ユリウスの肖像

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「街の様子を見てみないか、ユリアーネ?」
自動車でニッツ夫人の住居に向かうときに、キルヒバッハさんは、回り道をして、ブランデンブルク門や歌劇場などの前をとおってくれた。ユリウスのひざの上にいる犬のガイウスは、自動車に乗るのはもちろん初めてで落ち着かない。
ユリウスがモーザーさんと警察に行ったときにも自動車に乗せてもらったが、そのときは景色を眺める気持ちの余裕などなかった。
だから、ユリウスは、このときに初めて、建設中の数多くの建物や、ひっきりなしに運行する高架鉄道を目にした。ベルリンは、レーゲンスブルクに比べて、新しく、躍動感があり、力がみなぎっている。
ニッツ夫人の住居は、キルヒバッハさんの邸宅からさほど離れていない場所にあった。
「ようこそ、ユリアーネ」
ニッツ夫人が笑顔で出迎えてくれた。ユリウスが家のなかに入ると、真っ先に一家の写真が目に留まった。幸福そうな一家。写真のなかの全員が笑顔だ。特に、ニッツ夫人の旦那様は、まるで目がないぐらい目を細めている。三人の息子たちは皆軍服姿だ。
ユリウスが一家の写真に見入っていると、ニッツ夫人も写真に向かって微笑んだ。
「夫や息子たちも、ユリアーネを歓迎しているわ」
ユリウスの新しい生活が始まった。ユリウスは、髪型を変えてみたり、部屋の飾り付けやテーブルコーディネートなどニッツ夫人と、あれこれ言いながら考えたりした。
仕立屋では外出用の服と夕食用の服のデザインと生地をうきうきしながら選び、帽子の店では美しい帽子にため息をついた。ユリウスは、装飾の華やかな帽子に密かに憧れていたが、まずは小さめの簡素な帽子を選んで、自分で飾り付けをすることにした。
けれども、服や帽子が仕立てあがるまで少し時間がかかる。普段着はニッツ夫人に教えてもらいながら、自分で縫うことにした。
子どものころに母親に無理を言って、マインツのカーニバルでドレスを着せてもらったことを思い出す。女の子って楽しい。男でもおしゃれはするし、男のふりをしていたときもフリルやレースの付いたシャツを着た。でも、きれいな色のドレスが着られることが、ユリウスには嬉しかった。
ドレスを着た女の子としての姿を、クラウスに見てもらいたいと思う。彼はどんな反応をするだろうか。そんなことを考えると、ユリウスの頬がゆるむ。
帽子の飾りが完成したころ、モーザーさんが姿を見せた。
その日のユリウスは、髪をリボンといっしょに編み込んで後ろでゆるくまとめていた。そんなユリウスを見て、モーザーさんが楽しそうに言った。
「おや、髪型を変えたんだね。似合うよ。雰囲気も女の子らしくなった」
モーザーさんは、早々とレーゲンスブルクに出かけて、マリア・バルバラと交渉し、ユリウスの後見人をキルヒバッハさんに変更してきたことを、報告に来たのだ。
モーザーさんが帰ると、ちょうど入れ替わりで、モーザーさんのお父さんがやって来た。ユリウスの父親は、モーザーさんのお父さんの恩人なのだそうだ。
銀行家で帝国議会の議員でもあるモーザーさんは、にこにこした貫録のある初老の男性だった。
「君がアルフレートをだまそうとした娘さんかい?彼は病床にありながら、だまされているのに気付かないふりをしていたようだ」
モーザーさんのお父さんも、モーザーさんと同じように親しげに話す。
「クラウス・フォン・キルヒバッハは、お嬢さんのために最善の判断をしたが、我が息子は役に立っているかね?役立たずだったら遠慮なく叱りつけてくれたまえ」
ユリウスは、キルヒバッハさんと同じくらいモーザーさんを頼りにしている。二人がいなかったら、今ごろユリウスは絶望とともに監獄のなかにいたかもしれないのだ。
ユリウスがモーザーさんのお父さんにそう伝えると、彼は満足そうにうなずいた。
ユリウスは、寝たきりの状態の父親しか見たことがない。モーザーさんのお父さんと話していると、父が元気だったら、どんなふうだったのかな、と想像する。
「アルフレートから私のことを聞かなかったようだね?頼ってもらえなかったのは寂しい気がするよ。しかし、お嬢さんにとっては縁もゆかりもなかったのだから、仕方なかったのだろうな」
モーザーさんは、友人の葬儀には何がなんでも出席し、ユリウスたちと話すべきだったと後悔していた。ユリウスの父親から手紙で相談を受けたことで、今後のユリウスのことを頼まれたと理解しているようだ。
ユリウスは、モーザーさんの親しみやすい口調につられて、まともに父と会話をしなかったことを打ち明けた。
「正直なところ、母を捨てた父を尊敬できませんでした」
ユリウスは父親に対して憎しみを抱いて育ったのだから、尊敬できなかったというのは、かなり控えめな表現だ。
「アルフレートは責任感の強い男だ。縁のあった女性を見捨てることなどしないはずだが。事情を突き止めて、彼の名誉を挽回したいところだ」
