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 ユリウスたちが縫物をしていたときに、数日ぶりにガリーナの夫の声が窓の外から聞こえた。ほどなく、アレクセイと二人の男たちを伴って、手にパンやソーセージ、それから酒類を持って現われた。

 

 これからささやかな親睦会が始まるらしい。ガリーナが彼らのための支度に取りかかったので、ユリウスも手伝った。ガリーナは手が空くと彼らに加わったが、ユリウスは辞退した。

 

 ユリウスは、アレクセイのそばにいてはいけないと思っている。アレクセイの姿が視野に入ったとたん、またもや心臓が高鳴り、ユリウスの理性を裏切ったのだ。

 

 手持ちぶさたになったユリウスが、部屋の片隅に置いてある縫い物を取りに入ったときには、アレクセイのほうに目を向けないようにした。アレクセイもユリウスから目をそらしていた。

 

 二人の間に何かしこりがあるのは、誰の目にも明らかだった。そこで、皆が気をきかせて、二人だけで話しあうようにと言い残して、外出してしまった。

 

 残された二人の間には、まるで鉛でできた雲が存在するかのようだった。ユリウスは窓辺でアレクセイに背を向けて立ち、アレクセイは、肘(ひじ)を机について、うつむいて座っていた。

 

 どのくらい重苦しい沈黙が続いただろう。アレクセイがぽつりとつぶやくように言った。

 

「シベリアで、おまえのことを思った」

 

 ユリウスは思わず振り返った。

 

「おまえを突き放したことを、恨んでいるだろうな」

 

 小声で続けたアレクセイに、ユリウスもぼそりと返した。

 

「ええ、でも終わったことだわ。実際のところ、ショックでどうかしてしまったけれども、もういいの」

 

 アレクセイは、一瞬言葉をつまらせた。

 

「おまえを突き放したことは、ずっと気がかりだった」

 

 ユリウスは目を見張ってアレクセイを見たが、彼の目は机の上に落とされたままだった。

 

「おまえを振りきってよかった、とシベリアで思った」

 

「あんなひどい態度を取っておいて、よくもそんなことが言えるわね?」

 

 ユリウスの口調が鋭くなった。

 

「もし、あのときおまえを連れて行ったら、二人とも捕まっただろう」

 

「あのときも、同じことを聞いたわ。わたしが足手まといだったとでも? あなたは怪我をしていたわ。むしろ、わたしはあなたの役に立ったはずよ」

 

 ユリウスが、あのときのクラウスの言動を、冷静に考え整理して受け止められるようになったのは、ずいぶん後になってからだ。そしてユリウスなりに結論を出していた。

 

「つまり、わたしといっしょだと、捕まるというのは口実で、結局、わたしの存在はあなたにとって、ただ迷惑なだけだったのよ。それなのに愛をささやくなんて、あなたは嘘つきだわ」

 

「嘘じゃない」

 

 アレクセイは立ち上がって叫ぶように言ったが、ユリウスの顔を見ると、ふと頬をゆるめた。

 

「怒ると顔が蒸気して赤くなるのは、変わっていないんだな」

 

 アレクセイは、そんなユリウスの頬に手を伸ばして、懐かしそうに触れた。

 

 アレクセイの手を頬に感じて、ユリウスの心臓が暴れ始めた。同時に、はぐらかされた悔しさや恥ずかしさ、その他もろもろの感情が入り混じって、思わずアレクセイの手をぴしゃりとはねのけた。だがアレクセイは続けた。

 

「おれがシベリアで何を見たと思う?」

 

 アレクセイは、シベリアの監獄で見た女性の無残な話をした。

 

「おまえをそんな目にあわせずに済んだことぐらいだ。おまえのためにしてやれたのは」

 

 青ざめたユリウスを前に、アレクセイは自嘲気味に笑った。

 

「ミュンヘンで、おれには革命以外にも人生があるかもしれないと思った。おれが迷ったのは、前にも後にもそれきりだ」

 

 そして、先日シューラと偶然出会い、彼女から愛を告白されたことを話した。

 

