ユリウスの肖像

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「あなたたちは人でなしだわ」
ユリウスが我に返ると、安心感と同時に怒りがわき起こり、その勢いにまかせて彼らをなじった。もし、アレクセイが来なかったら、ユリウスは暴行されて、その後どうなっただろう。
「わたしがアレクセイの知りあいではなかったら、殺されていたんでしょうね」
ユリウスは、エフレムに利用されたヴェーラのことや、残酷な結果に終わったアレクセイとの再会を思い出して、怒りとともに涙が出そうになった。
アレクセイの顔色が変わったが、ユリウスは感情にまかせて涙を流しながらまくしたてた。
「名誉も財産も失ったアナスタシアは、もう役に立たないし、それどころか足手まといになるかもしれない。だから、あなたがた唯物論者は彼女を助けないのでしょう? 人は物質に過ぎないんですものね」
「違う!」
アレクセイが拳で壁を叩いて叫んだ。感情的になったアレクセイの様子を見て、口ひげの男が割って入った。
「我々は彼女を見捨てるつもりはない。だが、今は何も言えない」
口ひげの男もまた、アナスタシアに助けられたと言った。
*
ユリウスは、口ひげの男の妻のもとに預けられることになった。
彼らの住居に向かう道中、逃げようとするユリウスの腕を、アレクセイたちがつかんだ。ユリウスとアレクセイの距離が近づくと、ユリウスの心臓が落ち着かなくなった。
口ひげの男はフョードル、その妻はガリーナといった。ガリーナは、可愛らしく、素直な感じの女性だったが、ユリウスのことを監視しているようにも思われた。ガリーナは、夫に頼まれたのか、それとも純粋に好奇心からか、それとなくユリウスのことを聞いてきた。
ユリウスは口を閉ざしたが、それでもガリーナはユリウスにお茶を用意するなど、いそいそと気をつかってくれた。
ガリーナは、ユリウスに着替えを渡して、破れたブラウスをつくろおうと申し出たが、ユリウスは礼を言ってから、自分の服だから自分で直すべきだと伝えた。けれども、繊細な絹は手の施しようがない状況だったので、結局、麻で新しく縫うことになった。
ブラウスだけでなく上着やワンピースも、馬に乗ったり転んだりしているうちに、あちこちがほころんでいた。ユリウスの服は活発に動き回るためにつくられていないのだ。そこで、まず動きやすいワンピースを新たに縫うことになった。
ユリウスは最初のうちはガリーナと話すのをためらったが、同じ部屋で女が二人で縫物をするようになると、ぽつぽつと会話が始まった。
ガリーナは、アレクセイのこととなると目を輝かせて話した。どうやら彼には友情以上の感情を持っているようだ。そんなガリーナが夫といっしょになったのは、窮地(きゅうち)に陥ったときに、シベリアから帰還したばかりの夫に助けられたことが、きっかけだったという。
その話は、ユリウスとレオニードとの関係と重なった。瀕死(ひんし)のユリウスを助けたのがレオニードであり、最悪のときにそばいてくれたのが彼だったのだから。
ユリウスは、ガリーナには、アレクセイに会いたくてロシアに来たが、ひどい再会をした後に死にかけたこと、そして親切な人に助けられたことは話した。その親切な人がどこの誰かについては、口が裂けても言えない。
妊娠していたガリーナは、産着(うぶぎ)やおむつ、そのほかにも様々な出産の準備をしなければならなかった。そんな状況だったので、ユリウスは、赤ちゃんのための生地を自分のブラウスやワンピースに使うことを心苦しく思った。それに、ユリウス自身の妊娠中の不安や心細さも思い出した。
また、ユリウスが地下室に連れて行かれたときに、ガリーナが状況を察して、アレクセイたちを地下室まで急がせたことが分かった。
そこで、ユリウスは、少しはガリーナの力になりたいと思い、隠しておいた指輪を、赤ちゃんのために売ってくるように渡した。
「金髪で青い目の女性を助けたら、お礼にもらったと言えばいいわ」
そう言ってユリウスは、「ガリーナへ、ユリウスより」と紙切れに書いた。
ガリーナが外出するときは外から鍵をかけたので、ユリウスは一人取り残されることになった。それは、ユリウスに考える時間を与えた。
ガリーナは、夫を愛することは夫が大切にする思想を愛することだと言って、難しい本を読んでいた。彼女によると、思想によって二人はいっしょになれるそうだ。その思想というのは、暴力革命の指導者の思想だ。
ガリーナのその話を聞いて、ユリウスは、レオニードとの関係について、これまでにない視点で考えるようになった。
ユリウスは、家族に対するレオニードの愛情は理解できるにしても、ロマノフ家に対する忠誠心は程度が過ぎているとさえ思うこともある。それでも、いつからか、それがレオニードなのだと思うようになっていた。いまは家族やロシアに対する彼の強い愛の思いに、尊敬の念すら覚えている。
そのレオニードがユリウスを助けたのは、皇帝からの保護命令があったからだけとは思えない。万が一のばあいには、秘密がもれないようにユリウスを射殺することさえ、同時に命じられていたからだ。なのに、ユリウスが出奔したときには、射殺するどころか、モスクワまで迎えに来た。
加えて、アレクセイの助命嘆願だ。ユリウスにアレクセイを会わせると約束していたとしても、反逆者の命を助ける必要はない。だから、ひょっとしたら助命嘆願はユリウスのためではなかったかとも思う。そんなことを考えると胸が熱くなる。
だが、レオニードの口から出る話ときたら、キーラのことを除けば、ユスーポフ家やロマノフ家、ペテルスブルクやロシアの話だった。劇場に行けば建造物の由来を話し、人と会えばその人の地位や人物評を行った。軍事行動や兵器については当然ながら詳しく、ドイツに関しては名参謀モルトケと宰相ビスマルクの信頼関係がドイツを強くしたと論じていた。ユリウスにとっては、そんな話の大半はどうでもいいことだったのだが。
そんなレオニードに対してイライラすることもあった。そんなときに怒りをぶつけても、彼はたいてい沈黙するだけだった。
レオニードが自分の感情を積極的に表明することはなかったが、次第に彼の考え方、生き方がユリウスには見えてくるようになった。彼は、家族を愛し、ロシアを愛し、愛するものを守ろうとしている。彼にとってはそれが絶対なのだ。
レオニードはユリウスの過去を受け止めた。そして、ユリウスの罪については、母親を守るためだったのだから、神の裁きをそこまでおそれることはない、と考えているようだ。
それまでのユリウスは、罪の意識に支配され、神など存在しないほうが都合がよかった。しかし、彼の生き筋を見るにつれて、考え方が変わってきた。
レオニードの強さは、自らの信念に忠実なところだ。それは、個を超えたところにあり、決して自我我欲に基づくものではない。そんな彼を、ユリウスは支えたいと思うようになっていた。彼の宮廷や軍での地位は低くはないが、そこは敵や日和見主義、裏切りが横行する戦場でもあり、気が休まることのない場所なのだ。
そのレオニードとは、もう何年もともに過ごしてきた。アレクセイと音楽学校で過ごした期間に比べれば、何倍も長く濃密な時間だ。それなのに、アレクセイに再会してからというもの、なぜユリウスの胸が数年前と同じように騒ぐのだろう。
――これが、「オルフェウスの窓」の力なの?