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「よりによってヤーンを」

 

帝国警察の警部は深いため息をついた。

 

弁護士のモーザーさんに付き添われたユリウスは、警部から聞かれたことは隠すことなく話した。そのあとに、ヤーン殺害と死体遺棄、それからシュワルツコッペン殺害現場で警部に撃たれたことを自ら告白したのだ。

 

ユリウスは、アネロッテの行方不明事件の重要参考人であり、バイエルンの警察に移送されるはずだった。しかし、警部は帝国警察の所管に持ち込むために手を尽くしているらしい。そこに、ヤーン殺害が加わって複雑な様相を呈してきた。

 

それでも、結局は、異例のことらしいが、ユリウスは、今後の出頭命令に直ちに応じることと、警察官の訪問等を条件に、その日は解放された。

 

ユリウスがキルヒバッハ邸に戻ると、モーザーさんとともに夕食に誘われた。けれども、疲労困憊しきっていたユリウスは、着替えのために部屋に入るなりベッドに倒れ込んでしまった。

 

部屋から出てこないユリウスを心配して、男二人と小間使いの女性がユリウスの部屋に様子を見に来たら、ぐっすり眠っていたそうだ。

 

 

 

次の日曜日のことだった。教会から帰ったキルヒバッハさんは、ユリウスを昼食に招き、食事の前の待ち合わせの部屋で年配の女性と引き合わせた。以前、厨房でマルタと話していた女性だった。

 

「ニッツ夫人、ユリウス・フォン・アーレンスマイヤ嬢を紹介させていただきたい。可愛いお嬢さんを男性の名前で呼ぶのは慣れないのだが」

 

ユリウスも、可愛いと言われてくすぐったいと思うと同時に、男性の名前で女の子として紹介されて、木に竹をついだようなちぐはぐな感じがした。

 

「アーレンスマイヤのお嬢さん、紹介しよう。こちらはルイーゼ・ニッツ夫人、私の親友のお母上だ」

 

ユリウスが少し照れながらあいさつをすると、ニッツ夫人は微笑んだ。

 

「男の子として育てられたんですって?こんなにきれいな女の子なのに」

 

デンマーク貴族の血を引くニッツ夫人は、淡い金髪で青い目の笑顔のすてきな女性だった。

 

執事が食卓の準備が整ったことを告げると、キルヒバッハさんはニッツ夫人の手を取って食堂に向かった。優雅な二人の後ろ姿を見て、ユリウスは、初めてキルヒバッハさんに手を引かれて食堂に入ったときのことを思い出した。いつもは、女性に手を差し出す立場だったのが、初めて差し出される立場になってどきどきしたものだ。

 

 

 

「ニッツ夫人は、私にとっては母親のような存在だ」

 

幼いころに母親を亡くし、男ばかりに囲まれて育ったキルヒバッハさんにとっては、親友の母親であり、同じく男ばかりの家の女主人は、話しやすい女性だったという。

 

「まるで息子が一人増えたようだったわ」

 

ニッツ夫人によると、キルヒバッハさんは、一家が国内にいる間はニッツ家に頻繁に出入りして、いないほうが珍しい時期もあったくらいだそうた。

 

「クラウスは、力強くて、切れ者で、存在感があって、そのうえ面倒見もよくて、息子たちにとっては目標とすべき存在だったようなのよ。夫とは、外交問題についてよく意見を交わしていたわ」

 

ニッツ夫人は、キルヒバッハさんをほめちぎった。

 

「それに、夫と息子たちの死を受け入れられたのは、クラウスのおかげなのよ。こんな未亡人の意見を聞いたり、頼ったりしてくれて、励みになったわ」

 

笑顔を絶やさないニッツ夫人も、夫と息子三人を亡くしてから一年以上泣き暮らしたという。

 

キルヒバッハさんも、ニッツ夫人を立てることを忘れなかった。

 

「外交官夫人として国内外を見聞してきたニッツ夫人の意見は、男性や専門家にない視点があり、非常に興味深い。それを聞かないのはもったいないことだ」

 

二人の会話ばかりが続いたので、ニッツ夫人が、もっぱら聞き役だったユリウスを会話に引き入れようとした。

 

「ところで、お嬢さんは、かわいそうな犬の世話をしたんですって?優しいお嬢さんだわ。きっと、お母さまもお優しくて、あなたに似た美しい女性だったのでしょうね」

 

ニッツ夫人は、「差し支えなければ」と断ってから、母親について尋ねた。

 

ユリウスは、母がユリウスにピアノを習わせるために、仕事を増やすなどして、母子家庭で苦労しながら一生懸命にユリウスを育てたことを話した。

 

「母は、わたしから見ても、とても美しくて、優しくて、だから、もしわたしが生まれなかったら、もっと幸福になれたかもしれないのに、と思うときもあります」

 

「あなたは、お母さまを愛していたのね?」

 

「もちろんです。わたしは、優しい母が好きでしたし、わたしには母が必要でした。でも」

 

「でも?」

 

正直なところ、ユリウスは、ピアノ教師と心中した母に対する気持ちの整理がついていなかった。もしユリウスさえ生まれなかったら、恋した人といっしょになれたかもしれないのだ。しかも、男と偽って育てられたことで、ユリウスは自らの存在意義を疑い続けて苦しんだ。

 

そして、ユリウス自身はまだ気付いていなかったが、その自己否定の気持ちが、ユリウスの魂をいびつにしていた。

 

「なんでもありません」

 

