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いつまでこの宙ぶらりんで、ヒヤヒヤする状況が続くのだろう。ユリウスは胸がつぶれそうだった。敷地の外には出られないし、出られたとしても旅券もないので、ロシアには行けない。

 

「どうしてもロシアに行きたいのです。お願いです、どうか旅券を返してください」

 

「外国に行くには適法な手続きをとるべきだ。お嬢さんは未成年だろう?保護者の許可も必要だ」

 

ユリウスは何度か頼んでみたが、キルヒバッハさんが道理を曲げることはなかった。それでも、ユリウスは食い下がった。

 

「好きな人がロシアにいるのです。私には彼しかいないのです」

 

「その彼の名前は?お嬢さんを守ってくれる男か?」

 

クラウスの名前を出せば、それを手がかりにして、レーゲンスブルクの音楽学校が特定され、ユリウスの素性の決め手になるかもしれない。ユリウスはクラウスのロシア名を出した。

 

「アレクセイ・ミハイロフです」

 

「ありふれた名だ。どこのアレクセイ・ミハイロフだ?」

 

どこにいるかは、ユリウスのほうが知りたいぐらいだ。ユリウスは口をつぐんだ。きっと彼も偽名を使って出国しているだろう。

 

それに、たとえ偽の旅券を取り返して男装したとしても、ユリウス・フォン・アーレンスマイヤだと見抜かれて、警察に連行されるかもしれない。

 

――このまま別人になりすまして、無事に切り抜けられますように。そして別人としてロシアに行けますように

 

ユリウスは、キルヒバッハさんが早くあきらめて、ユリウスを自由にしてくれることを祈るような気持ちだった。だが、それは、キルヒバッハさんの様子からすると奇跡にも等しいだろう。

 

 

 

「気晴らしに、犬の訓練の様子でも見に来ませんか」

 

ユリウスが沈んでいると、マルタから天気のいい日ぐらいは庭に出ることを勧められた。

 

裏庭では、生命力あふれるシェパードたちが、かけまわっていた。ほとんどが前年の夏に生まれたというから、生後半年あまりのはずなのに、群れをなすと迫力がある。

 

敷地内の犬小屋は、小屋といってもけっこうな大きさだ。大きめの納屋ほどの建物に十匹の犬が飼育されている。

 

驚いたのは、マリア・バルバラたちと犬の扱い方が全く違うことだ。ここでは鞭をほとんど使わない。犬たちは、ほめられるのが嬉しくて、人間たちが喜ぶことを楽しそうにやっている。ユリウスは、飼育担当のベックさんに教えてもらいながら、犬たちに声をかけ、いっしょに走ったり、障害物を飛んだりしてみた。

 

ユリウスが庭を散歩していたとき、犬小屋から離れた場所で、キューンという犬の悲痛な声が聞こえた。見ると、低木に隠れた犬がじっとユリウスのほう見つめていた。やせていて、その目はまるで「助けて」と訴えているようだった。

 

――ぼくに似ている

 

行き場を失って、存在を隠しながらも、心の奥底で救いを求めているユリウス自身の姿と重なったのだ。

 

「おいで」

 

ユリウスが両手を差し出したが、犬はユリウスを見つめたままだった。たまたまポケットに残っていた犬用の食べ物をあげると、くんくんとにおいをかいで食べ始めた。

 

ユリウスは犬を引っぱり出したが、歩けないようだ。ユリウスはその犬を抱き上げて、ベックさんのところに連れて行った。犬好きのベックさんもかわいそうに思ったのだろう。

 

「相当弱っている。夏に生まれたのだろうが、長く生きられないかもしれない。それでもここで世話をするのなら、旦那さまに許可をもらっておいで」

 

キルヒバッハさんは、「一匹ぐらい増えてもかまわない」と案外あっさりと認めてくれた。

 

ユリウスはその犬をガイウスと呼んだ。犬小屋のシェパードたちより、少し小さな雑種犬だ。

 

その日、ユリウスはガイウスの汚れた体をふいてやり、ずっと付き添った。犬小屋のシェパードたちも、この弱った雑種犬を可哀想に思ったのか、ガイウスの体をなめたりして、いたわってくれた。優しい犬たちだ。

 

そんなこともあってか、ガイウスはベックさんの予想に反して次第に力を取り戻し、歩き回れるまでになった。しかし、右前足が悪く、びっこを引くので速くは走れない。そんなガイウスだったが、ベックさんは意外に賢いと見て、試しに訓練させてみたりもした。

 

キルヒバッハさんも犬のユリウスとともに裏庭にときどき現れた。

 

犬のユリウスは、他のシェパードよりも速く走り、頭一つ抜きん出ていた。爆発物の原料になるニトロゲルをかぎ分け、隠しておいたダイナマイトの場所を探しあててほめられたときは、得意満面だった。

 

キルヒバッハさんの知り合いが、右腕の肘から手首にかけて皮革製のクッションのようなものを巻いて現れ、キルヒバッハさんに拳銃を向けた。キルヒバッハさんが合図をすると、犬のユリウスは、合図があるまで手首にかぶりついて離さなかった。

 

「ガイウスにも試してみないか?」

 

キルヒバッハさんがベックさんに提案した。

 

