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 一人になったユリウスは、内側からつきあげてくる感情を持てあましていた。

 アレクセイのことは、過去の思い出になったはずだった。それなのに、アレクセイが同じ部屋にいる間ずっと、彼の存在がユリウスの心をかき乱していたのだ。

 ユリウスは頭を抱え込んだ。可愛いキーラのことを思い起こし、ここから出なければ、と自分に言い聞かせた。だが、自分がどこにいるかさえ分からない。手がかりを探すためにあたりを見回すと、チェストの上にペンと新聞が見えた。ボリシェビキの新聞だった。

 ボリシェビキについては、カティアから聞いたことがある。私有財産を否定する共産主義者たちで、唯物史観という歴史観に基づき、君主ではなく労働者が支配する世の中にするために、暴力革命を起こそうとしていることなどだ。

 カティアは共産主義者があまり好きではなさそうだった。共産主義者たちがよりどころとしている唯物論は、本来自由で創造的な存在である人間を、物と同じレベルに引き下げている、と言っていた。

 カティアが学んだ女学校の教師にも共産主義者がいて、その理想をしばしば語っていたそうだ。しかし、カティアには、彼らの考え、特に労働の価値に関する考えが理解できなかったという。

 あるとき、カティアは、一家が働いている屋敷の主人と話す機会があり、その話をしたところ、イギリス人が著した一冊の書籍を勧められたそうだ。カティアは、その本を読んで自分の進むべき方向を決め、まずは屋敷でドレスや服飾品をつくることを選んだという。

 その本の影響もあってか、カティアは企業家たちとのつきあいを楽しんでいた。カティアと交流のある人びとは、よりよいものをつくり出す意欲があった。ドレス工房の女性も、美しいドレスをつくり、女性を、そして世界を美しくしたいと言っていた。創造的で、仕事熱心で、世の中は理屈だけではないことを知っている人々だ。

 カティアは、彼らの挑戦する勇気や百人百様の自由なアイデアを愛していた。また、資産は、彼らの努力の結晶であり、その思いや夢を実現する手段でもある、と考えているようだった。

 ユリウスは、香水売り場にいたときに、カティアの考えが少し分かったような気がした。そこで新しい香料の開発に励んでいた調香師一家は、石けん工場を所有する、いわば資本家でもあったし、工場以外にも資産をそこそこ持っていた。だが、いったん事業に失敗すれば、最悪のばあい一文無しになることも視野に入れていた。そんな彼らは、礼拝に通い、善人であろうとしていた。

 シベリア商人もさまざまな工夫をしていた。シベリアの人びとの生活も豊かにしたいとも言っていた。息子たちの代には、もっと繁盛して欲しいと願っていた。

 すべての商人が成功するわけではないし、工場で劣悪な条件で労働せざるをえない人たちもいる。もちろん、悪徳な手段で、あるいは、不当に財産を築いている者がいることも、ユリウスは聞いている。だからといって、資本家全員を否定する考えは、どこかおかしいと思う。逆に、貴族や資産家でも、財産管理に失敗すれば没落することだってある。もっとも、ユリウスは自分の知る世界が狭いのは自覚していたし、農民たちのことは、正直なところよく知らなかった。

 しかし、ボリシェビキが活動の資金を得るために銀行を襲ったなどのニュースを聞くたびに、ユリウスは引っかかりを感じたものだった。

 フランス通のカティアは、革命についても否定的だった。よく分からない理由をつけて多くの人々を次々と処刑した残忍さが、好きではないらしい。むしろイギリス人によるフランス革命批判に共鳴したようだった。ボリシェビキもまた、支配権を取ったら同じことをするのではないかと疑っていた。善良な人々の努力の成果も水泡に帰すだろうとも。

