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​​ユリウスの法的手続きをするために、出生地のフランクフルトの裁判所で審問を受ける必要があった。モーザーさんによると、形式的な手続きに過ぎないという。ただ、ユリウスの母親が悪く言われることを覚悟しておくようにとのことだった。

 

モーザーさんの予想どおり、審問では、亡き母レナーテに対する激しい非難がなされた。自らの欲得のために女の子を男として育てたことは、神に背く行為であり、極めて非人道的だと。

 

ユリウスも母の存命中は心のなかで母を責めたこともあった。だが、母が逝ってからは、ユリウスの脳裏によみがえるのは、母の優しい声、美しい笑顔、差し出された柔らかな手だった。特に幼いころのユリウスにとっては、母親は間違いなく神様のような存在だった。ユリウスに食べ物を与え、服を着せ、病気のときには看病してくれたのだから。

 

ユリウスは、後日、ニッツ夫人に、このときの心の痛みを吐露した。

 

「誰も母の本当の姿を知らないのに、あんなふうに言うなんて」

 

ニッツ夫人はおだやかな眼差しで言った。

 

「あなただけの美しい思い出は大切にすべきだわ。たとえ、知らない人が何と言おうとも、それはあなただけの宝物よ。人生って、発見した宝物を心のなかに積み上げていくことだと思うことがあるわ。それ以外は大切にしなくてもいいの」

 

そう言うと、ニッツ夫人は涙ぐんだ。

 

「息子たちもわたしとの思い出を、そんなふうに宝物だと思ってくれていたかしら」

 

ユリウスは、もちろんだと断言した。既にユリウスにとっても、ニッツ夫人と過ごす日々は宝物になっていたのだから。

 

 

 

審問では、アーレンスマイヤ家の執事と顧問弁護士のシュテッケルさんが証言を行った。体調がまだ十分回復していないというマリア・バルバラの代理だ。姉の体調を案じたユリウスは、執事に容態を尋ねた。

 

「大丈夫ですよ。実際には、ほぼ問題ないほどに回復されています」

 

執事から最近のマリア・バルバラの様子を聞き、ユリウスは胸をなでおろした。しかし、回復しているのに来ないのは、ユリウスと関わりたくないからだろうか。そう小声でつぶやいたユリウスに、マリア・バルバラと何度か話したモーザーさんが楽観的な見方を示した。

 

 「姉上は、病み上がりなのに、いくつかの受け入れがたい事実に直面して、気持ちの整理がつかないのだろう。感情的だとしても、優しい人なら、いつかきっと許してくれると思う」

 

モーザーさんは、ユリウスのことだけが原因ではないと考えている。執事も同じ考えのようだ。

 

ユリウスは、証言のためにわざわざフランクフルトまで来てくれたシュテッケルさんにも、だましていたことを謝罪し、世話になった礼を言った。

 

シュテッケルさんの奥さんが、待合室で夫を待っていた。ユリウスは、母親を笑いものにしたシュテッケル夫人をアーレンスマイヤ家から乱暴に追い出したことがある。

 

けれども、このときのシュテッケル夫人は上機嫌だった。

 

「せっかくなので、付近の温泉地に少しの間、夫と滞在することにしましたの」

 

弁護士夫人はそう言うと、宿泊費を負担したキルヒバッハさんに礼を言って、足取りも軽く馬車に乗り込んだ。シュテッケルさんは、引き続きマリア・バルバラ個人の顧問弁護士を引き受けている。

 

 

 

 

「これは、これは、まるで花畑に迷い込んだようだ。ニッツ夫人、軽やかな色のドレスがお似合いです。ユリアーネ、女の子はきれいな色を着るといっそう輝くようだ」

 

キルヒバッハさんが訪れたとき、二人は届いたばかりのドレスを試していたところだった。

 

「こんな天気の日には、気分が華やぐことをしなければね?」

 

ニッツ夫人が笑った。空が厚い雲で覆われて、気分が滅入りそうだったのだ。

 

ユリウスのドレスは明るい朱色で、きっとユリウス一人では選ばなかった色目だ。生地を顔に当ててみたら、意外にも青い瞳に映え、まるで新しい自分に出会ったかのようだった。アプリコット色を着たニッツ夫人と並ぶと、同系色の濃淡にも見える。

 

「きっと、この色のドレスを着たユリアーネは人目を引くわ」

 

ニッツ夫人が楽しげに言うと、キルヒバッハさんがうなずいた。

 

「それにしても、ちょうどよかった。今日伺ったのは、ドレスが必要になる話があるからだ。その前に、ユリアーネに渡すものがある」

 

