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 月の光が森沿いの街道を細々と照らしている。

 

 人里離れた夜道をたった一人で通るなんて尋常じゃない、とユリウスは思った。厚い雲が月をさえぎったら何も見えなくなるし、いつオオカミや他の野生動物が襲って来るか分からない。銃も取りあげられてしまった。冷たい空気も肌を刺すようだ。

 

 シューラ・ウスチノワにとっては、ユリウスの安全などどうでもいいに違いない。だが、どういうわけか、彼女は監視すべきユリウスを逃がしたうえに馬まで貸してくれた。

ユリウスは、馬に乗れるだけましだと自らに言い聞かせ、恐怖心と戦いながら、ペテルスブルクを目指した。

 

   *

 

 人民救済委員会の話を聞いた直後に、ユリウスと同じ年頃の可愛い感じの女性が現れた。名前をシューラ・ウスチノワといった。彼女によると、ケレンスキーという人が、道ばたで意識不明で倒れていたユリウスをウスチノフ家の別荘に運び込んだという。

 

 ユリウスは、ユリア・スミルノワの名を出せば、ユスーポフ侯爵とのつながりが発覚すると考えた。そこで、嘘をつきたくはなかったが、偽名を名乗り、事実と嘘を交えながら身の上話をつくりあげた。そして、外国にいる家族のもとへ帰ろうとしたところを誘拐されかけた、とシューラに説明した。

 

「家族の仕事の都合で外国に住んでいたのですが、そこで出会った男性を追いかけて、ペテルスブルクに来たのです。その彼は、シベリア流刑になったのですが、先日、火災で亡くなったと知って」

 

 先ほどの人民救済委員会とは、ケレンスキーたちのことで、レオニードの敵の敵のようだが、レオニードの側ではなく、反体制派だとユリウスは考えた。だから、シベリア流刑にされた知りあいがいることを、ほのめかしたのだ。そこまで話したときにシューラが驚きの混ざった声で聞いた。

 

「シベリアの監獄の火災で? それは、どなたですの」

 

「アレクセイ・ミハイロフです。ご存知ですか」

 

 シューラは、ドミートリィの弟ですね、とつぶやいて続けた。

 

「あなたは彼の恋人なのかしら」

 

 鋭い質問だが、なぜそんなことを聞くのか怪訝に思いながらもユリウスは答えた。

 

「いいえ、わたしの思いは一方的で、彼が振り向いてくれることはありませんでした」

 

 シューラは、わずかにほっとした表情を顔に浮かべて言った。

 

「彼がシベリア流刑になったのは何年も前ですのに、なぜ今になって?」

 

「それが、彼のことをあきらめきれず、ずるずると居続けたのです。彼が亡くなったと聞き、やっと外国にいる家族のもとに戻る決心をしたのです」 

 

 そして、ユリウスは、くじいた足が痛んで歩けないので馬車か馬を貸して欲しいとシューラに頼んだが、うまく断られてしまった。

 

 ケレンスキーたちは、身なりがよく、しかも銃を持った女性が森のそばの街道で一人で倒れていたのを不審に思い、身元を調べるという。その間、ウスチノフ家の別荘で監視することになっていたのだ。

 

 さらに、ウスチノフ氏も、ユリウスとどこかで会った気がすると首をひねった。一度でも会って話したことのある人物は、めったに忘れないと言う。こんな美人と会ったことを思い出せないなんて、と笑う彼の目は笑っていなかった。

 

 やがて、ウスチノフ氏は、数年前にペテルスブルク行きの汽車のなかで出会った奇妙な少年と、目の前の女性が似ているのに気づいた。その少年は、ユリウスと名乗り、アレクセイ・ミハイロフを探すのだと話していた。当時、ウスチノフ氏はミハイロフを知っていたが、密入国して地下活動をしている男のことを、おいそれと話すわけにはいかず黙っていたのだ。

 

