえば?」


「濃い青や、深い緑、黒がかった赤、重い紫」


「では今後そういった色を選ぶとしよう」


夫はそう言って軽く笑った。彼は想像していたよりも感じのいい男性だ。ますます離婚について、そしてこの結婚についての疑問がつのる。しばらく歩いてからユリウスは意を決して、離婚の理由を尋ねた。


「直球を投げてきたな。これまで噂をきかなかったとは思えないが?」


もちろんユリウスは聞いていた。ニッツ夫人も大きな関心をもって情報を集めまわっていた。それらを合わせると、侯爵があまりに多忙で妻とともに行動できず、孤独な妻は他の男のもとに走った、いうものだ。


「ああ、そのとおりだ。私は忙しさにかまけて妻の望むような行動を取らなかった」


「それだけ?わたしに話せない理由があるのなら、それは話さなくてもいいわ。でも、秘密の理由があるかないかぐらいは知っておきたいの。だって、あなたは忙しいかもしれないけれども、不誠実な人ではないもの」


夫が笑った。


「喜ぶべき評価だ。だが、噂はあながち外れてはいない。私は前妻の望むような男ではなかったということだ」


ユリウスは納得がいかなかった。


「でも、離婚時期を考えると、わたしとの再婚も視野に入れていたのでは?」


侯爵は、意外とでもいうように眉をあげたが、ユリウスが問い詰めると軽く両手をあげて言った。


「おかげで、離婚の口実ができたということだ。それにしても、奥さまはなかなか目の付けどころが鋭い」


そして声を落として、もともとアーレンスマイヤ氏の娘と結婚する予定だったが、ユリウスの父親のほうから断ってきた、と言った。適齢の次女は任に堪えないというのが表向きの理由だった。


「彼女の本性は奥さまも知っているだろう?」


ユリウスはうなずいた。人の心を失った女。父さまは、それを知っていたのだ。夫もそのことを知っていた。


「でも、あなたは、会ったこともないわたしと結婚するのに躊躇しなかったのかしら」


侯爵は、不公平だと怒らないで欲しいと断ってから、アーレンスマイヤ家の跡取り息子の様子や、ベルリンでの出来事も含めて報告を受けており、ユリウスのことを知っていたという。


「自分の命が狙われるというのに証言をするとは、賞賛すべき正義感だ。男でもできることではない。加えて見知らぬ男と結婚する勇気に感服した」


「だって、もし証言をしなかったら犠牲者はもっと増えたでしょうし、あんな悪党たちが堂々と日の当たるところにいるなんて許せることではないわ」


ユリウスは、いまでも犠牲者と残された家族のことを思うと憤りを感じる。一呼吸おいて続けた。


「でも、あなたは、わたしのことを知っているのに、わたしはあなたのことを知らないなんて、なんだかすっきりしないわ」


そのとき、生垣の向こう側から何かの気配がした。四つ足の獣の足音がみるみる近付き、黒い影が高さ一メートルほどある植え込みを飛び越え、ユリウスたちのほうに突進して来たのだ。


「レックス!」


ユリウスは驚きと喜びの入り混じった声で叫びながら両手を広げた。レックスは今にもユリウスを押し倒さんばかりの勢いで飛び跳ねた。その場で何度もジャンプして喜びを表現している。


ユリウスがレックスを抱きしめるたびに、レックスは激しく飛び跳ねて、ユリウスの顔を目がけて舐めてきた。ユリウスはその勢いに押されて、とうとう地面に押し倒されるかっこうになってしまった。


しばらくして、レックスのあとを追ってきた少年が興奮気味に叫んだ。


「あの生垣を飛び越えるなんて、すごい、すごいよ、レックス!」


その少年は、ユリウスが尻もちをついているのを見ると、戸惑ったように、ささとレオニードのそばにかけよった。少年は、レックスが激しく興奮しているのを見て目を丸くしている。



レックスの大歓迎が一段落し、ユリウスがドレスに付いた土埃をはらいながら立ち上がると、少年がまごついた。新しい義姉とどう接したらいいか、距離をはかりかねているようだ。ユリウスは、以前に夫から妹や弟には敬意を持って接して欲しいと言われていたことを思い出して、少年の目線に合わせて腰をかがめて微笑んだ。


「君がレックスと遊んでくれていたの?ありがとう」


少年のあとを追ってきた男も感心している。犬の世話と訓練を担当したコロリョフだ。彼の前では、レックスはきちんとおすわりをしている。


「本当にすごい運動能力ですよ。それに、とても賢いんです、奥さま」


試しに、障害物を飛び越えさせたり、足跡追及や臭気選別の訓練を行ったりしたところ、これまで見てきたどんな犬よりも優れていると言う。


レックスの様子から、この屋敷で大切にされていることがわかる。


リュドミールが勉強のために部屋に戻ったあとも、侯爵夫妻とレックスは散歩を続けた。コロリョフもあとに続いた。


「庭につれだしたのは、レックスと会わせるためだったのね。ありがとう」


「大切なこととはレックスのことだろう?」


ユリウスはぎくりとした。財務大臣邸に滞在中は一人になるとレックスに会いたくてしかたなかったのに、ユスーポフ邸に来たとたん、思い出せないなんて。



突然、レックスが道に飛び出して、運河の堤防のところで吠え始めた。レックスのあとをコロリョフが追い、そのあとをユリウスと侯爵が追った。レックスは運河で何かを見つけたらしい。


レオニードがユリウスを制止した。


「見るな!」


そう言ってユリウスを反対方向を向かせた。運河の水のないところに血まみれの人体があったのだ。




翌日、地元のゴシップ誌、『ネフスキー・ガゼートナヤ』は、失踪していたニコライ・フルニチェフが血まみれで発見され、一命をとりとめたことを報じた。


「ユスーポフ侯爵夫人の愛犬、運河でニコライを発見」

​(2020.12.13)

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