ユリウスの肖像

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「いつでもガイウスを連れて遊びにおいで」
ベックさんからそう言われていたので、ユリウスはニッツ夫人とともにガイウスを連れてニ、三回キルヒバッハ邸を訪れたのだが、残念なことにキルヒバッハさんはいつも不在だった。しかし、その日はキルヒバッハさんだけでなくモーザーさんもいると聞き、ユリウスは小躍りするような気持ちで居間に入った。
キルヒバッハさんたちは、にこやかにユリウスたちを迎えてくれたが、ひととおりのあいさつが終わると、モーザーさんの口調がいつになく事務的になった。
「ちょうど君の後見人に承諾を得たところなんだが、アーレンスマイヤ家の財産の管理を我々に任せてもらうよう君の姉上を説得するつもりだ。彼女には、これ以上財産管理を任せるべきではないと考えている。ついては、ユリアーネ、君の同意も得たい」
レーゲンスブルクでアーレンスマイヤ家の現状を知ったモーザーさんは、ユリウスの姉に関する有力者たちの本音も耳にするようになった。そもそも女性であることで、まともな交渉相手として見なされないことも多々あるが、マリア・バルバラのばあいはそれだけではなかった。アーレンスマイヤ家の長女に対しては厳しい評価がなされていた。それらは、おおむね次のようなものだ。
「二十歳代後半になっても結婚しない理由を聞いて驚いたよ。真面目でお堅いというより、わがままで頑固なお嬢様だ。彼女との会話は天気の話ぐらいにしておきたいね」
「非常識にも、人を殺すように飼犬をしつけておきながら、使用人がかみ殺されたら、その犬たちを処分したんだ。自分の行動がいかに身勝手で理不尽なのか理解していないようだ。犯人は姉妹のどちらかだと思うね。姉のほうが継母に向かって発砲したという噂も、さもありなんだ。彼女との取引は遠慮したい」
「感情的過ぎる。思い込みが強く、親切心からの助言にも耳を貸さなかった。理解できなかったのかもしれないが。地所や工場で働く人も振り回されていると聞いた。残念だが助ける人はほぼいないだろう」
「父親嫌いだったためか、やり手だった父親から何も学んでいない。それどころか真逆の判断をする。目先のことにとらわれて、実に扱いやすい。いきがっているが、所詮女こどもの域を出ない。せいぜい利用させてもらうよ」
「ニッテナウの果樹園ほどの優良資産を破格の安値で手放すとは、買い手は笑いが止まらなかったはずだ。買い手は彼女の言い値で購入したらしいのだが。まるで慈善事業だ。キッペンベルク商会は実にうまくやったよ」
いずれも手厳しい内容で、アーレンスマイヤ家の良質な資産を手に入れようと企む者にとっては、マリア・バルバラが実権を握ったことは都合がよかったそうだ。彼女の悪評を広めたり、関係者を買収したりするのは容易だからだ。
モーザーさんは、アーレンスマイヤ家の顧問弁護士のシュテッケルさんとも会ったそうだ。
「シュテッケル氏によると、故アーレンスマイヤ氏は窮状を理解していて、私の父に相談するようにと言い遺していたそうだ。にも関わらず、彼女から我々には何の連絡もなかったのは極めて残念だ。シュテッケル氏も彼女からの十分な相談や連絡もなく、何度も後始末に手を焼いたそうだ」
そういうわけで、モーザーさんは、アーレンスマイヤ家が次々と取引先を失い窮地に陥ったのは、マリア・バルバラの直情的で独善的な性格と筋違いな判断が原因だと結論付けた。シュテッケルさんも同意見だそうだ。
確かにマリア・バルバラは直情的だが、ユリウスはそんな姉のことが嫌いではなかった。人の評価というものは、視点をどこに置くかによってがらっと変わる。しかし、姉がここまで酷評されて、多少の腹立たしさを覚えないわけではなかった。
