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ユキワリソウ ドイツ21544041_m.jpg

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――ここはどこだろう?

 

ユリウスは知らないベッドで目覚めた。部屋を見渡そうと体をよじると、頭と背中、肩、ひざに痛みが走った。日没後の部屋は薄暗かったが、広々としており、裕福な家のようだ。

 

ユリウスはぼんやりした頭で記憶をたぐった。汽車のなかで、ナイフを取り出して強盗に立ち向かおうとしたことまでは覚えている。

 

「痛い」

 

ユリウスがうめきながら上半身を起こしたときに、ドアをノックする音が聞こえ、トレーを持った中年女性が現れた。トレーの上にティーポットとカップのほかに、パンとチーズがのっているのを見たとたん、ユリウスは空腹を感じた。

 

「まあ、目覚めたんですね。よかったわ。今朝から眠ったきりで、なかなか目を覚まさないので、心配していたんですよ。気分はどうですか」

 

「ええ、肩と背中が痛みますが、他は大丈夫です。ところで、ここはどこでしょうか」

 

「ここは、キルヒバッハ伯爵家のクラウス・フォン・キルヒバッハ様のお住まいです。今朝、旦那さまが、意識を失ったお嬢さんをこちらに連れて来られました。汽車が揺れたときに、旦那さまの荷物が落ちて、お嬢さんに当たったとか。ところで、夜中に目覚めたときのためにパンとチーズを用意したのですが、何か食べたいものはありますか」

 

「パンとチーズがあれば十分です。ありがとうございます」

 

動けないユリウスのために、その女性はベッドのわきに手早く小さなテーブルをセットして、その上にトレーを置いた。

 

「かわいそうに、こんなにやつれて、青白い顔をして、よほど怖い思いをしたんですね。でも、明日は、このマルタがおいしい料理をつくって、必ずお嬢さんにばら色の頬を取り戻してみせますからね」

 

――ばら色の頬?

 

これまでのユリウスには、からかいでしかなかった言葉だ。慣れない言葉にむずがゆさを感じながら、ユリウスは、マルタと名乗る料理人の言葉に胸が詰まった。

 

――どうして、どこの誰とも知れないぼくを、こんなに心配してくれるんだろう?

 

ユリウスは名前を尋ねられたときに、返答に詰まった。女が男性名を名乗るわけにはいかない。それに、おそらく今ごろは毒入りの紅茶を飲んだアネロッテの遺体が発見され、不在のユリウスに嫌疑がかけられているだろう。ユリウス・フォン・アーレンスマイヤだと知られると、まずいことは容易に想像できる。

 

ユリウスは女として押し通すことに決めた。それが唯一身を守る方法だろう。ユリウス・フォン・アーレンスマイヤは男で、このベッドにいるのは女なのだから別人なのだ。偽名を名乗ったら、遅かれ早かれ何気ない小さなことでボロが出るだろう。

 

「事情があって名乗りたくないのです」

 

マルタは、驚いてその事情を尋ねたが、答えないユリウスに悲しそうに言った。

 

「聞くべきことではありませんでしたね。でも力になりたかったものですから。何かありましたら、いつでも相談してくださいね」

 

よほどおなかが空いていたのだろう。ユリウスは、あっという間にパンとチーズをたいらげた。食後にお茶を飲んだときに、死闘ともいえるアネロッテとの対決のことが思い出された。それさえなければ、今ごろ計画どおりにオーストリアにいたはずだ。

 

実際には、予定の汽車に乗れなかったために、ベルリンをとおってポーランドへ抜けるルートに変更せざるを得なくなった。朝になれば行方不明のユリウスの捜索が始まることを考えると、時間との勝負なのだが、国境までは遠い。

 

汽車に乗り込んだときには、ユリウスは疲労困憊していたが、一等席のゆったりした席に座っても神経は高ぶったままで一睡もできなかった。アネロッテから聞いた話が、何度も頭のなかに浮かんだ。加えて、早く国境を越えなければ、と気が気ではなかった。そういうわけで、汽車のなかではひどく緊張したままだった。それが、倒れたときに頭を打って、そのまま眠りこけてしまったのだろう。

 

翌日も、マルタはことあるごとに、顔を出し、体は大丈夫か、足りないものはないか、困っていないか、と声をかけてくれた。

 

マルタは、体を動かすたびにあちこちが少し痛むユリウスに気を使って、本を持ってきてくれたり、軽食を用意してくれたりと世話をしてくれる。ユリウスが服を頼んだら、普通の女の子が着るような古着を持ってきてくれた。

 

だが、ユリウスの心の内ではじりじりと焦りがつのっていた。一刻も早くドイツを出なければならない。もし、ユリウス・フォン・アーレンスマイヤだと知られれば、おそらく身の破滅だ。なのに、まだ体は本調子ではないうえに、女の子の姿になったユリウスが男の旅券で旅行するのは難しい。

 

アーレンスマイヤ家の出来事はベルリンにも伝わっているのだろうか。

 

ユリウスはマルタにお願いして、その日と前日の新聞を持ってきてもらった。バイエルンの一都市で起こった失踪事件の記事は、その日の新聞の片すみに掲載されていた。それを目にしたユリウスは、心臓がひっくりかえるぐらいに動揺した。

 

――アネロッテが失踪?

(2021.10.11)​

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