ユリウスの肖像

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ユリウスがキルヒバッハ家に来てから一か月あまり経過したころに、執事のヘララーさんから客間に行くよう告げられた。ユリウスが部屋に足を踏み入れた途端、思いもかけない人物がいるのを目にして、とっさに逃げようとしたが、キルヒバッハさんに腕を取り押さえられてしまった。
「ユリウス!」
「ユリウス様!」
ワンピースを着たユリウスを前にして、マリア・バルバラが甲高い声を、アーレンスマイヤ家の執事が驚愕の声をあげた。
「ユリウス、あなたなの?」
部屋には他にも私服の警察官らしき男がいた。これから起こるであろうことを悟ったユリウスは、その場に崩れ落ち、ひざをついた。全てが終わった。ユリウスは目を伏せたまま、なんとか声をしぼり出した。
「マリア・バルバラ姉さま、お元気そうで何よりです」
「ユリウス、あなたに、そんなことを言う資格があるのかしら?」
マリア・バルバラの怒気に満ちた声が返ってきた。キルヒバッハさんがユリウスをソファに座らせると、今度はマリア・バルバラはキルヒバッハさんに矛先を向けた。
「キルヒバッハさん、警察を呼んでください!弟だなんて皆をだましていたのよ」
「マリア・バルバラ様、少し落ち着いて」
隣にいた執事がなだめたが、マリア・バルバラは、再びユリウスに向かってまくしたてた。
「アネロッテはどこにいるの?この悪魔がアネロッテをどうかしたに決まっているわ」
ユリウスは、しばらく呆然としていたが、もう逃れられないと観念すると、下を向いたまま、ぽつりぽつりと細い声を出した。
「あの日、ぼくは、もっと早くレーゲンスブルクを出るつもりだった。でも、屋敷の様子がおかしかったので、気になって戻ったら、アネロッテ姉さまがあなたの首をしめていて」
「それで、あなたは、わたしを守るためにアネロッテに手をかけたとでも言うのね?」
ユリウスは顔をあげた。
「違う。あのとき、ぼくは自殺するために紅茶に毒を入れて、でも、それをアネロッテ姉さまが飲んで」
それを聞いたマリア・バルバラが激高した。
「あなたは、アネロッテに罪をなすりつけるつもりなの?」
「ぼくは、あのとき本気で死ぬことを考えていた」
今度はユリウスが声をはりあげ、マリア・バルバラをにらんだ。
ユリウスはあの夜の驚愕と怒りを思い出していた。もう自分の運命は決まったようなものだが、死をもって罪をあがなうべきはアネロッテのほうだ。ユリウスは、あの女の悪行を冷静に話すことに決めた。たとえ何と言われようとも、あのときに聞いたことを話すのだ。いずれにせよ、この身は破滅に向かっているのだから。
マリア・バルバラが何か言おうとしたときに、再び執事が落ち着くようになだめた。
「落ち着けですって?これが落ち着いていられますか!」
このとき、キルヒバッハさんの静かだが棘のある言葉が聞こえた。
「アーレンスマイヤさん、感情豊かなのは、あなたの魅力の一つかもしれないが、その魅力は別の機会に発揮なさるといいでしょう」
ユリウスは、マリア・バルバラの感情的な性格と過去の出来事を思い出した。アネロッテは、ユリウスの母親を殺そうとして図書室に火をつけたと白状したが、母親を殺そうとしたのはアネロッテだけではない。マリア・バルバラもだ。
「あなたは、怒りに任せて、ぼくの母に向かって発砲したことがあったでしょう?あと少しで死ぬところだった。それは許されることなの?」
「あのときは」
マリア・バルバラは一瞬言葉を失ったが、すぐにいつものように自分の行動を正当化しようとしたので、ユリウスははっきりした声でさえぎった。
「でも、アネロッテ姉さまは、あなたと違って計画的で残忍だった」
ユリウスは、アネロッテから聞いたことを話し始めた。
アネロッテの本当の父親のこと。実母、ユリウスの父親、ゲルトルート、異母兄を殺害したことと、その理由。図書室に火を付けてユリウスの母親を殺そうとしたこと。マリア・バルバラの薬に毒物を混入し、それをユリウスの仕業にみせかけるために、自らも少しずつ服毒することで体を毒に慣らして、被害者になりすましたこと。ついには、マリア・バルバラの首をしめ、ユリウスを犯人に仕立てようとしたこと。すべては帝国銀行の財産を手に入れるためであること。
途中で何度かマリア・バルバラが何か言い出そうとするたびに、キルヒバッハさんが丁寧に自制を促した。しかし、ユリウスがそこまで話し終えたときに、とうとうマリア・バルバラが制止を振りきった。
「そんなのは嘘よ。つくり話だわ。罪から逃れるために、でまかせを言わないでちょうだい!」
「ぼくは、あの夜に聞いたことを話しているだけだ。あの日以来毒を盛られていないから、マリア・バルバラ姉さまは、大声が出せるようになったのでは?」
執事も何か言いたげだったが、言葉をのみ込んだ。
見知らぬ男が初めて口を開いた。
「アーレンスマイヤさん、あなたにとって衝撃的な内容で、さぞお疲れになったと思います。正直なところ、私も驚きを禁じ得ませんでした。したがって、今日はこのぐらいにして、明日以降、問題点を整理して対応を協議しましょう」
――いったい誰だろう?
