ユリウスの肖像

3
いつまでこの宙ぶらりんで、ヒヤヒヤする状況が続くのだろう。ユリウスは胸がつぶれそうだった。敷地の外には出られないし、出られたとしても旅券もないので、ロシアには行けない。
「どうしてもロシアに行きたいのです。お願いです、どうか旅券を返してください」
「外国に行くには適法な手続きをとるべきだ。お嬢さんは未成年だろう?保護者の許可も必要だ」
ユリウスは何度か頼んでみたが、キルヒバッハさんが道理を曲げることはなかった。それでも、ユリウスは食い下がった。
「好きな人がロシアにいるのです。私には彼しかいないのです」
「その彼の名前は?お嬢さんを守ってくれる男か?」
クラウスの名前を出せば、それを手がかりにして、レーゲンスブルクの音楽学校が特定され、ユリウスの素性の決め手になるかもしれない。ユリウスはクラウスのロシア名を出した。
「アレクセイ・ミハイロフです」
「ありふれた名だ。どこのアレクセイ・ミハイロフだ?」
どこにいるかは、ユリウスのほうが知りたいぐらいだ。ユリウスは口をつぐんだ。きっと彼も偽名を使って出国しているだろう。
それに、たとえ偽の旅券を取り返して男装したとしても、ユリウス・フォン・アーレンスマイヤだと見抜かれて、警察に連行されるかもしれない。
――このまま別人になりすまして、無事に切り抜けられますように。そして別人としてロシアに行けますように
ユリウスは、キルヒバッハさんが早くあきらめて、ユリウスを自由にしてくれることを祈るような気持ちだった。だが、それは、キルヒバッハさんの様子からすると奇跡にも等しいだろう。
「気晴らしに、犬の訓練の様子でも見に来ませんか」
ユリウスが沈んでいると、マルタから天気のいい日ぐらいは庭に出ることを勧められた。
裏庭では、生命力あふれるシェパードたちが、かけまわっていた。ほとんどが前年の夏に生まれたというから、生後半年あまりのはずなのに、群れをなすと迫力がある。
敷地内の犬小屋は、小屋といってもけっこうな大きさだ。大きめの納屋ほどの建物に十匹の犬が飼育されている。
驚いたのは、マリア・バルバラたちと犬の扱い方が全く違うことだ。ここでは鞭をほとんど使わない。犬たちは、ほめられるのが嬉しくて、人間たちが喜ぶことを楽しそうにやっている。ユリウスは、飼育担当のベックさんに教えてもらいながら、犬たちに声をかけ、いっしょに走ったり、障害物を飛んだりしてみた。
ユリウスが庭を散歩していたとき、犬小屋から離れた場所で、キューンという犬の悲痛な声が聞こえた。見ると、低木に隠れた犬がじっとユリウスのほう見つめていた。やせていて、その目はまるで「助けて」と訴えているようだった。
――ぼくに似ている
行き場を失って、存在を隠しながらも、心の奥底で救いを求めているユリウス自身の姿と重なったのだ。
「おいで」
ユリウスが両手を差し出したが、犬はユリウスを見つめたままだった。たまたまポケットに残っていた犬用の食べ物をあげると、くんくんとにおいをかいで食べ始めた。
ユリウスは犬を引っぱり出したが、歩けないようだ。ユリウスはその犬を抱き上げて、ベックさんのところに連れて行った。犬好きのベックさんもかわいそうに思ったのだろう。
「相当弱っている。夏に生まれたのだろうが、長く生きられないかもしれない。それでもここで世話をするのなら、旦那さまに許可をもらっておいで」
キルヒバッハさんは、「一匹ぐらい増えてもかまわない」と案外あっさりと認めてくれた。
ユリウスはその犬をガイウスと呼んだ。犬小屋のシェパードたちより、少し小さな雑種犬だ。
その日、ユリウスはガイウスの汚れた体をふいてやり、ずっと付き添った。犬小屋のシェパードたちも、この弱った雑種犬を可哀想に思ったのか、ガイウスの体をなめたりして、いたわってくれた。優しい犬たちだ。
そんなこともあってか、ガイウスはベックさんの予想に反して次第に力を取り戻し、歩き回れるまでになった。しかし、右前足が悪く、びっこを引くので速くは走れない。そんなガイウスだったが、ベックさんは意外に賢いと見て、試しに訓練させてみたりもした。
キルヒバッハさんも犬のユリウスとともに裏庭にときどき現れた。
犬のユリウスは、他のシェパードよりも速く走り、頭一つ抜きん出ていた。爆発物の原料になるニトロゲルをかぎ分け、隠しておいたダイナマイトの場所を探しあててほめられたときは、得意満面だった。
キルヒバッハさんの知り合いが、右腕の肘から手首にかけて皮革製のクッションのようなものを巻いて現れ、キルヒバッハさんに拳銃を向けた。キルヒバッハさんが合図をすると、犬のユリウスは、合図があるまで手首にかぶりついて離さなかった。
「ガイウスにも試してみないか?」
キルヒバッハさんがベックさんに提案した。
「なるほど。足が悪いので相手は油断する。どこまでできるか、少し試してみましょう」
