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弁護士であり、キルヒバッハさんの友人でもあるモーザーさんは、マリア・バルバラと対面したときに同席していた男性だった。

 

やや武骨な感じの顔つきだが、落ち着いた上品な服や装飾品を身に付け、身だしなみにはことのほか気を使っているようだ。キルヒバッハさんよりわずかに背が高く、がっしりした体格の二人が並ぶと迫力がある。

 

モーザーさんの父親もユリウスの父親と親しかったそうだ。そればかりか、ユリウスの父親は、モーザーさんの父親の恩人だという。

 

「だから、お嬢さんを全力で支援するつもりだ。遠慮なく頼ってほしい」

 

モーザーさんの力強い言葉に、うつむき続けていたユリウスは、思わず顔をあげた。

 

「キルヒバッハから相談があったときには、実に驚いたよ」

 

モーザーさんは親し気な口調で続けた。

 

「一年ほど前のことだ。私の父をとおして君のお父上から照会があった。仮定の話だったが、まさか事実だったとは」

 

男として育てられ、男になりすましている女の子がいたとしたら、どんな問題があるか、また、その女の子が女の子として暮らせるようにするために必要な手続きを尋ねられたのだ。

 

ユリウスは驚きのあまり声が出なかった。父さまがそんな照会をするなんて、ユリウスが女だと知っていたのだ。噂を恐れて、地元の弁護士ではなく、気心の知れた旧友を頼ったのだろう。

 

モーザーさんは契約が専門で、状況によっては、知り合いで特に少年事件に詳しい専門家に助力してもらうつもりだと言った。

 

しばらく、もっぱらユリウスとモーザーさんとのやり取りが続いた。

 

「早急に性別変更の手続きを進めるべきだ」

 

「わたしは詐欺罪で逮捕されるのでは?」

 

「性別詐称で君が刑罰を受けることはないだろう」

 

理由は、無力な赤ん坊が生まれたときから性別詐称を意図するのは不可能だからである。相続に関して微妙な点が残る程度で、見通しは悪くないそうだ。

 

ユリウスは、これまでさんざんヤーンに脅されてきたので、肩すかしをくらったようだった。

 

「お母上は、なぜこんなことを思いついたんだろうか?女だということを隠しとおすには限度がある」

 

「未婚の母には世間の風当たりは厳しかったので、母もつらかったのだと思います。少しばかり父に仕返ししたかった、ちょっとした幸福が欲しかった、と言っていました」

 

「出生の届出などはどうしたんだ?さまざまな場面で協力者が必要になるはずだ」

 

「ヤーンという偽医者がいろいろ手配していました。でも、母は、その男にそそのかされ、ゆすられたんです」

 

「ヤーンについては、キルヒバッハから先ほど聞いたよ。もう一度、私にも説明してくれないか。つらいかもしれないが、これから何度も同じことを話さなければならないだろう。お母上を守ろうとしたのだから、正当防衛を主張するつもりだ。自由を得るためには、耐え抜くしかない」

 

自由を得るという言葉がユリウスの心に響いた。無理をして男として振る舞ってきたこれまでの不自由を思い、胸が熱くなった。

 

――女の子になれるということ?

 

ユリウスは暗雲に細い光が射しこんでくるような感覚を覚えた。

 

弁護士のモーザーさんも、キルヒバッハさんと同様に、ユリウスの告白を聞いても、不快感を示すことなく親切に接してくれる。それどころか、二人からは、これまで会った誰よりもユリウスを守ろうとしているのが伝わってくる。

 

ユリウスはキルヒバッハさんに話したことを、もう一度話した。モーザーさんは、さらにそのときの状況やユリウスの感情を詳細に聞いてきた。その間、隣にいたキルヒバッハさんが差し出した手を、ユリウスはしがみつくように握った。

 

「ところで、そのペーパーナイフはどうしたんだ?」

 

「死体とともに土に埋めたはずなんですが、ある日、わたしの部屋にあって」

 

ユリウスはペーパーナイフを見つけたときの衝撃を思い出し、思わずキルヒバッハさんの手をぎゅっと握った。

 

「誰かが掘り返したということか?」

 