ニッツ夫人は、そう答えたユリウスの心の中を読み取ったかのようだった。

 

「あなたが優しいと感じたことがあるならば、あなたは愛されていたと思うわ。それに愛されたからこそ、動物にも優しくできるのではないかしら」

 

なぜだかユリウスの胸がつまり、目に涙が浮かんだ。こんなにも核心をつきながらも温かみを感じさせる女性に会うのは初めてだ。

 

今にも涙ぐみそうなユリウスを見たニッツ夫人は、食事の席にふさわしくない言葉を詫びて話題を変えた。

 

「ところで、音楽学校でピアノを学んでいたんですって?それは、ぜひ後でお聴きしなければ」

 

ユリウスは今度は苦笑しながら、ていねいに断った。というのは、キルヒバッハ家にピアノはあるが、調律がされていないので調子が狂うのだ。

 

ニッツ夫人は軽やかに笑い、キルヒバッハさんは軽く肩をすくめた。

 

その後しばらく音楽の話題が続いた。

 

 

 

食事が終わり、ゆったりした居間に移ると会話も率直になった。

 

「わたしったら、おかしな想像をしてしまいましたの。この可愛いお嬢さんは、将来、恋人や夫から古代ローマの英雄と同じ名前で呼ばれることになるのかしら。お嬢さんの意思は尊重すべきだと思いますが、女性として生きていくのなら、名前の変更も必要なのではなくて?」

 

「弁護士によると、変更することになるそうだ」

 

ふとユリウスの脳裏に、さまざまな人たちがユリウスの名を呼ぶ声がよぎった。母の優しい声や、クラウスの低く響く声、イザークのややはっきりした澄んだ声、ダーヴィトの穏やかでかすれぎみの声。マリア・バルバラの怒ったときの甲高い声も。

 

「女性として生きることを考えれば当然のことなのでしょうけれども、十数年間ともにした名前ですので、なんだか寂しい気もします」

 

「名前の変更はいたしかたのないことだ。名前とともに生まれ変わると考えたほうが建設的だと思うが?」

 

キルヒバッハさんによれば、過去の幸福は大切にすべきだが、将来を縛るべきものではないという。その言葉にユリウスが納得すると、今度はニッツ夫人が楽しげな声を出した。

 

「では、どんな名前がいいかしら?新しい名前を考えるのって、わくわくするわね。めったに経験できることではありませんもの」

 

「たとえば、ユリウスと響きが似ている名前であれば、ユリア、ユリアーネ、ユリアーナだが」

 

「ユリアーネという名の王妃様がデンマークにいたわ。ドイツのご出身よ。ユリアーネはどうかしら」

 

キルヒバッハさんとニッツ夫人の間で、あれよあれよという間に話が進んでいく。ユリウスは、ユリアーネという名前もいいかもしれないと思った。そう伝えると、さっそくニッツ夫人とキルヒバッハさんから、ユリアーネと呼ぶ許可を求められた。

 

ユリウスが承諾すると、ニッツ夫人が居住まいを正してユリウスの瞳を見た。

 

「ユリアーネ」

 

やわらかな声で呼びかけて微笑んだ。

 

「もし、よかったらわたしのところに来ない?いつまでもここにいたら、あなたの評判に傷がつくわ。もちろんクラウスが紳士であることは周知のことだけれども、わざわざ誤解を招くような行動をする必要はないわ」

 

「でもご迷惑にならないでしょうか?」

 

ニッツ夫人は再びすてきな笑顔を見せた。

 

「わたしは、ずっと女の子が欲しかったのよ。女の子がいたら、ドレスや家の飾りをいっしょに選んだり、あれこれ話をしたりしたかったの。でも、この年齢になると、幼い子どもを育てるよりも、あなたぐらいの年齢のほうがいいわ」

 

最初の「女の子が欲しかった」のたった一言でユリウスの胸が激しく揺さぶられ、ユリウスは堰を切ったように声をあげて泣き始めてしまった。ユリウスがこんなふうに人前で大声で泣いたのは生まれて初めてのことだった。どうして、ニッツ夫人の言葉は、こんなにも心に入ってくるのだろう。まるで渇いた心が必死で求めていた水のようだった。

 

泣きながら声にならない声で、感謝の言葉を口にするユリウスを、ニッツ夫人は抱きしめた。

 

「これまで、男の子として暮らしてきたなんて、たいへんだったでしょうね」

 

「でも、わたしには、他にも言えないことが」

 

ユリウスがしゃくりあげながら言いかけたときに、隣からキルヒバッハさんの声が聞こえた。

 

「ニッツ夫人には経緯をすべて話した。お嬢さんの同意を得ずに勝手に話したことは、お詫びする。しかし、ニッツ夫人は口もかたくて信用のおける女性だ。私も世話になった」

 

そうはいっても、ニッツ夫人は、キルヒバッハさんたちとは違って父の知り合いでもなく、ユリウスを預かる理由などないのだ。

 

それなのに、人殺しでさえあるユリウスを受け入れてくれるというのだ。驚くべきことだ。誰だって、そんないわくつきの少女を預かりたがらないだろう。上流階級では特にそうだ。きれいごとを言っても、自分の手を煩わせることなく、結局は施設に入れて他人任せにするのが常なのだ。

 

ニッツ夫人は、実母とも姉とも違う。レーゲンスブルクで会ったどんな上流の女性とも違う。それに、夫と息子全員と死別するという苦しみを経てもなお、しなやかで、内面からの輝きを放っているように見えた。

 

 

(2021.12.02)

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