ユリウスの肖像

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列車が待ちに待った終着駅にすべりこんだ。行先は聞かされていなかったが、ニッツ夫人が途中で、どうやらペテルスブルクに向かっているようだと気付き、ユリウスにささやいた。二年前に来るはずだった都。ユリウスは立ちあがって、のびをした。これまで何人の案内人たちの指示に従い、列車を乗り換えてきたことか。その長く窮屈な旅もやっと終わるのだ。連れてきたジャーマン・シェパードのレックスも降りられると気付いたのか、そわそわしている。
ユリウスは、ものすごくドキドキしていた。婚約者が迎えに来ているはずなのだ。会ったこともない、名前も、年齢も、外見も聞かされていない。ただ、大好きなキルヒバッハさんによると、ユリウスを守ってくれる、信頼できる男だ、ということだった。その言葉を信じてここまでやって来たのだ。
春だというのに、外はくもっている。
「ニッツ夫人とユリアーネさんですね」
ニッツ夫人とともに列車から降り立つと、従者をしたがえた男が声をかけてきた。その姿を見て、ユリウスは泣き出しそうになった。会ったときにショックを受けないように、結婚相手が、背が高く、ハンサムで若いとは限らない、と自分に言い聞かせてきたのだ。だが、まさか、本当に、太鼓腹で、頭もはげかかった中年男だとは。背は低くはないが、太っているぶん、ずいぶん大柄に感じられる。いくらユリウスの命を守るためでも、キルヒバッハさんを恨まずにはいられない。
男はにこやかに、婦人たちの長旅をねぎらい、立ち話に恐縮しながら自己紹介を始めた。
「財務大臣のシュシキンと申します。このあとユリアーネ嬢をお預かりし、我が家の養女として嫁がせることになっております」
「財務大臣自らのわざわざお出迎え、光栄に存じます」
ニッツ夫人がロシア語でうやうやしく返答した。
「ですが、本来、出迎えに来るべき婚約者は、体調でも優れないのでしょうか」
「急遽、陛下からお呼びがかかりまして、のちほどご挨拶と謝罪に伺うとのことでした」
と苦しそうに言い訳をしているときだった。レックスが吠えて、かけ出した。その方向には、軍服に身を包んだ、大柄で目立つ男が、大股で足早にこちらに歩いてくるのが見えた。近寄ると、帽子の下には黒髪がのぞき、黒い瞳が印象的なハンサムな男だが、どこかしら冷たそうな雰囲気が漂っている。
「おお、婚約者殿が駆けつけてきたようだ。まさか来られるとは思わなかった。紹介しよう。ユスーポフ侯爵殿だ」
「遅れて申し訳ない」
差し出したユリウスの手を取り、口元に寄せた。飾り気のない言葉遣いだが、物腰は優雅で貴公子然としている。思ってもみない展開にぽかんとしているユリウスの隣で、ニッツ夫人も声が出ないほど驚いている。
当のユスーポフ侯爵は落ち着き払ったままで、このあとも急遽、陛下に謁見することになったので、今日の非礼をお許し願いたい、また日を改めて正式にご挨拶に伺う、と低くよくとおる声で言った。
レックスはどういうわけか、ユスーポフ侯爵の足元をうろうろしている。その様子を見た財務大臣が言った。
「ところで、こちらはユリアーネ嬢の飼い犬ですかな。申し訳ないのだが、私の妻が犬が苦手でして」
財務大臣は妻が体調がすぐれず、出迎えに来なかったことを詫び、犬を飼うことができないことを申し訳なさそうに説明しはじめた。それを、侯爵がさえぎった。
「大臣殿、話をさえぎって申し訳ない。それでは、我が家で責任をもって預かろう。犬の飼育に慣れた者もいるし、シェパードが運動できる十分な敷地もある。ユリアーネ嬢も、ときどき様子を見に来ればいいだろう。ところでこの賢そうなシェパードは、なんと呼べばいいのかな」
「レックスです」
「では、時間がせまっているので失礼する。レックス、行くぞ」
と軽く会釈をすると、きびすを返して、風を切るように行ってしまった。レックスは、少しユリウスのほうを見て首をかしげて見せたが、侯爵のあとを追っていった。ユリウスは、再びぽかんとした。レックスは賢い犬だが、今まで餌をやり可愛がってきたユリウスをさしおいて、初めて会った男に、のこのこついて行ってしまったのだ。あの侯爵には、人だけでなく、犬を従わせる威厳と威圧感がある。だが、レックスが素直についていくのならば、多少外見が冷たそうでも、悪い人ではなさそうだ。