その男はやや強面だが、落ち着いていて、よくとおる声の持ち主だった。警察官ではないようだが、ユリウスにとっては、そんなことは、もうどうでもいいことだった。自分の運命は決まったようなものだからだ。他方、マリア・バルバラにとっては受け入れがたい発言だったようだ。
「協議など必要ありません!今すぐ警察に突き出すべきだわ」
「アーレンスマイヤさん!」
キルヒバッハさんの雷のような声が響いた。それまで冷静だったキルヒバッハさんの打って変わった様子に、さすがのマリア・バルバラも凍りついた。執事もユリウスもだ。
しかし、すぐにキルヒバッハさんはいつもの口調に戻り、多分に皮肉まじりに続けた。
「女性に対して大声を出して失礼した。しかし、あなたのような良家の独身女性には、この件は荷が重すぎると思われます。あなたご自身のためにも、ご家名を守るためにも、信頼できる有能な代理人を立てるべきですな」
マリア・バルバラの様子などを考慮した結果、キルヒバッハさんが暫定的にユリウスを預かることになった。キルヒバッハ家の執事のヘララーさんが呼ばれ、レーゲンスブルクから来た二人を別室に案内し、気分を落ち着かせるためにブランデーを振る舞った。
キルヒバッハさんは、客間に犬のユリウスを呼び入れ、入れ替わりに部屋を出た。犬のユリウスは、頭を垂れたままのユリウスのひざにあごをのせてきた。
キルヒバッハが来客対応をしているときに、犬のユリウスとガイウスが突然吠え始めた。まるで何かを知らせたいかのようだった。
執事のヘララーと犬の飼育担当のベックが、犬たちを探して庭を走り回った。
「あそこだ!」
ベックが屋上を指さした。屋上の縁の一段高くなっているところに、ユリウスが立っていた。少し踏み違えれば下に真っ逆さまだ。ヘララーが叫んだ。
「お嬢さん、早まっちゃいけない!」
執事は、先ほどの来客時のユリウスの様子から、彼女がこれからしようとしていることが想像できた。主人からは最悪の事態に注意するようにとの指示も受けていた。
夕食の準備に忙しいはずの料理人のマルタも、厨房から出てきて悲鳴をあげた。
「やめてちょうだい!早く戻って!」
キルヒバッハは騒ぎに気付くと、来客にも頼んでともに犬の声がする方へと向かった。
犬のユリウスは、主人たちが来たときにはガイウスといっしょに、ユリウスに向かってクーンクーンと声をあげていた。
「お嬢さん、ユリウスもガイウスも、お嬢さんと遊びたそうにしている。少しかまってやってくれないか」
キルヒバッハが近寄りながら声をかけたが、ユリウスは背を向けたままだった。
「お嬢さんにとって最善の方法を考えている。大丈夫だ。すべてうまくいく」
今度は、先ほどの少し強面の男がなだめた。その間に、キルヒバッハがユリウスの腕をつかんで引き寄せた。ユリウスは、人形のようにされるがままにキルヒバッハさんの胸に抱きとめられた。
「ユリウス様、私はユリウス様がおっしゃったことが全くのつくり話だと思っておりせん」
アーレンスマイヤ家の執事の声に、キルヒバッハの胸の中のユリウスがぴくりとした。
アーレンスマイヤ家の内情を知る執事は、ユリウスの話は、いくつかの点でつじつまが合うと考えていた。だから、いったんマリア・バルバラをホテルに連れ帰ったあとに、出過ぎた行動なのは承知のうえで、一人で再訪したのだ。
「僭越ながら、キルヒバッハ様と弁護士のモーザー様に私見を申し述べておりました。ユリウス様はまだお若いですし、男と偽っていた理由も想像できます。おやさしい方だということは、私どももよくわかっております。事情を聞いたうえで、亡き旦那さまのお気持ちをふまえ、ユリウス様のためにできることを考えるべきだと」
キルヒバッハとアーレンスマイヤ家の執事は、ユリウスを部屋に連れていった。
「お嬢さん、今日はゆっくり休みなさい」
そう言って、犬のユリウスとガイウスを部屋に入れた。
「ユリウス、ガイウス、お嬢さんを守るんだぞ。私もついていてやりたいが、陸軍省に出向かなかければならない」
(2021.10.24)