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翌日、ユリウスがすっかり回復すると、マルタから主人に会いに行くように促された。

 

屋敷の主が待っている居間に向かう途中で、シェパード犬がユリウスにまとわりついてきた。しっぽを振りながら、こっち、こっち、と誘導するように、ユリウスのほうを振り返っては前に進んでいく。

 

ソファに座って新聞を読んでいた男が顔を上げた。汽車に乗っていた男だった。拳銃を突きつけられても、平然と相手を叩きのめした胆力と腕力の持ち主だ。

 

年齢は三十歳前後だろうか。体格が良く、上質の服をさらりと着こなしている。いかにも上流階級の男といった感じだが、洗練されているだけでなく、力強さもある。自信に満ちあふれ、年齢にしては威厳があるが、威圧するような雰囲気ではない。これまでユリウスの周りにはいなかったタイプの男だった。

 

男は立ち上がって声をかけた。

 

「ユリウス」

 

名前を呼ばれて、ユリウスは心臓が止まりそうになった。

 

――いったい、どうしてぼくの名がわかったんだ?

 

男は犬の背をなでながら言った。

 

「いい子だ、ユリウス。よく連れてきた」

 

ユリウスというのは犬の名前らしい。人間のユリウスはほっとした。

 

「男装よりも、そちらのほうがお似合いだ」

 

男は目を細めて、ワンピースを着たユリウスを見た。

 

「私はクラウス・フォン・キルヒバッハ、参謀本部の少佐だ。この犬はユリウスだ」

 

キルヒバッハがシェパードに手で合図すると、犬は行儀よく主の足元に座った。

 

「汽車では私の荷物のせいで、痛い思いをさせて申し訳なかった。体はもう大丈夫か」

 

「ええ、ずいぶんよくなりました。荷物のことは覚えていないのですが、あなたが豪胆にも強盗に立ち向かったことは記憶にあります」

 

ユリウス一人だったら、どうなっていたかわからない。ユリウスは礼を述べた。聞けば、強盗は一等席に人がいるのに気付いて、つい出来心を起こしたとのことだった。

 

「お世話になって十分なお礼もできないままですが、早くおいとましなければ」

 

「年頃の女の子を一人で外出させるわけにはいかない。ご家族に迎えに来てもらうか、目的地まで送らせよう。女の子がいなくなったとなれば、ご両親はさぞ心配なさっているはずだ」

 

ユリウスは、少し間をおいてから口を開いた。

 

「両親は、もういないのです。頼るべき家族も親族いません。ですから、ロシアにいる友人を頼るつもりだったのです」

 

嘘ではない。両親は死んだし、もう姉には頼れない。

 

「つらいことを聞いてすまなかった。だが、身寄りがないからといって、年頃の娘さんを危険な目に合わせるわけにはいかない。まず名前を伺おう、お嬢さん?」

 

「訳があって名乗りたくないのです」

 

「その訳とは?」

 

ユリウスはまた黙った。これ以上何か話すと墓穴を掘りそうだからだ。この男は紳士的だが隙がない。矛盾点があれば、あの強盗のように、たちどころに痛い目にあうことになるだろう。このような相手には沈黙するに限る。

 

しばらくの沈黙のあと、キルヒバッハの穏やかだが有無を言わせぬ声が聞こえた。

 

「名無しのお嬢さん、事情を聞こう」

 

ここで、逃げ出したところで、犬に追われておしまいだ。ユリウスは沈黙を押しとおした。何も話すつもりはなかった。

 

キルヒバッハも忍耐強く待った。だが、しばらくして懐から何かを取り出して広げた。

 

ユリウスの顔から血の気が引いた。ユリウスが持っていた偽の旅券だったのだ。

 

「ご家族に連絡を取ろうと、勝手ながら荷物をあらためさせてもらった。ロシアに行くのなら旅券が必要だろう。だが、君が所持していたのは偽造旅券だった」

 

キルヒバッハは旅券を示しながら言った。

 

「これによると、君はハンス・ミュラーという名前の男性だ。お嬢さんは汽車の中でも男装をしていた。裕福な家庭の子息のような身なりだったが、実際は女性だった」

 

ユリウスは口を閉じたままだ。

 

「荷物のなかには、こんなものもあった」

 

キルヒバッハは小さな茶色の小瓶をユリウスの前に置いた。

 

「調べさせたら、亜ヒ酸という毒薬だった」

 

偽造旅券に毒薬。それらは犯罪を連想させる。ユリウスは思わずうつむいたが、すぐに顔を上げて言った。

 

「女の子の一人旅が危険なのはあなたにもわかるでしょう?何かあったときには、これを飲むつもりでした」

 

これは嘘ではない。キルヒバッハの顔が厳しくなった。

 

「穏やかではない話だ。そこまでしてロシアに行く理由は何かね、名無しのお嬢さん?」

 

ユリウスが口をつぐんだ。

 

「さらに物騒なことに、君を診察した医者によると右腕に傷があるそうだが、おそらく銃弾によるものだいうことだ」

 

ユリウスは追いつめられた。だが、その後、キルヒバッハは態度を一転させた。

 

「君は何か厄介ごとに巻き込まれているのではないか。あるいは養父母にひどい仕打ちでも受けているのかね。もし、困っているのなら力になりたいと思っている」

 

思わずユリウスは顔をあげた。キルヒバッハは微笑んで続けた。

 

「君は見たところ未成年だし、男のなりをするとは相当な事情があるのだろう。強盗に対してナイフを向けた勇気ある行動は賞賛に値する。女性が取るべき行動としては、適切とは言いがたいとしてもだ。君には正義感がある。悪人ではないはずだ」

 

――悪人ではない?