「でも、姉は本当は優しい人なんです」
「彼女に優しい面があるのは、知性ある名士たちも否定しなかったよ。私もそう思う。だが、それとこれとは話は別だ。彼女には資産の切り売りしかできないだろう。このまま任せておいたら、もって一年半程度だ」
そういえば、何もかもが悪くなったのはマリア・バルバラが実権を握ってからだ、とアネロッテがぼやいたことがあった。ニッテナウの果樹園の売却をアネロッテは顔色を変えて反対したが、マリア・バルバラは軽く一蹴し、相手にさえしなかった。アネロッテがマリア・バルバラに毒を盛ったのも、このままでは二年以内に破産するからだと言っていた。モーザーさんの見立てはアネロッテよりも厳しい。
それにユリウスも初めて帳簿を見たときの驚きを思い出した。経理に詳しくないユリウスにさえ、切羽詰まっているのは明らかだった。モーザーさんの言い分は正しいのだろう。
「姉は財産を守るために必死でした。なのに、いい結果が出ないということは、おっしゃるとおり財産管理に向いていないのかもしれません。ですが、姉が簡単に同意するとも思えません」
モーザーさんは、うなずいた。アーレンスマイヤ家の財産の相続については、シュテッケルさんの協力を得て、ユリウスが成人するまで保留とすることで、マリア・バルバラの合意を取り付けた。しかし、さらに彼女を説得して管財人の変更をするのは、かなり手こずると見ている。
「ニッテナウの果樹園を買い戻す用意があることを示して、説得にあたるつもりだ」
ユリウスの父親から厚遇を得ていたシュテッケルさんも説得に力を貸してくれるという。それでも合意しない場合にはユリアーネの名で訴訟を起こすという、これまた極めて厄介なことまで視野に入れているそうだ。そんなモーザーさんたちの考えに、ユリウスは目を丸くした。
「でも、ニッテナウの果樹園を買い戻す資金は我が家にはないはずです」
「父の銀行から融資を受けるつもりだ。キルヒバッハと父も個人的に資金の融通をしてくれる。誰もが欲しがっているあの果樹園は、多少高くついても買い戻す価値があるんだよ」
モーザーさんが買い戻す理由と段取りを説明してくれた。キッペンベルク商会が価格をつりあげてくることも折り込み済みのようだ。モーザーさんは、他にも織物工場などの再建も考えているらしい。
ユリウスは想像だにしなかった展開にあっけにとられたが、どうにか口を開いた。
「今着ているドレスだって、キルヒバッハさんが用立ててくださったというのに、どうやってお返しをしたらいいのか」
困惑気味のユリウスに、キルヒバッハさんがおだやかに答えた。
「ユリアーネ、そう思うのなら教養ある貴婦人になることだ。それをお父上は期待したはずだ。私たちもだ」
次にモーザーさんが笑って言った。
「お金のことなら問題ない。君の後見人にとっては、君一人分の社交に必要なドレスを揃えるぐらいはたいしたことはない。それに、アーレンスマイヤ家の資産管理が軌道に乗れば、おつりがくるはずだ」
「ああ、モーザーが確実に資産を増やしてくれるはずだ」
「キルヒバッハの厳しいチェックのおかげだよ」
モーザーさんは肩をすくめて笑った。キルヒバッハさんは、自身の資産の大部分の管理をモーザーさんに任せている。キルヒバッハさんの資産が着実に増えているのは、モーザーさんの力によるところが大きいそうだ。アーレンスマイヤ家の財産も管理をすることになったら、具体的なことはモーザーさんに任せ、彼自身は監督指示するつもりだそうだ。
「キルヒバッハさんは法律や会計が分かるのですか」
ユリウスが目を見開いて尋ねた。音楽学校を辞めて家業に専念するようになってから、法律や会計の知識の必要性を実感したものだ。
