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翌日、キルヒバッハさんは参謀本部ではなく、別のところに出かけたようだ。帰宅してからも、客間と書斎を行き来し、ユリウスが呼ばれたのは、夕方近くになってからだ。ユリウスが居間に入ったときに、執事のヘララーさんの慌てた声が聞こえた。

 

「どうかお待ちください」

 

キルヒバッハさんが肩をすくめてみせた。ほどなく、招かざる客が居間にずかずかと侵入してきた。それが誰であるかわかると、生気を少し取り戻したユリウスの顔が、再び真っ白になった。

 

キルヒバッハさんは、そのユリウスを隠すように、その男の前に立ちふさがった。

 

「職務熱心なのは立派な心がけだが、いつから、法の番人たる警部が、許可なく住居に押し入るようになったのだ?」

 

現れたのは、アーレンスマイヤ家周辺を調査していた帝国警察の警部だった。

 

「私に用があるのは、あなたの後ろで隠れている人物です。引き渡してもらえないかね、少佐殿?」

 

「私には、このお嬢さんを保護する道義上の義務がある。彼女が怪我をした責任が私にもあるのでね」

 

「保護者であるアーレンスマイヤさんは了承している」

 

声を荒らげた警部に対して、キルヒバッハさんは平然として言った。

 

「あなたのご担当は、行方不明者の捜索や傷害事件ではなかったはずだ。アーレンスマイヤ氏の調査をまだ続けているようですな?上層部から圧力がかかったと記憶しているが」

 

「マリア・バルバラ・フォン・アーレンスマイヤさんから事情をお聞きして、風向きが変わると確信したんでね」 

 

「その考えには同意できかねますな。あなたの同僚は、他にも調査すべき事件が山積しているのに、あなたは国費と労力を無駄にしている、とぼやいていたが」

 

「何がおっしゃりたいのですかな?」

 

「申し上げたとおりですよ。今この瞬間にでも、どこかでスパイ行為が行われていないとも限らないのでね。そうなると我々の技術と戦術、作戦が水の泡だ。もっとも、警部殿の経歴を考慮すると、真の目的は想像できるが」

 

警部が何か言おうとしたが、キルヒバッハさんは続けた。

 

「それはともかくとして、警部殿がこのお嬢さんに質問をするのは、職務上の権利であり責務でもある。実のところ、近日中に警察に連れて行くつもりだった。しかし、彼女はまだ不安定だ。落ち着いてから、弁護士か私が立ち会って対応しよう。約束する」

 

「では明日にでも出頭するように」

 

「早くても明後日だ」

 

ちょっとした応酬が繰り返された末に、結局、明後日にユリウスは警察に行くことになった。

 

「話は変わるが、警部殿は、調査を差し止めさせた黒幕と、その理由を突き止めたのかね」

 

「ほう?少佐殿は何をご存知で?」

 

「警部殿、私は自分の分限を心得ているつもりだ。したがって、その件に関与するつもりはない」

 

そう言って、キルヒバッハさんはドアの前で待機していた執事を招き入れ、警部を部屋の外へ案内させた。

 

「少佐殿、私は必ず真実を明らかにしてみせますよ」

 

警部がそう言い残すと、キルヒバッハさんは真顔で応酬した。

 

「それは楽しみだ。だが無関係の者を巻き込まないことを願っている」

 

 

 

ユリウスは二人のやり取りを、ぽかんと口を開けて聞いていた。キルヒバッハさんは明らかにユリウスを守ろうとしていた。警部の前に立ちはだかったキルヒバッハさんの背中が、どんなに頼もしく思えたことか。ユリウスには、これまでこんなふうに守られた記憶はない。

 

ユリウスは助けてくれたことに礼を言い、遠慮がちに尋ねた。

 

「なぜ、わたしを守ってくださったのですか」

 

「アーレンスマイヤ氏の『ご子息』だからだ」

 

「父をご存知なんですか?」

 

キルヒバッハさんはうなずいた。

 

「私自身もお父上にお会いしたことがあるが、現在領地にいる私の父は、アーレンスマイヤ氏とは戦友でね。ともに戦った仲間というのは特別な思い入れがあるものだ。その家族に対してもだ。父からはアーレンスマイヤ氏のご家族の力になるように言われている。もちろん言われなくても、私もそうするつもりだった」

 

――父さまの?

 

ユリウスは、なぜだか涙が出そうになった。キルヒバッハさんは続けた。

 

「それというのも、私は参謀本部に異動する前には陸軍省に在籍していてね、アーレンスマイヤ家の三人から別々に情報部に調査依頼があったことも把握していた。不審に思ったが、異動や個人的な事情が重なり、アーレンスマイヤ家のことまで手が回らなかったのだ。もっと早く事情を聞いて対応すべきだったと思っている」

 

思いもかけない事実にユリウスは声が出なかった。キルヒバッハさんは続けた。

 

「さっそく友人の弁護士に相談したところ、彼は私の話に驚いていた。詳しいことは、明日来るから直接聞きなさい」

 

ユリウスは、先ほどから気になっていたことを聞いた。

 

「ところで、あなたが、あの警部とお知り合いだとは思いませんでした」

 

「シュミット警部とは、二、三回、軽く言葉を交わした程度だ」

 

「でも、あなたは警部が追っていることをご存知のようでしたが」

 

「ただの推測だ」

 

「教えてください。なぜ警部は、わたしの父を探っているのですか。父がスパイだったからではないのですか?」

 

「どこからそんな考えが出てきたんだね?」

 

「アネロッテの話です。父はロシアのスパイだったそうです。ミュンヘンのベーリンガー伯爵がそれを知って通報しようとしたところを、父が先手を打って、一家皆殺しにしたということでした」

 

このことは、マリア・バルバラの前では話していない。

 