存在感のある侯爵に圧倒されたままのユリウスだったが、財務大臣邸に向かう馬車のなかで、ニッツ夫人は興奮をかくせなかった。
「まさか、ユリアーネのお相手が、あのユスーポフ侯爵だなんて」
大きなため息をついては、頭を振り、何度も同じことを繰り返した。
「でも、ユスーポフ侯爵は皇帝陛下の姪の、確かアデール様とおっしゃる方とご結婚なさったのでは?」
「つい一カ月ほど前に離婚なさったんですよ」
日本との戦争の直前に結婚したが、うまくいっておらず、夫の遠征中でも、奥方は平然と他の男の腕に手をかけて外出していたそうだ。財務大臣が経緯を説明した。
一か月前といえば、ユリウスが危険な目にあったころだ。ユリウスには、自分の身の回りに起こったことと、ユスーポフ侯爵の離婚の時期が重なっていることが、偶然ではないように思えた。おそらくキルヒバッハさんが、そのときから何らかの手を打っていたのだろう。侯爵はキルヒバッハさんの知り合いなんだろうか。二人とも結婚生活に恵まれなかったという共通点もあるようだが。
それにしても、新婚早々浮気されるとは、どういう夫だったんだろう。ただでさえ知らない人と結婚することに不安なのに、さらに不安がつのる。
ユリウスの不安とは反対に、ニッツ夫人は、この結婚は玉の輿だと浮かれている。
翌日、侯爵が改めて挨拶にやって来た。
「これは、婚約の記念です」
と言って取り出したのは、アネロッテが見たら興奮で目の色が変わりそうな豪奢なネックレスだった。ニッツ夫人も驚いて声が出ない。ユリウスは初めは目を見開いて、そして、ほうっと息をついて言った。
「こんな、すばらしいサファイアは、初めてです」
「こちらは、これからあなたに贈られる数々の贈物のうちの、最初の一つに過ぎない」
前の晩に、ニッツ夫人から、ユスーポフ侯爵家がロシアで指折りの名門貴族で、その資産もロシア有数であることなど聞かされていたので、このような贈物など造作ないのだろうと思った。それこそ、キルヒバッハ夫人やアネロッテが狙っていた地位だ。ユリウスにしてみれば、中流階級の普通の男性と結婚するのが一番だ、と現実的に考えていたのだが。
ユスーポフ侯爵は、ユリウスに要求することも忘れなかった。ユスーポフ侯爵夫人として尊敬される行動をすることである。あとは、ごく普通に、夫が妻に求めることだった。貞淑と従順の美徳だ。
もともと、持参金もなしで、ユリウスの婚礼の衣装代も婚約者側が負担するという条件だったが、花嫁衣装にも、いくら費用をかけてもかまわないという話になった。
これまでユリウスは、ニッツ夫人のことを思慮深く、愛情深い女性で、財産に心動かされないと思っていたのだが、サファイアのネックレスの贈物や、ユリウスの花嫁衣裳がおそろしく豪華になるであろうことを想像して喜ぶ様子は、まるで別人のようだった。
「母親が娘の花嫁姿を見られないなんて、母親の最大の楽しみを奪ってしまうのですか」
ニッツ夫人は、そう言って、反対するキルヒバッハさんを説き伏せて、ユリウスに同行してきたのだ。キルヒバッハさんは、亡き親友の母親でもあり、世話になったニッツ夫人に頭があがらない。ことにユリウスの保護をひきうけてくれたのだから。
ユリウスも、ベルリンにいたときに、母親が娘の社交界デビューや花嫁姿にもてるエネルギー全てを注ぎ込む姿を見ていたので、実母とは違う、このニッツ夫人の考え方も理解できる。
侯爵の待婚期間があるため、結婚式は二か月後に行われることになった。その間、ユリウスにはロシア人並みのロシア語能力を身につけること、ロシアのしきたりを理解することなどの義務が課せられた。ロシア正教に改宗するかどうかはユリウスの決断に委ねられた。
ベルリンを発つ前に、キルヒバッハさんやニッツ夫人には、夫とともに生きる覚悟をするように言われていた。キルヒバッハ夫人のように夫を困らせる妻にはなりたくはなかった。改宗もほのめかされていたので、夫と同じ宗教に改宗することにした。
ユリウスは、目の回るような変化にため息をついた。
(2020.04.30)
