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ユリウスの肖像

序
「どうぞ」
夜明け前の乗客が少ない時間帯のためか、一等席の個室はほぼ閉鎖されていた。クラウス・フォン・キルヒバッハが指定の個室のドアを開け、先客の少年に声をかけると、そっけない返事が返ってきた。どこか違和感のある声だった。
車内の弱い照明を頼りに、ちらりと少年の様子を見やった。
いかにも一等席の乗客といった身なりで、外套も上着も上質な生地で仕立てられたものだ。外套はやや湿っぽく、乗車時には雨が降っていたと思われる。座席の脇には地図と鉄道の時刻表が置かれていた。
髪は金髪で、瞳の色は青のようだ。目は充血しているようにも見えた。口は固く結ばれ、全身からは緊張感がただよっている。おそらく、慣れない鉄道旅行に気が張って、落ち着かないのだろう。この年齢で鉄道の一人旅は珍しい。
しかし、何歳ぐらいなのだろうか。十代前半というには大人びている。十代半ばの成長まっただなかの男子にしては、顔の輪郭がやわらか過ぎる。体の線も細く、力強さに欠ける。
責任ある地位の男は強くあるべきだと考えるキルヒバッハにとっては、将来をになう少年が弱々しいのは由々しきことだ。その少年は髪も長くて女のようなのだ。
――張りつめているのは、そういうことか
キルヒバッハは荷棚に荷物を置きながら声をかけてみた。
「この幅を取る荷物を少し移動させてもらうよ」
その少女はバイオリンらしき荷物に視線をやったが、返ってきた言葉は相変わらずそっけなかった。
「どうぞ」

「君はバイオリンを弾くのかね?」
「それは友人のものなんです」
やはり男子の声ではない。荷物を置いたキルヒバッハは少年の斜向かいに座って、ありきたりの話を始めた。
「私はベルリンに帰るところだ。フランクフルトに所用があって、鉄道を何度か乗り換えて、やっとここまで来た。君は、どこまでだね?」
「ロシアにいる友人を訪ねるんです」
何度聞いても女の声だ。
少女はそう言うと、鉄道の時刻表を手に取った。会話をあまりしたくないようだ。白く浮かび上がった指は、ほっそりとしているわりには力強い。
少女が男装をして一人で汽車に乗っているとは、尋常ではない。キルヒバッハは、男装の理由を考えた。
まずは家出少女あるいは逃亡者の可能性だ。男装すれば発見されにくいだろう。そのうえ、少年の一人旅なら、女の子の一人旅ほど危険は多くない。だが、逃亡者であるならば、その理由は何か。
他にも、誰かに男装を強いられた可能性も考えた。だが、さまざまな点で説明が難しい。
ロシアに行くと言っていたが、男装をした女性の入国が、問題なく認められるか疑問だ。男装した女性や、女装した男性は、うさん臭い目で見られるものだ。女性のズボンの着用が法律で禁じられている国もあるほどだ。
いずれにしても、一歩間違えれば、結婚前の良家の娘の評判に傷が付くことになるだろう。
ベルリンまであと一時間足らずのときだった。
「助けてくれ!」

どこかから男の声が聞こえ、うつむいていた少女も、はっとして顔を上げた。
キルヒバッハは、少女が巻き添えにならないように、なかで待つように言い残してコンパートメントを出た。
「助けてくれ、強盗だ」
一人の男がそう言って近寄ってきた。とっさにキルヒバッハは、男が来た方向に拳銃を向けながら様子をうかがった。そのとき、キルヒバッハの背中に銃が突きつけられた。
「動くな。拳銃を捨てて、両手をあげろ。一等席はおまえだけか?」
「そうだ」
乗客の少ない時間帯に、一等席の乗客を狙った強盗だ。キルヒバッハが拳銃を落として、ゆっくりと両手をあげたときに、予想外のことが起こった。少女が個室のドアを開けたのだ。手にはナイフを持っているようだ。
――彼女は仲間なのか?
しかし、そのナイフは背後の男に向けられていた。
――その細腕では無理だ
キルヒバッハは声をあげた。
「よせ、無茶はするな!ドアを閉めて、席に戻れ」
背後の男も、ナイフを持った少年の出現に意表を突かれたようだ。
キルヒバッハはその隙を逃さなかった。瞬時に後ろを向き、あげていた腕をふり下げて左脇で男の拳銃をはさんだ。そして、渾身の力で男に一撃をあびせ、続けて二発、三発と男をなぐった。
打ちのめされてぐったりした男の手から拳銃が離れると、キルヒバッハは、すかさず二丁の拳銃を拾い上げ、男からベルトを外して腕を縛りあげた。
そのとき、突然車両が大きく揺れ、キルヒバッハは壁に寄りかかった。鈍い音とともに少女の声が聞こえた。
「うわあ!」
荷棚の荷物が落下し、次々と少女の肩や背中に直撃したのだ。
「大丈夫か?」
キルヒバッハは、起き上がろうとしていた少女を助け起こした。
大丈夫、と言う弱々しい声が聞こえたが、やがて少女の全身から力が抜けて、キルヒバッハの腕のなかで意識を失った。
(2021.10.09)

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