「だまされない程度には理解しているつもりだ。重要なのは、まずは知識と情報だ。それから基本的な考え方と多角的な視野を持つことだ」
ユリウスには、モーザーさんやキルヒバッハさんの考え方が新鮮だった。音楽学校では、いやユリウスの周辺では、音楽や異性の話題を除けば、現実の問題解決よりも、空回りした社会の理想や形而上の議論が好まれたからだ。
男子学生の間でさえそうなのだから、女性だけの家ではなおのことだった。母はだまされやすかったし、マリア・バルバラは現実よりも理想や規範、あるべき姿を追い求めていた。唯一アネロッテだけが現実を見ていたのかもしれない。
もし、アーレンスマイヤ家にキルヒバッハさんたちのような男子がいたら、財政難になることもなかっただろう。そして、アネロッテも、帝国銀行の財産を虎視眈々と狙っていたにしても、豪華なドレスが手に入れば、当面は不満なく過ごしたかもしれない。最終的にはアネロッテの標的にされただろうが、そのときはどちらが勝つだろうか。それに、ベーリンガー家の縁者による復讐にはどのように対応しただろうか。
何よりも、兄がいたならば、母はユリウスを男に仕立てようなどと考えもしなかったはずだ。ヤーンと関わることもなかっただろうし、ゲルトルートも死ぬ必要はなかった。だが、もし兄がいたら、母さまはユリウスをどうしただろうか。
ユリウスは、ぼそりと言った。
「アーレンスマイヤ家にも、キルヒバッハさんやモーザーさんのような男子がいたら、つまり、わたしにも兄がいたらよかったのに」
キルヒバッハさんはユリウスの複雑な胸中を察したかのようだった。
「意味深い言葉だ。もちろん、兄だと思って頼ってもらいたい。私は男兄弟の末っ子で、妹がいたらと思ったものだ。兄として後見人として君を守るつもりだ」
「私も年齢の離れた妹が一人できたようで嬉しいよ」
モーザーさんには妹が三人いる。三人とも結婚していて子どももいるという。
それまで黙っていたニッツ夫人も口を開いた。
「わたしの息子たちも、妹がいたら可愛がったでしょうね。ユリアーネ、これからはすべてがうまくいくわ。二人の心強いお兄さまがいるんですもの。神様はあなたをお見捨てになっていないわ」
神に見放された人生をユリウスは呪ったものだが、苦しみばかりが続くわけではないようだ。ユリウスの顔色が明るくなったのを見たキルヒバッハさんが、からかうように言った。
「ユリアーネ、繰り返すが、私たちは君が分別のある女性として振る舞うことを期待している。モーザーは、レーゲンスブルクで君のいくつかの悪行も耳にしたらしい。アーレンスマイヤ君は同級生のお母上に暴力を振るったそうだが」
ユリウスはきょとんとした。
「何のことでしょうか」
「覚えていない?それは由々しきことだ」
モーザーさんは笑って、音楽学校の同級生のコンサートのときに、ユリウスがキッペンベルク夫人を羽交締めにしたことを話した。
「まさか、ニッツ夫人に暴力など振るっていないだろうな?」
キルヒバッハさんが、わざとらしく眉をあげて尋ねた。
「ユリアーネは優しい子よ?あり得ないわ」
ニッツ夫人が、ころころと笑い出した。
「ユリウス君の元学友で当事者の息子さんからは、君がしたことは友人を守るためだったとも聞いたよ。ユリウス君たちには申し訳ないことをしたかもしれないが、お互いさまだ、と彼は笑っていたが」
モーザーさんはモーリッツとも話したらしい。持ち前の気さくさで誰とでも話すのだろう。モーリッツのことは見どころがあると誉めていた。
モーリッツは元気にやっているようだ。過ちと苦しみを通り抜け、彼は変わった。視野が広がり、他者のことを考えられるようになったようだ。
ユリウスも変わるときなのかもしれない。
(2022.02.21)