「なるほど。足が悪いので相手は油断する。どこまでできるか、少し試してみましょう」

ユリウスは、マルタのいる厨房にも入り浸った。キルヒバッハさんからマルタの境遇を聞いてから、何か力になりたいと思ったのだ。だが、結局は力になるどころか、世話を焼かれっぱなしだった。

 

マルタの料理はすばらしかった。ユリウスの食事には、まかないの料理に特別に一工夫加えてくれた。

 

あるとき、見るからに品の良い女性が厨房から出ていくのが見えた。上流階級の女性が厨房に出入りするのは珍しい。

 

「ニッツ夫人は、わたしの以前の雇い主なんですよ。今日は旦那さまから夕食に招かれたので、こちらにも顔を出してくれたんです。それに夕食の献立をいち早く知りたかったようですね。ニッツ家でも、よくのぞきに来ていました」

 

気さくな人柄で、厨房にまで来ることをいとわない人のようだ。

 

マルタはギリシャやロシアの料理も知っていた。ニッツさんは外交官だったので、その赴任先にも同行して一家の食事を担当し、そのときに覚えたそうだ。

 

「ロシアにいる友人に会いに行くつもりなの」

 

ユリウスはマルタに打ち明けて、ロシアの話をせがんだ。街や人々の様子、習慣、簡単なロシア語を教えてもらった。

 

そんなふうに過ごすうちに、キルヒバッハ家のこともわかってきた。

 

キルヒバッハさんは、キルヒバッハ家の四番めの男子として生まれた。キルヒバッハ家では、長男以外の男子は軍人になるのが慣習で、現伯爵も、今は領地で領地経営に専念しているが、元は軍人だったそうだ。

 

一番上の兄は二年ほど前に亡くなったため、二番目の兄が爵位を継ぐ予定だ。だが、その兄も事故に遭ってから調子が悪く、子宝にも恵まれていないらしい。すぐ上の三番目の兄は子どものころに病死している。だから、ひょっとしたら、キルヒバッハさんが次代の伯爵になるかもしれない。

 

そのキルヒバッハさんは、長兄が亡くなる前に政府の要職にある名門貴族の娘と結婚したが、どういうわけか奥方は外国に行ったきり帰って来ないらしい。結婚生活が成り立たたず、後継もできないため、キルヒバッハさんは離婚したがっている。

 

キルヒバッハさんの生活は規則正しい。朝に犬のユリウスを連れて乗馬をする。参謀本部に行くときも犬のユリウスを連れて行く。夕方以降は知り合いを招いたり招かれたりしている。参謀総長に期待されることも多く、軍事以外の知識を得る時間も大切にしている。

 

キルヒバッハさんは、投資にも成功していて、いくつかの工場や不動産を所有し、確実に収益をあげているそうだ。資産家でありながら、生活は慎ましく落ち着いている。

 

つまり、結婚生活を除けば、彼は地位どころか、知力、体力、財力、すべてにおいて恵まれた男なのだ。

 

 

 

ユリウスも、ときどきキルヒバッハさんから夕食に招かれた。ユリウスは何を探られるのかと身構えたものだが、キルヒバッハさんは話題が豊富で、相手をよく気づかう紳士だった。そんなキルヒバッハさんとの世間話は楽しいと思うときすらあった。

 

「名無しさん」

 

ユリウスのことをからかうようにそう呼んだ。

 

それでもユリウスの身元については、必ず聞かれた。

 

「名無しさんの発音はフランクフルトの人のようだが、乗っていた汽車から推測すると、ザクセンかバイエルンから来たのではないか?」

 

「子どものころから、同じところに住んでいたのか?」

 

「名無しさんは、いつから男装をしたんだ?」

 

これらの問いが発されるたびにユリウスは沈黙した。しかし、ときにはユリウスのほうも探りを入れるのを忘れなかった。

 

「わたしの捜索状況は進展しましたか」

 

「各地の警察に行方不明の少女について照会しているが、なかなか反応がない。バイエルンで、名無しさんよりも年上で容姿も異なるが、同じ時期に行方不明になった女性はいるようだ」

 

アネロッテのことだろうか。ユリウスの心臓が落ち着かない。

 

「そのバイエルンの女性は見つかっていないのですか」

 

「まだだ。レーゲンスブルクの名家の女性なのだが、同時に弟さんも失踪したそうだ。弟さんのほうは、偶然にも、名無しさんの外見的特徴と一致する」

 

――しまった

 

ユリウスの心臓が止まりそうになった。だが、黙っていればよかったのに、ついつい聞いてしまった。

 

「どんな特徴が、わたしと一致するんですか」

 

「目の色、髪の色と長さ、体格などだ。行方不明になった時期も重なる」

 

キルヒバッハさんは一呼吸置いてから、ユリウスの目を見た。

 

「そろそろ本当のことを話すつもりはないのか、名無しさん?」

 

ユリウスは卒倒しそうになった。

 

「何も話したくありません」

 

ユリウスは、やっとのことでそう言うと視線をそらした。キルヒバッハさんは、無理にその話は続けなかったが、気付いているのは明らかだ。

 

――でも、なぜ警察に引き渡さない?

 

 

(2021.10.15)

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