ユリウスの肖像

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窓の外では、湿気を含んだ細かな雪が、降ったりやんだりしている。
アレクセイは、窓辺で外の景色を眺めていたが、同志たちの間にいるユリウスが気になって仕方がなかった。ついつい振り返ってみては、彼女と目があいそうになり、そのたびにあわてて窓のほうに向き直した。ユリウスもまた、アレクセイを意識しているらしく、目で彼を追っては戻す動作を繰り返していた。
アレクセイは、獄中でユリウスのことを何度思ったかしれない。だが、すぐそこにいるユリウスの美しさは、想像をはるかに超えていた。
アレクセイの記憶のなかのユリウスは、攻撃的で、感情的で、もろかった。女だと気づかれないように虚勢を張っていたのだろう。アレクセイは、ユリウスが女だと知ってからは、ユリウスが弱く、守られるべき存在だと、それまで以上に思うようになったものだ。
光を反射して輝く彼女の髪は、ドイツにいたころと変わっていない。必死にアレクセイを見つめたそのまなざしも、まっすぐなままだ。
いっぽうで、かつてのような虚勢は彼女から消え失せ、代わりに芯のある、やわらかな強さが備わっている。古びた椅子に座っている姿は、むさ苦しい室内を彩る一輪の花のようだ。彼女の存在は空間を美しくした。
ユリウスと再会した瞬間から、アレクセイの内側に封じ込めてきたユリウスへの思いが噴き出した。だが、それは、全生命を革命運動に捧げることを決意したアレクセイにとっては、悪魔の誘惑にも等しい。アレクセイは、拳を握った。青いまっすぐな瞳に惹かれまいと、自分を抑えるのに必死だった。
アレクセイは、ユリウスについて知っていること、つまり、知りあった経緯や、数年前の街中での再会などについて、同志たちに説明した。しかし、彼女がロシアに入国してから、どこで、どのように過ごしてきたのかは知らない。若い女性がたった一人で外国に来て、生きていくすべは多くはないはずだ。知人のつてを頼ったのか、あるいはそれ以外か。
いずれにしても、ユリウスの清潔な爪や肌、特上の服装は、余裕のある暮らしぶりを物語っており、彼女が裕福な者の庇護下にあることは明らかだ。スパイの可能性も否定できない。
身元を確認しようとする同志たちに対して、ユリウスはずっと沈黙を守っていたが、とうとう口を開いた。
「あなたがたは、人民救済委員会なのでしょう?」
一同は顔を見あわせた。
「人民救済委員会? それは何だ」
ユリウスは、聞き返されて混乱したようだったが、アレクセイたちが人民救済委員会と無関係だと知ると、ためらいながらも夜道にいた理由を話し出した。馬車を襲われ、ウスチノフ家の別荘に足止めされていたところを、シューラ・ウスチノワが馬を貸してくれたことなどだ。
シューラの名を耳にしたアレクセイは、ユリウスに近づいた。
「シューラにおれのことを話したのか」
ユリウスの顔がみるみる青ざめていった。
「彼女と知りあいなの? お願いだから、彼女には言わないで」
「かつてウスチノフ氏の世話になったが、すでにたもとを分かち、いまは彼ら資本家は敵だ」
アレクセイの言葉に、ユリウスは軽く胸をなでおろして、シューラとのやり取りを話した。
「わたしは、あなたがたがケレンスキーたちの仲間だと思っていたわ」
「ケレンスキー?」
唐突に出てきた名に、同志たちは再び顔を見あわせた。ユリウスにどういうことか説明を求めたところ、ケレンスキーらが人民救済委員会を組織し、ウスチノフたち資本家と連携しているらしいことが分かった。
同志たちがそこで見聞きしたことを尋ねたら、ユリウスは条件を出してきた。
「あなたがたに有益かどうか分からないし、それに、立ち聞きしたことが知られたら、わたしはどんな目にあうか分からないわ。でも、解放してくれるのならお話しします」