キルヒバッハさんは懐から三通の書簡を取り出した。一つはフランクフルトからで、ユリウスが法的にも女性になったことを知らせる通知だった。

 

他の二通は、ニッツ夫人とユリウスあての美術展の招待状だった。展示の初日は限られた人びとを招いてパーティーが開催されるらしい。

 

「まあ、さっそく新しいドレスを着ていくわ」

 

ニッツ夫人は、しばらく社交の場から遠のいていたのだが、ユリウスが結婚するまで預かるという新たな使命が、彼女を再び意欲的にさせたようだ。

 

「そこで、これは私の被後見人にだ」

 

キルヒバッハさんは、青い布張りの箱をユリウスに渡した。

 

ユリウスは、思いもしなかったプレゼントに、きょとんとした。いっぽうのニッツ夫人は、わくわくしている。

 

「まあ、何かしら。開けてごらんなさいな。いいでしょう、クラウス?」

 

ユリウスが箱を開けると、中から真珠のネックレスが現れた。小粒ながらも、柔らかな光を放っている。ユリウスの瞳が驚きと感動で輝いた。

 

「きれい!」

 

即座にユリウスはキルヒバッハさんに飛び付いた。だが、次の瞬間に発した声はいくばくか低くなっていた。

 

「なんてお礼を言ったらいいのか」

 

ユリウスは言葉に詰まって、そう言うのが精一杯だった。横からのぞき込んだニッツ夫人のほうが嬉しそうだ。

 

「まあ、きれいな真珠だこと。さっそく着けてみましょう」

 

だが、ユリウスの顔には戸惑いの色が浮かんでいた。

 

「とても嬉しいのですが、でも、どうしてこんな高価なものをわたしに?」

 

「君のお父上が娘にしたであろうことを、私も後見人として今後するつもりだ。私が父親代わりをすることを認めてくれないのかね、ユリアーネ?」

 

「もちろん後見人となってくださったことに、感謝しています。でも、父さまが娘にしたであろうこと?ネックレスを贈ることが?」

 

ユリウスが聞き返した。

 

「当然だろう?」

 

キルヒバッハさんは、おやおやとでも言うように眉を上げた。ユリウスは、キルヒバッハさんの言うことがのみこめない。そんなユリウスの様子を見たニッツ夫人が口をはさんだ。

 

「わたしも父からネックレスやブローチをもらったものよ。父から母に、母からわたしに渡ったものもあるわ」

 

そういえば、姉さまたちも、日常的に宝飾品を着けていた。母さまも、父さまから贈られたネックレスや髪飾り、指輪などで身を飾っていた。だから、もしユリウスが女の子として父さまの前に現れたら、こんなふうにプレゼントされたのかもしれない。

 

しかし、フランクフルトの下町で財産詐取を企んでいた卑しい子どもには、あこがれのレースとシフォンのドレスを着ているだけで、おとぎ話の世界に迷い込んだように感じられる。だから、天罰こそがふさわしいのに、こんな高価な贈り物までされると、おとぎ話どころか犯罪のように思われる。

 

罪悪感で感情が引っかき回されて、ユリウスは、とうとう泣き出してしまった。

 

「以前、父を尊敬できなかったと言いましたが、本当は憎み恨み続けていて、殺意さえ抱いていたんです。わたしが生まれたせいで母は不幸だったし、それに」

 

ヤーンのことを告白したときのように、ユリウスはキルヒバッハさんの腕のなかで泣きながら話した。キルヒバッハさんと出会ってからというもの、自分の過去の考えや行動が鏡に映し出され、見せられているような気もする。

 

「君がお父上を憎んだとしても、お父上が君を憎む理由にはならないと思う。むしろ君を幸福にできなかったことで、自分の不甲斐なさを責めたのではないか?」

 

ユリウスはキルヒバッハさんの言葉に、はっとした。これまで父の気持ちなど考えもしなかったのだ。ユリウスは顔を上げ、キルヒバッハさんをしばらく見つめた。キルヒバッハさんもユリウスを見つめている。しばらくの沈黙のあと、ユリウスが口を開いた。

 

「父がわたしを?わたしは父を憎んでいたのに?」

 

キルヒバッハさんがうなずいた。

 

「さあ、さあ、早く着けてみせてちょうだい?」

 

ニッツ夫人が、その場の空気を変えるかのようにユリウスを急き立てた。

 

真珠のネックレスを着けて鏡の前に立ったユリウスは、ちょっぴり大人の女性になったような気恥ずかしさを覚えながらも、鏡の中の不思議な光を放つ首飾りに見とれた。初めての真珠のネックレス。母さまも好んで着けていた。もしかしたら父さまがくれたかもしれない真珠。