モーザーさんはニッツ夫人に意見を求めた。
「アーレンスマイヤ氏とは、あいさつを交わした程度なのですが、快活な紳士だったように記憶していますわ。聞いたところでは、切れ者で、忠誠心があり、仲間を大切にしていたとか」
モーザーさんやニッツ夫人の父に対する見解は、母や姉の考えとずいぶん違う。ユリウスは首をひねって、つぶやいた。
「でも、姉も、どういうわけか父のことがあまり好きではなかったようでした」
モーザーさんのお父さんは、小さくため息をついた。
「アルフレートを悩ませ続けたお嬢さんだね。彼は娘さんが結婚しないことを嘆いていたよ」
「まあ、結婚なさらないなんて、人生の宝を捨てるようなものよ?きっと理由があったのでしょうね」
ユリウスは、マリア・バルバラの片想いについて話そうか迷った。
アーレンスマイヤ家では、マリア・バルバラの片想いは、せいぜいアネロッテが「売れ残り」と揶揄する程度で、世間ではありえないほど尊重されてきた。
ユリウスが追い求めるクラウスは、何か別のものを追い求めている。その点、ヴィルクリヒ先生を求め続けたマリア・バルバラと同じなのかもしれないと思った。ニッツ夫人はどう考えるのだろうか。
「姉はある男性を好きになったのですが、彼には別に想う女性がいたんです。彼が独身のままだったので、姉はずっと彼を想い続けていたんです」
「その男性も、お姉さまも、相手が自分のことを想ってくれるのを待っていたのね」
ニッツ夫人は、ユリウスがうなずいたのを見て続けた。
「相手の気持ちや考えを変えるのは難しいわ。変えることができるのは自分のほうよ。つらいことかもしれないけれども、本当に愛しているのなら、相手の幸福を願って、自分は別の幸福を探すほうが、自分にとっても、相手にとっても幸福だと思うわ」
――相手の幸福?
ユリウスは、はっとした。これまでユリウスは、クラウスのそばにいたいという無邪気な気持ちでいっぱいだった。
「もし、あなたを想い続けて独身を貫く男性がいたら、あなたは幸福かしら?それが女の勲章だと?」
ユリウスは、ニッツ夫人の問いに対して、「そう思わない」と答えた。イザークやダーヴィトの顔が思い浮かび、彼らにはすてきな相手と幸せになってほしいと思う。
モーザーさんからは、現実的な指摘がなされた。
「独身だと不便なことも多かろう」
確かに独身では一人前の女性として扱われないのが、社会の暗黙の認識だ。
「生活が落ち着いたら、さまざまなイベントの招待状がユリアーネ・フォン・アーレンスマイヤ嬢あてに届くように手配するつもりだ。いい青年との出会いを期待しているよ。君の後見人も尽力するだろうが、私もキルヒバッハ君に負けないつもりだ」
今度はユリウス自身の結婚の話になってしまったようだ。
ユリウスは、未婚の母とその子どもが、どんなに苦労するかを身をもって知っている。だから、結婚の大切さは理解できる。けれども、男として生きてきたユリウスにとっては、結婚なんて不可能で、絵空事のようなものだった。それが、ここにきて、結婚、結婚と耳にするようになると、少しばかり辟易する。
「結婚できる年齢なのはわかっているのですが、なかなか実感がわかなくて」
ユリウスがつぶやくように言うと、ニッツ夫人が大げさに目を見開いて言った。表情が豊かなところは、実母のレナーテに似ている。
「あらあら、まだまだと思っているうちに、あっという間に時は流れ去ってしまうものよ」
モーザーさんのお父さんが首を縦に振った。
「下のお嬢さんまで結婚しないとなったら、アルフレートが気の毒で仕方がないよ」
「あなたの花嫁姿を、わたしも内心楽しみにしているのよ。今からドレスやベール、髪型、披露宴の飾り付けなどあれこれ考えるのは楽しくって。何よりも、あなたが幸福で最高に輝いている姿が見たいわ」
ユリウスが追い込まれると、モーザーさんが今度は笑って助け舟を出した。
「かた苦しく考えずに、まずは、さまざまな出会いを楽しむことだ。君はまだまだ若い。これからますます美しくなり、男たちが放っておかなくなるだろう」
モーザーさんが懐中時計を取り出した。
「そろそろ失礼するよ。最後に、アルフレートの友人として言わせてもらうよ。どうか、彼を恨まないでやってほしい」
ニッツ夫人も父の弁護にまわった。
「ユリアーネやお母さまには、つらかったでしょうけれども、お父さまにも事情があったのだと思うわ」
ニッツ夫人の態度は、実母レナーテを思い起こさせた。お人よしの母も、他人のことになると、こうやって知らない人の弁護をしたものだ。もっとも母は、言葉がうまく出てこないことの方が多かったが。
モーザーさんがつけ加えた。
「アルフレートは自分の弱さを見せない男だった。たいがいの男はそうだが。彼も孤独だったのだろう」
父が母を捨てたのは、ニッツ夫人の言うように何かの事情があったのだろうか。
どういうわけか、ユリウスにアネロッテの言葉が引っかかった。父さまが母さまを愛したのは、正妻に浮気され、寂しかったからだと。
(2022.01.16)