モーザーさんが尋ねた。

 

「アネロッテです。彼女は、わたしがヤーンを殺害したことを知っていて、それを理由にわたしを利用しようとしていました」

 

「彼女一人で掘り出したのか?」

 

ユリウスはヤーコプのことを話した。アーレンスマイヤ家に復讐のために近付いたことから始まり、アネロッテにほれ込み、ほぼ彼女の言いなりだったこと、最後にはドナウ川に身を投げたことなどだ。ヤーン殺害とアネロッテの企みとベーリンガー家の縁者による復讐劇とがからみ合い、複雑な話になったが、モーザーさんの理解は速かった。

 

「彼の死亡は確認されたのかね」

 

ユリウスは、はっとした。

 

「遺体は見つかっていないと思います」

 

そのあともモーザーさんの質問は続いたが、ひととおり終わると、それまで黙っていたキルヒバッハさんが、ユリウスの上腕部の傷の原因を尋ねた。ユリウスは素直に話した。

 

そして、アネロッテの話を再確認することになったが、その前に、ユリウスが不安を口にした。

 

「ヤーンやアネロッテのことで、わたしは、どうなるのでしょうか」

 

「仮に刑が科されたとしても、減刑のうえ、条件付特赦になると考えている」

 

モーザーさんによると、悲観的になる必要はないとのことだった。

 

 

 

 

 

 

アネロッテの話が終わると、次はユリウスの今後の話になった。

 

ユリウスは、ロシアに行きたいと主張したが、男二人はあまりいい顔をしなかった。

 

「その恋は、あと数年、相手の男が成年になるまで待てないのかい?彼も若すぎるように思うがね。彼も君のことを愛していて、将来の約束をしてくれたのかい?仕事は何をしているんだね?」

 

――将来の約束?

 

モーザーさんの諭すような問いかけに、ユリウスは答えに詰まった。

 

「それが答えならば、姉上もお認めにならないだろう」

 

「なぜ姉が認めなければならないのですか?」

 

「アーレンスマイヤ君は、成人するまで姉上の監護下にあるからだ。このあとの長い人生をその男とともにしたいと思うのだったら、数年ぐらい待てると思うが」

 

ユリウスは、そんなに待てないと思った。ユリウスが戸惑っていると、キルヒバッハさんが口をはさんだ。

 

「いずれにしても当分の間は出国できないはずだ。その間、可能であればレーゲンスブルクから離れた場所で暮らすほうがいいだろう。たとえば、ここベルリンだ」

 

モーザーさんも同意見だ。レーゲンスブルクではユリウスは男として知られているうえに、事件の当事者だ。冷たい視線を浴びるのは目に見えている。ユリウスもそのとおりだと思う。

 

「そこで、誰と住むかだが、お嬢さんが結婚するまで、ふさわしい教養ある女性のもとで暮らすのがいいだろう」

 

これもモーザーさんも同意見だ。しかし、ユリウスは、かた苦しそうな上流階級の女性よりも、マルタといっしょにいたいと思う。ロシアのことや料理も教えてもらいたい。料理人は専門職で、生計を立てることもできる。ユリウスは希望を伝えたが、キルヒバッハさんにはあえなく断られてしまった。

 

「妻の不在中に、適齢期のお嬢さんを預かり続けるわけにはいかない」

 

続いて、思いもよらなかった話題が、モーザーさんの口から出た。

 

「アーレンスマイヤ君を監護しているのは姉上だが、先日の様子から判断すると、手を引いてもらったほうがいいだろう」

 

「姉は、頭に血が上りやすいのですが、根は優しい人なんです」

 

「慈善事業にも積極的なようなので、お優しい面があるのも事実だろう。だが、頭に血が上ったときが問題だ。先日は君を守ろうとしなかったどころか、話さえろくに聞かなかった」

 

モーザーさんは、怒りに任せて発砲した件も問題視した。キルヒバッハさんも同じ考えのようだ。モーザーさんは続けた。

 

「それから、アーレンスマイヤ家の財産管理も姉上が行っているようだが、お嬢さんが当主でなくなったとしても、管財人の変更を請求すべきだ」

 