 

 

 

「キルヒバッハさんは、わたしのことで父が自分を責めたと、どうしてお考えなのですか」

 

 「あんな痛々しそうな女の子を見たら、正義感のある男だったら手を差し伸べるのが当然だろう?しかし、お父上にはできなかった」

 

実際に、キルヒバッハさんも汽車の中でユリウスに初めて会ったときは、見ていられないほどだったという。汽車の中でユリウスが女の子だと早くも見抜いていたのだ。父も早々に見破ったに違いない。

 

しかし、むやみに事実を明らかにするのは賢明ではない。アーレンスマイヤ氏は、ユリウスを傷付けることなく事態を収拾したかったはずだと、キルヒバッハさんは考えている。

 

「私の父は厳しかったが、アーレンスマイヤ氏と気も合ったようだから、ユリアーネのお父上も厳しさの点では私の父に負けなかっただろう」

 

だが、ユリウスは父親に厳しくされた記憶はない。おそらく父はユリウスが女の子だと気付いていたのだろう。優しくされたこともないが、それは、そもそもユリウスが父を避けていたからだ。父は、女の子には、男の子に対するようには厳しくできなかったのだろう。

 

「アーレンスマイヤ氏は、息子がいたら士官学校に入れただろうな」

 

ユリウスは、小さくため息をついて空を仰いだ。

 

「士官学校?わたしには、むりだわ」

 

けれども、ユリウスは、士官学校についてはよくは知らない。そんなユリウスに、キルヒバッハさんが士官学校での心構えを説明した。

 

「士官学校では、『君たちは、死に方を習いに来たのだ』と言われたものだ。士官候補生には、意志の力や責任意識、戦士の精神が求められる。それらを行動で示すのだ」

 

つまり、率先垂範を実践するのだ。「模範であれ、戦闘中はとくに。それが死を意味するとしても」とたたきこまれるという。

 

それにしても、キルヒバッハさんは、人の考えをよく考える人だ。そのうえ腕も立つ。静かな強さがある。この強さは士官学校で身に付けたものなのだろうか。

 

「興味深い話ね?わたしも聞きたいわ、クラウス」

 

ニッツ夫人が身を乗り出すと、キルヒバッハさんが軽く両手をあげて笑った。

 

「私が軟弱だったかどうかを知りたいのかね?」

 

ニッツ夫人は、うふふと笑った。

 

「子どものころ病弱でも、強健な大人になった人も多いのよ?」

 

ニッツ家の一番下の息子は泣き虫だったが、成長するにつれ三人の息子のなかで最も腕が立つようになったという。

 

「よろしい。私は特に病弱でも泣き虫でもなかったが、父と三人の兄に鍛えられたようなものだ。特に父は厳しかった。父の口癖は、『男は強くあらねばならない、強い者は優しくあらねばならない』だ」

 

「では、キルヒバッハ家では、女性はどんなふうに言われて育つのかしら」

 

ニッツ夫人の疑問に、キルヒバッハさんは肩をすくめた。

 

「残念ながら姉妹がいないので、ニッツ夫人に推測していただこうか」

 

「そうね、キルヒバッハ家の理屈でいけば、『女は優しくなければならない、そのためには、強く賢くなければならない』かしら?」

 

ニッツ夫人は、真に優しくあるためには、流されることのない強さが必要だと考えている。愛に知恵がともなわなければ、相手のためにならないこともある。

 

――優しくあることと、そのための強さ

 

ユリウスは、心のなかで何度も反すうした。

 

「ユリアーネ、あなたは十分優しい子よ。誰だって間違いはあるわ。でも、人は、悔い改め、正義を愛し、他人に優しくすることで、人生を変えられるわ」

 

ニッツ夫人の言葉に、キルヒバッハさんがうなずいた。

 

――正義を愛し、他人に優しくする

 

ユリウスは、自分の内側で何かが動き始めているのを感じた。

 

いつの間にか空から雲が消え、明るい春の光が窓から差し込んでいた。

 

 

 

「ところで、キルヒバッハさん」

 

ユリウスが話題を変えた。

 

「わたしは、キルヒバッハさんのことを、父親か、兄か、どちらだと思えばいいのでしょうか」

 

キルヒバッハさんは軽く肩をすくめた。

 

「父親代わりをする兄だと考えてもらいたい。こう見えても君の姉上よりもわずかだが若いんだ」

 

 

 

『ベルリン編I』終

 

(2022.04.25)

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