「彼女には、こう告げた。おれは全生命を革命にかけている。もし祖国への愛のほかに、まだ人を愛する余地があるのなら、それはすべてある女性のものだと。その女性の名前は出さなかったが、おまえのことだ」

 

 シューラが何を考えたかは分からないが、その話がきっかけでユリウスを国外に帰そうとしたのだろう、というのがアレクセイの推測だった。

 

 それを聞いたユリウスの胸がこみあげてきて、目頭が熱くなった。

 

「どうして、あのときに、それを言ってくれなかったの? あなたがドイツを去ってから、いろいろなことがあって、あなたの愛が支えだった。あの空き家で会ったときに、その一言があれば、生き続けられた。なのに、あなたはわたしを突き放した」

 

「生き続けられたって、どういう」

 

 アレクセイの言葉が途切れた。

 

「あの後パニックになって、どうしようもない絶望感に襲われて、これ以上生きていけないと思った。うっすらとしか記憶がないけれども、わたしは窓から飛びおりた」

 

 ユリウスは嗚咽するように言った。

 

「でも、今の一言があれば、どんなことがあっても希望を持てた。あなたが捕まったとしても、生きて帰って来ると信じて、ずっとずっと待っていたわ。そして、あなたのために行動した。アナスタシアのような力はないけれども、できる限りのことはしたはず」

 

 アレクセイは、目の前で肩を震わせているユリウスに近寄って抱きしめた。

 

 どのくらいユリウスがアレクセイの胸のなかで泣いただろうか。涙がおさまったときに、ユリウスがアレクセイを見上げると、二人の視線がからまり、そして、ごく自然に二人の唇が近づき、やがて、それは数年間の月日を取り戻すかのように激しさを増していった。

 

 アレクセイの唇がユリウスの首筋に移った。ユリウスはうっとりとした表情でキスと愛撫を受け、吐息をもらしながらアレクセイの名を何度か口にした。

 

 ユリウスはアレクセイの息づかいを感じ、アレクセイのぬくもりでとろけてしまいそうになった。いつしかアレクセイのことしか考えられなくなっていた。そして抱かれたいとさえ思った。

 

 ちょうどそのとき、ドアの外でズボフスキー夫妻の話し声がした。外出から帰って来たようだ。

 

 抱きあっていた二人は我に返り、ドアが開く音と同時に、ばつが悪そうに、ぱっとお互いから飛び離れた。しかし、夫妻は二人のその様子を見逃さなかった。話しあい以上の成果があった、と察したようだ。

 

 その後、アレクセイはズボフスキーにさとされたそうだ。

 

「闘いだけが我々の人生ではない。愛がどれほどのことを教えてくれるか、愛について学んでもいいんじゃないか」

 

 ユリウスがアレクセイを追ってロシアに来たことや廃屋での再会の顛末(てんまつ)などについて、以前ガリーナに話したことが、妻から夫へと伝わっていたようだ。その話を聞いた夫妻には、思うことがあったらしい。

 

 アレクセイは、外見が悪くないうえに上流階級の教育を受けてきただけあって、粗野に振る舞っても物腰がどこか洗練されていた。それが、普通の女性にとって、このうえなく魅力的だったのだろう。何人かの女の子たちは彼に本気で恋をした。

 

 一方のアレクセイはごく自然に紳士的に彼女たちに接していたが、残酷なほど彼女たちの気持ちに向きあうことはなかった。彼女たちに期待を持たせ、結局は振り向きさえしないのだ。シューラもそうだ。

 

 アレクセイたちの革命は究極的には人民のためだ。愛を求め家庭を持って生きる普通の人々の気持ちや生活が分からないまま、しゃかりきに活動したとして、はたしてどんな結果になるのだろうか。それが、ズボフスキー夫妻がアレクセイについて気にかけていたことだった。

 

 それ以来、アレクセイがときどきズボフスキーのアパートに顔を見せるようになった。するとズボフスキー夫妻は外出し、ユリウスとアレクセイは二人きりになった。その時間は、ユリウスの気持ちを甘酸っぱい青春のあの時代に引き戻した。

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