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ユリウスは、口をあんぐり開けそうになった。だが、あまり行儀がよろしくないので、かろうじて抑えた。

 

――まるで、宮殿だわ

 

ユスーポフ侯爵家の玄関から入って階段を上ると、廊下が果てしなくのびているが見えた。

 

居間に通されて待っていると、ヴェーラと名乗る女性が現れた。侯爵の妹だ。

 

婚約者からは妹と弟がいることは聞いている。侯爵の妹は、兄の不在を詫びた。義理の妹となるこの女性も、兄に劣らず落ち着いた雰囲気だが、静かな力がみなぎっている兄とは違い、やや生気がないように見えた。口数も少なく、淡々と披露宴の会場となる大広間まで案内してくれた。

 

結婚披露宴は、侯爵家の大広間を会場にして内輪の者だけで行う予定なのだが、すべて花嫁側が仕切ることになった。そのため、侯爵は、彼の不在中であっても、準備のために遠慮なく侯爵邸に訪れるようにユリウスたちに伝えていた。彼は多忙で自ら案内できないことをすまなさそうに詫びたが、出迎えのときといい何かとすれ違いが多い。

 

ニッツ夫人と財務大臣の妻は、結婚披露宴を仕切る気満々だ。対照的にヴェーラは我関せずといった様子だ。

 

「具体的なことは、家政婦か執事と打ち合わせしてください」

 

と言って部屋に戻ってしまった。

 

彼女は、ふだんから愛想がなく言葉が少ないのか、頭に問題があるのか、たまたま虫の居処が悪かっただけなのか。これほどの大貴族のご令嬢であるのならば、ユリウスのような人間におべんちゃらを言うどころか、気を使う価値もないと考えているとしても仕方がない。ドイツでもそういう人間を見てきた。

 

ヴェーラのそんな態度について、財務大臣夫人が肩をすくめて言った。

 

「以前は、はきはきしてもっと活発なお嬢さんでしたのに、ここ一年半ほど社交界からも遠のいていて、噂では失恋の痛手から立ち直れないとか。でも、相手の方がどなたかも全くわかりませんし、本当のところはどうなのかしら」

 

情報通の財務大臣夫人であっても、ヴェーラが引きこもる理由がわからないらしい。

 

失恋が原因なら、あの苦しそうな様相は理解できる、とユリウスは思った。いたく同情できるが、下手に傷口にさわることもできない。

 

ユリウスがそう思っている間にも、シュシキン夫人はかまわず、ニッツ夫人とともに、家政婦と執事にあれこれ説明を始めた。

 

披露宴を行う大広間は、楽団を入れて舞踏会が開催できる十分な大きさだ。その一室だけで、かつてユリウスが母親と住んでいたフランクフルトのアパートの何十倍もの広さがありそうだ。こんな大邸宅の女主人になろうとは。そう考えると、頭が痛くなりそうだ。

 

――いったい、女主人としてこの大きな屋敷をどうやって管理するというの?

 

言葉の出ないユリウスをしり目に、ニッツ夫人と財務大臣夫人は、披露宴のコンセプトやテーマカラーについて議論をしている。二人とも初夏を感じさせる宴にすることでは一致したようだ。

 

しかし、ピンクの花を中心に華やかにしたい財務大臣夫人と、白と黄色でかろやかな季節を表したいニッツ夫人とで意見が割れているようだ。

 

「ユリア、あなたはどちらがお好みかしら?」

 

二人の夫人が声をそろえて言った。ベルリンでの母親代わりのニッツ夫人の意見のほうを採用したいが、財務大臣夫人はここロシアでの母親だ。ピンクと黄色のどちらかを選んだら、あとでめんどうなことになりそうだ。したがって第三の色を選ぶべきだ。そこで、ユリウスは苦しまぎれに執事たちに尋ねた。

 

「侯爵様はどんな色がお好みかしら」

 

と執事たちに向かって尋ねた。執事も家政婦も困った様子だ。

 

「特段、お好きな色があるように思われません」

 

ユリウスも困った。

 

――それにしても好きな色がないなんて、夫となる人は、いったいどんな感性をしているんだろう

 

ユリウスはやや不安に思ったが、作り笑いをして質問を変えた。

 

「では、ご家族の方のお好きな色は?」

 