 アレクセイの仲間たちは、ユリウスを無傷でここまで連れて来たが、この後のことは分からない。なんといっても、彼らはヴェーラの心を踏みにじったエフレムの仲間なのだ。いっぽうで、アレクセイはそんな人たちとは違う、とユリウスは心の片隅のどこかで願っていた。アレクセイのこととなると、ユリウスは冷静にはなれなかった。

 あれこれと思いをめぐらせているうちに、部屋が冷えてきた。寒いと言おうと思ったときに、留守番の面長の男から、暖房用の石炭がなくなったから地下室から運ぶのを手伝うように言われた。だが、留守番の男はもう一人いたはずだ。

「なぜ、わたしに?」

「なまいきな女だな。スプーンより重いものなど持ったことなどないんだろうが、ここでは、少しは労働者の立場を味わってもらおう。いやなら凍え死ぬまでだ」

 いやな男だ。男は、ユリウスが逃げないように自分の前を歩かせた。

 ユリウスが地下の倉庫に入ると、男がドアを閉めた。そのとき、ユリウスは、この男が何を企んでいるかを察した。

「ドアを閉めたら、石炭を持って外に出られなくなるでしょう?」

 努めて冷静に言ったつもりだが、声がうわずってしまった。こんなときこそ落ち着かなければならないのに。

 男がユリウスにじりじりと近寄ってきた。

「これ以上、近づかないで。石炭を運ぶなんていうのは嘘ね?」

「嘘じゃないさ。その前にちょっと用を済ませるだけだ。金持ちの男相手にやっているんだろう?」

 ユリウスは、とっさに袖に隠しておいたペンを男に向けた。新聞のそばにあったものだ。

「これ以上近づかないで、と言ったでしょう」

 ユリウスはどなった。

 そのとき、過去の最もおぞましい記憶がユリウスを襲った。ペンを武器として持つ感触が、あのときにペーパーナイフを持ったときの感触と重なり、母親に乱暴しようとしていた、あの男、ヤーンの首をめがけて突いたときのことがよみがえったのだ。

 ユリウスが動揺したすきに、手首をつかまれてしまった。

「そんなもので抵抗できるのか。むだなことはよして、おとなしく従えよ」

 ユリウスは心のなかで叫んだ。

 ――助けて、レオニード!

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 ユリウスは、とっさに金属のペン先で男の頬を引っかいた。男は、悪態をついてユリウスをなぐった。ユリウスがその場に倒れたひょうしに、ささやかな唯一の武器が手から落ちた。

 

 男はユリウスのうえに馬乗りになり、ユリウスの両手首をあわせて押さえつけ、もう一方の手でブラウスを引きちぎった。

 

 ユリウスも、男を叩いたり、足でけったりしようとしたが、男の力には、かなわなかった。それでも、ユリウスは、思いつく限りの罵声(ばせい)を浴びせ抵抗を続けた。

 

「いい加減におとなしくしろ」

 

 男がユリウスの頬を再びなぐった。そのときだった。

 

「きさま、何をしている!」

 

 アレクセイのどなり声が聞こえたかと思ったら、男が、ユリウスから引き離され、なぐられ、あっという間にどさっと音を立てて床に倒れた。

 

 その間に、小柄な女性がユリウスを助け起こし、かぶっていたプラトークでユリウスのはだけた胸を隠した。

 

 アレクセイが倒れた男をさらになぐろうとしたところ、口ひげの男に止められた。

 

「離せ、フョードル」

 

 アレクセイは止めに入った男もなぐりかねない勢いだった。

 

「これ以上は、よせ。アレクセイ。グレゴリー、何を考えているんだ」

 

「貴族かブルジョワの女じゃないか。奴らが女たちに何をしているのか知っているだろう? 同じことをしているだけだ」

 

 ユリウスを助け起こした女性がびくっとしたようだったが、ユリウスは、恐怖と怒りと助かった安心感とで混乱し、しばらく放心状態だった。

 

「その後どうするつもりだったんだ。知りあいが暴行されて、おれが黙っているとでも?」

 

 アレクセイがどなり返した。

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