 

ユリウスは心のなかで自嘲気味に笑った。男と偽り、殺す意図はなかったにしても結果的にヤーンを殺害し、さらにはアネロッテに毒入り紅茶を仕向けた自分には、ひどく不似合いな言葉だ。

 

――この男はお人よしなのか。料理人といい、人がよすぎる

 

そうであっても、ユリウスのことを正義感があると認めてくれた。一方的にユリウスを断罪をすることなく、事情があることを慮ろうとしている。ユリウスの胸がこみあげてきた。

 

しかし、単なるお人よしではないはずだ。参謀本部の軍人といえば、軍人の中でも選び抜かれた者の集団だとユリウスも聞いたことがある。プロイセン時代から続く参謀本部の軍人がお人よしだったら戦争で勝つことはなかっただろう。

 

「あのとき、あなたに何かあったら、次は確実にわたしの番だったはずです。一人では、とても太刀打ちできませんので、なんとかしたいと思ったのです」

 

「なるほど、筋は通っている」

 

「あなたは、わたしを疑っているのでしょう?」

 

「もちろん不審には思っている。だが、良家のお嬢さんが物騒なものを持っているとしたら、相当な事情があるはずだ。女性や子どもを守るのは、私のような地位にある者の義務だ。私は力になれると自負している」

 

ユリウスの心が少しほぐれたときに、シェパードのユリウスがユリウスのほうにやってきた。そして、あごをユリウスのひざの上に置いてあまえるような仕草をした。

 

「ユリウスは、君が気に入ったようだ。犬が苦手でなければいいのだが」

 

「いいえ、犬は嫌いではありません。ユリウスは、人懐っこくって可愛いと思います」

 

ユリウスは自分と同じ名前の犬の頭をなでながら答えた。

 

「それはよかった。ユリウスは挙動不審な者には吠えかかるように訓練している。ユリウスの他にもシェパードを飼育しているので、気分転換に遊んでくるといい。よければ案内させよう」

 

いったん身元調査は中断しそうだ。ユリウスはほっとした。

 

「だが、外出は控えてもらおう。最近、街中は特に物騒だからだ。君の身元は調査させてもらう。警察にも通報しておく。鉄道駅に行ったら見つかることを覚えおいてほしい」

 

キルヒバッハは重みのある口調でそう言い渡すと、執事を呼んだ。

 

――いったい何の権限があって、ぼくを拘束するんだ

 

ユリウスは心のなかで反発した。

 

「あなたは」

 

思わず言いかけたとき、偽造パスポートとともに警察に突き出されるよりもましだと思い直した。

 

「なんだね?」

 

「いえ、あの、わたしを警察に突き出さないのですか」

 

「君はそれを望んでいるのかね?できれば穏便に解決し、お嬢さんの評判を傷付けることはしたくないのだが」

 

ユリウスの胸がちくりとした。彼は強く、名誉を重んじる男だ。いっぽうの自分は嘘のなかを生きている。

 

「ご配慮に感謝します。でも、お願いです。どうしてもロシアに行きたいんです」

 

「適切な手続きを取ってからだ」

 

キルヒバッハは、にべもなく答えると、執事にユリウスを屋敷から出さないように指示をした。

 

執事に連れられてユリウスが退出しかけたときに、キルヒバッハが思い出したように言った。

 

「名無しのお嬢さん、一つ頼みたいことがある」

 

ユリウスは振り返った。

 

「何でしょう?」

 

「料理人のマルタ・ブラントナーのことだ」

 

「彼女は、とても親切にしてくれました」

 

キルヒバッハは神妙な顔をして続けた。

 

「彼女には娘がいたのだが、半年前に行方不明になり、それ以来打ちひしがれていた」

 

「そんなことが」

 

ユリウスは絶句した。

 

「ハンナというのだが、君と同じか少し年上だ。君は、髪の色も瞳の色もハンナと似ている。君が今着ている服もハンナのものだ。マルタはハンナとお嬢さんを重ねて見ているかもしれないが、優しくしてやってくれないか」

 

「もちろんです」

 

ユリウスは複雑な顔をして首を縦に振った。そんな事情があったなんて。それにしてもキルヒバッハという人は、これまで会った人とは違うと思った。彼のほうが全てにおいてうわてだ。キルヒバッハは続けた。

 

「名無しのお嬢さんにも、本当は心配している身内がいるのではないか」

 

ユリウスは今度は首を横に振って、キルヒバッハの前を辞した。

 

 

(2021.10.12)

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