「ヴェーラ様は白い花を好まれるようですし、リュドミール様とお父上様は青系の色を選ばれることが多いようです」

 

「では、白と青を基調にしましょう」

 

きっとニッツ夫人だったら、うまくコーディネートしてくれるだろう。いや、ユリウスに考えさせることになるだろうが。 

 

決まった。テーマは初夏の空。青と白を基調にゴールドのアクセントをつけて、食器やテーブルリネンなどをそろえることとなった。

 

財務大臣邸に帰ったら、今度はドレスのフィッティングだ。

 

ドレスのデザインについても一悶着あった。財務大臣夫人は赤地に金糸を施したロシアの伝統的衣装を主張した。対するニッツ夫人は、純潔の花嫁は白いドレスを着るべきだと譲らなかった。

 

ドレスについては、ユリウスも白を選んだ。パーティーのコンセプトが春の空に決まったので、財務大臣夫人に花を持たせようと、パーティーで身につけるロシアの伝統的な冠を青であつらえることを提案した。財務大臣夫人は喜んで同意して、すぐに職人を呼んだ。

 

 

そのココシニクという冠と素晴らしいレースでできたベールを被ってみた。ほっそりしたウエストに、胸から首元までレースで覆われ、スカート部分には見事な刺繍とビーズがあしらわれた贅を尽くしたドレスだ。レースは、ヴォログダという地方の熟練した職人によって織られたものらしい。

 

ニッツ夫人は満足そうな笑顔を浮かべている。一世一代のおめかしかもしれないが、相当な重さだ。これを着て何時間もわたる結婚式と披露宴を乗り切るのかと思うとげんなりする。

 

ニッツ夫人にそうつぶやくと、簡単にたしなめられた。

 

「花嫁衣装を着られるのは人生に一回限りよ、最高の自分にならなければ」

 

フィッティングが終わってニッツ夫人とおしゃべりしていると、来客中のはずの財務大臣夫人に呼ばれた。客はまだ帰っていなかった。ユリウスより少し年上だろうか。凝った髪型で、非常に仕立ての良い訪問着を着た、いかにも外見を飾ることに手間と時間を惜しまない、といった人柄がにじみ出ている。

 

「ユリア、紹介しますわ。こちらは、ソコロフスキー伯爵夫人のイリーナ様。ぜひ、あなたにお会いしたいとおっしゃるのよ」

 

紹介された女性はいかにもといった社交的な微笑を浮かべているが、その狐のような目はユリウスを上から下まで値ぶみしているかのようだ。だが、ユリウスもにっこりと笑顔を作り、ユリア・シュシキナとしてひととおりのあいさつをして、隣のニッツ夫人を紹介した。ユリウスは、ベルリンではユリアーネ、ここペテルスブルクではユリアと名前を変えた。ユリウスの話すロシア語にドイツ語なまりが抜けないだろうからと、フランクフルトで住んでいたという設定にしてある。

 

「わたしたち年が近いのに、お会いしなかったのは、フランクフルトにいらっしゃったからなんですね」

 

とソコロフスキー伯爵夫人は納得した様子で言った。まるでペテルスブルク社交界には、面識のない同世代の女性はいないかのようなそぶりだった。

 

「ぜひ私のサロンにお越しくださいな」

 

 

 

 

ロシア語のレッスン、正教についての講義、披露宴の手配、婚礼衣装のフィッティングなど目のまわるような二か月があっという間に過ぎ、とうとう婚礼の日の前日になった。

 

ユリウスは、腹をくくって、この結婚を受け入れたつもりだった。しかし。

 

「戦場では、足がすくむこともある。だが、そこで立ち止まったら勇者ではない。前進するしかないんだ」

 

ユリウスは兵士ではないが、キルヒバッハさんの言葉を胸にして、前に進むのに一生懸命だった。だが、そのユリウスもここにきて不安におそわれた。

 

――あの人と結婚して本当に大丈夫かしら?悪い人ではなさそうだけれども、うまくやっていけるかしら?