ユリウスは目をぱちくりさせたが、モーザーさんが何を言っているのかを理解すると、驚きの声をあげた。

 

「つまり、姉に財産を管理させるべきではないと?」

 

モーザーさんはうなずいた。

 

「お父上の死を境に、アーレンスマイヤ家の資産が著しく減少し、負債が急増している。アーレンスマイヤ氏が寝たきりになってから、少しばかり不振になるのは納得がいく。しかし」

 

この手の話はモーザーさんの得意分野らしいが、キルヒバッハさんが、そのあとを引き取った。

 

「このままだと、姉上も家屋敷を手放す羽目になるのではないか」

 

「そのとおりだ」

 

ユリウスは目を丸くして二人を交互に見たが、そんなユリウスにキルヒバッハさんは、「言いにくいことだが」と前置きしてから言った。

 

「先日の様子から察するに、ご自分の感情に正直で、それが全てにおいて許されてきたようなお嬢様だった。大局を見ようともしない姿勢が問題だ。そんな女性が大金を動かすとどうなるかは目に見えている。その点に限ってはアネロッテは正しい」

 

キルヒバッハさんの目には、マリア・バルバラはそのときどきの気分に支配されていると映ったようだ。さらに、女性が財産管理を行っていることにも疑問を呈した。

 

一般的には、女性が管理できるのはせいぜい本人の財産だけだ。アーレンスマイヤ家の財産は、叔父や従兄などの男性の血縁者、姉に配偶者がいたらその配偶者、そうでなければ弁護士などが後見人となって管理すべきなのだ。だから、キルヒバッハさんが疑問に思うのも自然なことだ。

 

「姉は財産を守るために懸命でした」

 

ユリウスは弁護したが、今度はモーザーさんが頭を軽くふった。

 

「アーレンスマイヤ氏のもう一人のお嬢さんの面目をつぶしたくはないのだが、城でも建設したわけでもないのに、普通ではあり得ない状況だ。これまでの大きな取引の契約内容について、引き続きバイエルンの知り合いに調査を依頼している」

 

そして、モーザーさんは、ため息まじりに小声でつぶやいた。

 

「やる気のある無能者は困る、と誰かがぼやいていたが」

 

キルヒバッハさんも隣でうなずいている。

 

モーザーさんは言い過ぎた無礼を詫びて、本題に戻った。

 

「姉上がお一人でアーレンスマイヤ家の財産管理を行っているのは、お父上の遺言かい?」

 

原則、女性が財産を預かることはないが、遺言などがあれば別だ。

 

「弁護士の話では、父が、姉と母と弁護士とで共同管理するように話していたらしいのですが、実際には姉一人で管理していました」

 

ユリウスが記憶をたぐりよせながら答えた。

 

「弁護士も入っていたのか」

 

モーザーさんもキルヒバッハさんも、当主の義務は、何代にもわたって引き継がれてきた資産を守り、次の代に引き継ぐことだと考えている。したがって、その財産を減らし続けているのは問題だ、と認識している。

 

「お嬢さん、君にはアーレンスマイヤ家の出自にふさわしい生活をし、結婚をする義務がある。それをお父上も望んだだろう。そのためには、きちんとした後ろ盾が必要だ。資産もあったほうがいい」

 

先ほどの「将来の約束」に続いて、「結婚」という言葉に、ユリウスの胸がどきどきした。男として生きていた間、考えても虚しいだけだったその言葉が、憧れと不安を呼び起こし、胸に甘酸っぱさとこそばゆさを投げ落とした。そんなユリウスをよそにモーザーさんは続けた。

 

「したがって、現在、姉上がお嬢さんの監護者であり、管財人でもあるのだが、姉上にはいずれも辞退していただき、代わりに別の後見人をつけるべきだ」

 

「モーザー、アーレンスマイヤ氏のもう一人のお嬢さんの財産も守る必要はないか?」

 

キルヒバッハさんの意見にモーザーさんは苦々しく笑った。

 

「ああ、私が話をつけに行くしかないのだろうな」

 

(2021.11.14)

*成年年齢を21歳としました。

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