「彼女がそう言った根拠は何かね?」

 

「異父兄から聞いたそうです」

 

ユリウスはヨアヒム・シュワルツコッペンの説明をした。

 

「お嬢さん、君の真実を知りたいという気持ちは理解できる。だが、私が言えるのは、報告書の内容どおりのことだ」

 

ユリウスは少しためらってから、食い下がった。

 

「父の遺言では、ユリウスが十八歳になったときに、フランクフルトの帝国銀行の金庫を開けるようにとのことでした。アネロッテは、そこにあるのはロシア皇帝の隠し財産だと言っていました」

 

キルヒバッハさんが何か言いかけたが、言い直した。

 

「お嬢さんのお父上は忠誠心のある高潔な人物だった。それは信じて欲しい。亡きお父上のためにも」

 

キルヒバッハさんは何か知っている。ユリウスは、質問を変えてみた。

 

「仮にベーリンガー伯爵がスパイだったとしても、なぜ本人だけでなく、妻子や召使いに至るまで死ぬ必要があったのでしょうか?」

 

「君はどう考えるんだね?」

 

ユリウスは逆質問に戸惑ったが、それは、まさしくずっと疑問に思ってきたことだ。

 

「それが理解できないんです。召使いや子どもまで殺すなど目立ち過ぎますし、当時の法制度でも認められたとは思えません。それを父が知らないとは」

 

ユリウスは言葉を切ってから続けた。

 

「それに陸軍大臣が承認したとなると大問題です。暴動でさえ起こりかねないのに、そうはならなかった」

 

「そのとおりだ。特に相手は地元議会の議席まで持った有力者だ。どんな名目を掲げようとも、些細なことで大問題になることは、君のお父上も承知のはずだ」

 

ユリウスの頭に、話しているうちに別の疑問がもたげてきた。

 

「皆殺しとは、どんなときにするのでしょうか」

 

ユリウスは自問自答を始めた。

 

顔を見られた強盗犯が口封じのために一家皆殺しに及んだ事件は、過去に聞いたことがある。それ以外には、犯罪組織同士の抗争か、封建時代以前の敵討ち、復讐を恐れて一族を根絶やしにする、などだ。

 

ベーリンガー伯爵は強く抵抗したということだったが、召使いや子どもに至るまで武装して抵抗したのだろうか。そうでなければ、とても政府機関の名で、無関係であろう召使いまで皆殺しなどできるとは思えない。たとえ父のほうがスパイだったとしてもだ。

 

ユリウスは、アネロッテの話も何かがおかしいとつぶやいた。

 

「お嬢さんは、なかなか鋭いようだ。機会があったら、先ほどの警部にも質問してみることだな」

 

「少佐、はぐらかさないでください。あなたは何をご存知なのですか?」

 

「お嬢さん、私の答えは先ほどと同じだ。聞いていただろう?」

 

ユリウスは納得しかねたが、キルヒバッハ少佐から聞き出すのは不可能だろう。

 

「わかりました」

 

「よろしい。まずは君自身の問題を解決するのが先だ」

 

 

 

 

夕食後、ユリウスはこれまでの出来事をできるだけ客観的に整理するために、キルヒバッハさんの助言通り思いつくことを端から紙に書き出してみた。

 

「太陽の下を堂々と歩けるようにするためだ。お嬢さんのような美人が男として生活するのは限界だ」

 

しかし、考えがあの出来事に至ると、動悸が激しくなり胸が苦しくなる。あの男の存在は記憶から消したい。これだけは誰にも言いたくない。

 

いっぽう、キルヒバッハさんからは隠しごとをしないようにと釘を刺されている。

 

「私の知らない点を攻撃されたら、防御は難しくなる。あらかじめ、どんな不利なことでも、むしろ不利なことこそ正確に教えて欲しい。それが、お嬢さんを守ることになる」

 

正直に打ち明けなければ、ユリウスのために労力を割いてくれたキルヒバッハさんさんを裏切ることになる。ユリウスは迷ったあげく部屋を出た。

 

キルヒバッハさんの書斎のドアからは、まだ灯がもれていた。ユリウスがドアの前を行ったり来たりした末に、意を決してドアをノックしようとしたときだった。ドアが開いて、キルヒバッハさんが姿を現した。

 

「夜更けに、年ごろのお嬢さんが一人で男の部屋に訪れるとは」

 

キルヒバッハさんは、あきれたようにそう言って、ユリウスを開放的な居間に連れ出そうとしたが、ユリウスは頭を振った。

 

「あなたに隠しごとはしたくないのですが、わたしには救いようのない罪があるんです」

 

キルヒバッハさんは、言いよどむユリウスを書斎のなかに入れた。

 

「それは何だね?」

 

「はい、わたしは、わたしは」

 

しばらくの沈黙のあと、ユリウスは消え入りそうな声で言った。

 

「人殺しなんです」

 

そう言ったユリウスの目から涙がこぼれ落ちた。

 

「アネロッテのことか?」 

 

ユリウスはうつむいたまま、頭を振った。

 

「ゲルハルト・ヤーン、偽医者です」

 

キルヒバッハさんは、その場で崩れ落ちそうになったユリウスを抱き止めて、いすに座らせた。

 

「理由があったんだろう?話してみなさい」

 

ユリウスはむせび泣きながら、ぽつぽつと話し出した。

 

「一昨年の降誕節の前、雪の夜に、あの男が母さまを襲おうとしていて、だから、近くにペーパーナイフがあったので、後ろから首を、でも、急所を突いて、まさか死ぬなんて」

 

「君は、お母上を守ろうとしたんだね?」

 

キルヒバッハさんは、ユリウスのむせび泣きが収まるまで背を撫で続けた。

 

 

(2021.11.01)

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