 

夫となる人について、詳しくは何も知らないのだ。侯爵と会ったのはこの二か月でたったの三回、それもあいさつに毛がはえた程度の短い時間だ。前妻との離婚の原因も聞いていない。そもそも離婚が認められるなんて、尋常ではないことなのだ。

 

それに、結婚式が終わればニッツ夫人も故郷のデンマークに戻ることになっている。一人残されるユリウスにとっては、夫を頼るほかないのに。

 

「どうしたの?このごに及んで怖気ついたのかしら」

 

心配そうに声をかけたニッツ夫人に、ユリウスは思わず抱きついた。

 

「ええ、そのとおりよ。怖い。不安なことが次々と思いつくの」

 

涙が流れた。ユリウスは思ったことを素直に次々と口に出した。ニッツ夫人はユリウスを抱きしめて背をなでながらユリウスの不安を聞いていた。

 

「人生の岐路にあって不安になっているのね。大丈夫、大丈夫よ。誰にでもあることだわ。私も主人が好きになって婚約したけれども、結婚直前になって不安になったものよ。本当に私の選択は正しいのだろうかって」

 

「私のばあいは、交際期間もほとんどなく、いきなり結婚ですもの」

 

「キルヒバッハさんは、あなたの結婚相手のことをなんて言っていたかしら?」

 

「私を守ってくれる、信頼できる男」

 

「あなたはキルヒバッハさんの人物判定が間違っていると思う?」

 

ユリウスは首を振った。

 

「キルヒバッハさんほど信頼できる男性はいません」

 

ニッツ夫人がうなずいた。

 

「そのキルヒバッハさんが、信頼できる男と言ったのでしょう?キルヒバッハさんは、あなたが幸福になることを最も願っている人よ?そして、幸福は」

 

「努力して手に入れるもの」

 

続きをユリウスが引き取って言うと、ニッツ夫人がうなずいた。

 

「それに、六月の花嫁は幸福になれるのよ」

 

ニッツ夫人がユリウスの目を見つめ、もう一度ユリウスを抱きしめた。

 

「私だって、あなたとお別れだなんて、とてもつらいわ。あなたは娘なんですもの。でも、先立っていった夫や息子たちにはもう会えないけれども、あなたはこのロシアの空の下で生きている。必ず幸せになってちょうだい」

 

ニッツ夫人も涙を流した。

 

 

 

 

ユリウスは、戦闘の準備をするような気持ちで婚礼衣装を身につけた。

 

結婚式は指輪の交換と戴冠があり、通常は別々に行われるのだが、一度で行うことになっていた。

 

義父に手を引かれ祭壇の前まで進み、侯爵の隣に立った。そこから長い長い儀式が続いた。緊張感と衣装の重みで息苦しい。隣にいる侯爵が腕を差し出してつかまりなさいという仕草をした。ほっとしたが、儀式はまだまだ続く。

 

金属製の冠が二人の頭に載せられた。二つの冠は白いひもでつながっている。ようやく終わった。次は写真撮影だ。ユリウスは青いココシニクを被った。

 

新婦だけ、新郎だけ、夫婦並んで、家族とともに、などなど何枚も撮った。ユリウスはニッツ夫人と二人の写真もお願いした。

 

披露宴が始まるときには、ユリウスの疲労はピークに達していた。普通の恋愛結婚だったら、あるいは玉の輿にのって喜んでいるのなら、疲労など感じないのだろうとユリウスは思った。だが、ユリウスも義務と責任ある立場にあるのだから、力を振り絞って笑顔を作って臨んだ。

 

パンと塩を新郎と新婦が二人で分けて食べることで披露宴が始まった。招待客は、親戚筋と、新郎のごく身近な上官や同僚たちだけのこじんまりとしたパーティーのはずだが、総勢五十人は下らない。

 

食事が終わると、ユリウスは、夫に手を引かれて大広間の中心に出た。最初の二人のダンスを皆が注目している。音楽に合わせて第一歩を踏み出した。

 

――なんて軽やかなの

 

こんな感覚はキルヒバッハさんと踊ったとき以来だ。侯爵は予想外にリードがうまかった。ユリウスの体が疲労しきっているのを忘れるほどだ。

 

――ダンスが楽しい。ずっと踊っていたい

 

ユリウスの心からの笑顔は会場にいる者の心をつかんだ。

 

 

 

翌日、地元のゴシップ誌、『ネフスキー・ガゼートナヤ』は、ユスーポフ侯爵の再婚を報じた。

 

「ユスーポフ侯爵、スピード再婚。気になるお相手は?前妻の動向は?」

 

(2020.09.30)

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