「解放するかどうかは、君が我々の敵ではないことが分かってからだ。君は我々が何者かを知ってしまった」
ズボフスキーが言った。
「あなたがたのことは誰にも言いません。お願い」
「ユリウス、君の様子や話から判断すると、我々の敵側の人間と親しいと思われる。ウスチノフの仲間ではないのなら、おそらくもう一方の敵だろう」
ユリウスは再び口を閉ざした。

*
ユリウスは、嘘をついて、その場を切り抜けようとも考えた。けれども、たとえば、ユリウスが香水の売り子だと主張したとしても、とびきり上質な衣服から、それが嘘だとすぐに分かるだろう。
あれこれ考えたすえに、ユリウスはウスチノフ家の別荘で立ち聞きしたことを話すことにした。彼らに少し協力することになれば、悪くない結果につながることを期待したのだ。
ケレンスキーたちがユスーポフ侯爵を利用しようとしていることをユリウスが話し終えると、口ひげの男が口を開いた。
「ふむ、ケレンスキーたちは、まずクーデターを起こし、政権をとる魂胆だろう」
「その後に我々を始末しようというわけか」
アレクセイがその後を続けた。どうやらケレンスキーは、アレクセイたちの仲間どころか敵だったようだ。
「それにしても、またユスーポフ侯の名を耳にするとはな」
口ひげの男がアレクセイの肩を叩いて言った。
「ミハイルから聞いたんだが、ユスーポフ侯が、おまえの助命嘆願をしたらしい。おまえはそのおかげで死刑を免れたわけだ」
「ユスーポフ侯が?」
アレクセイは不意打ちをくらったような声を出した。ユリウスも、驚きのあまり大声をあげそうになった。
――レオニードが?
アレクセイのシベリア流刑が決まったときには、まだレオニードとの関係は始まっていなかったはずだ。
だが、ユリウスがその理由を考える間もなく、面長の男がユリウスを怪しんで意地悪そうに尋ねた。
「なぜそんなに驚くんだ。何か知っているようだな」
レオニードが彼らの敵なのは間違いない。ユリウスがレオニードとごく親しい間柄だと彼らに知られたら、どうなるのだろう。答えに窮したユリウスは、市井(しせい)の噂話を思い出しながら取りつくろった。
「わたしはアレクセイが生きていて嬉しいの。噂では、ユスーポフ侯は皇帝に逆らう一派は容赦しないって聞いています。あなたがたは帝政に反対なのでしょう? だから驚いたのよ。奇跡としか言いようがないわ」
アレクセイも考えこんでいた。汽車にひかれそうになった彼の弟を助けたからだろうか、と自問自答するように言ったが、腑に落ちない様子だった。
しかし、すぐにユスーポフ侯爵の話題は打ち切られ、再び彼らの矛先(ほこさき)がユリウスに向かった。
結局、ユリウスは彼らの監視下に置かれることになった。
しばらくして彼らは外出することになり、その間、ユリウスは窓のない奥の部屋に入れられ、二人の男が留守番として隣室に残ることになった。
彼らが出かける間際に、アナスタシア、という名前があがっていたのを、耳ざとく聞きつけたユリウスは、思わず叫んだ。
「もしかしたらアナスタシア・クリコフスカヤのこと? 彼女は、あなたを助けようとしていたわ」
ユリウスは、彼女に何があったのか教えて欲しいと頼んだ。純粋に知りたかったし、彼女と知りあいだということは、損にはならないだろうという計算もあった。
詳しいことは教えてもらえなかったが、アナスタシアはオーストリアに滞在中に、何らかの事情で当局に出頭したそうだ。その後、ロシアに送還されて、先日シベリア流刑が確定したという。
「そんな……」
ユリウスはぼそりとつぶやいた。
アナスタシアはアレクセイを助けようとしていた。おそらくそれは成功した。だからアレクセイは生きていた。そして彼女が犠牲になった。そうユリウスは直感した。