 そういうわけで、ユリウスは怪しい人物と判断され、数日間軟禁状態にあったのだが、その日、日が暮れてから唐突にシューラが馬を貸すから逃げろと言ってきた。

 

 ユリウスは、夜間に一人で行動することに怖気(おじけ)づいたが、急いでレオニードに彼らの企みを知らせたかったし、このチャンスを逃すとどうなるか分からないので、シューラに言われるままにウスチノフ家の別荘から抜け出した。

 

   *

 

 月がかげってきたときに、自動車が近づく音がした。ウスチノフ氏に気づかれたのだろうか。だが、こんな時間に照明をつけずに車で走るなんて、よからぬ連中に違いない。

 

 ユリウスが歩を止めて隠れる場所を探そうとしたときに、突然、自動車が照明をつけ、大きな音を立てて停車した。耳障りな音とともに急に光をあてられて、ユリウスも馬も驚いた。ちょうど馬からおりようとしていたユリウスは、足を踏みはずして転んでしまった。ユリウスは、尻もちをついたまま、相手が悪党かもしれないのに、つい悪態をついた。

 

「いたた。こんな夜ふけに自動車を照明もつけずに運転するなんて、なんて非常識なの!」

 

「そっちこそ、こんな夜道を通るなんて、我々がいなくても怪我をしたさ」

 

「どうして女が一人でこんな時間にいるんだ?」

 

 車からおりてきた男たちは、明らかにユリウスのことを疑っている。

 

「誘拐されそうになったところだったの。それを親切な人が助けてくれたのよ。急いでいるの」

 

 ユリウスが立ち上がろうとしたとき、足が痛んでよろめいた。

 

「その様子では動けまい。どちらにしても、ここにいるのは危険だ。場所を変えて、いきさつを詳しく聞かせてもらおう」

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  *

 

 ユリウスたちが古い建物の一室に入ったときに、男たちのうちの一人が先にいた男に声をかけた。
 

「アレクセイ・ミハイロフ、戻っていたのか」

 ――アレクセイ・ミハイロフ?


 ユリウスはその名を聞いたとたん、心臓が止まりそうになった。きっと同姓同名の別の男だろうと思いながら、声をかけられた男のほうに、おそるおそる目を向けた。


 その男の頬はげっそりとこけ、眼光は鋭く、ユリウスの記憶のなかの男とは違うのに、ひどく懐かしい感じがする。ユリウスの呼吸が苦しくなり、彼の姿に目が釘つけになった。声が出ない。


 ――まさか、ありえない、でも


 男のほうも女性の存在に気づくと、同じように強く見つめ返した。二人が見つめあっているのが分かると、部屋のどこかから冷やかしの声が聞こえた。


「アレクセイの奴、これまで女に見向きもしなかったくせに、今回ばかりは美人に見とれているぜ」


 しかし、二人の耳には外部の声など入ってこなかったようだ。


「クラウスなの?」


「まさか、ユリウスか?」


 アレクセイも声を張りあげた。


「あなたはシベリアで亡くなったって」


「故郷に帰らなかったのか」


 ユリウスとアレクセイは、お互いに見開いた目で見つめあったままで、その次の言葉が出てこない。


 ユリウスは、彼の懐かしい瞳に胸が熱くなった。かつて強く求めた人と出会ったためか、ユリウスの心のふたが開き、甘酸っぱくて美しい思い出が次から次へとあふれ出てきた。


 「オルフェウスの窓」での出会い。彼の奏でるバイオリンの音。手を引かれて走ったときの力強い彼の手。ボートに乗っていたときに感じた彼の体温。枯葉が舞うなかをずぶぬれになって現れた姿。どこか遠くを見つめる彼のまなざし。まぶしかった彼の瞳。


 ユリウスの思い出のなかのクラウスは、目の前にいる男よりも、もっと若く、もっと健康的で、もっといきいきしていて、もっとおおらかで、もっと親しげだった。それが、ずいぶんと変わっていた。


 シベリアの監獄でのきつい労働と十分とはいえない食事が彼を痩せさせ、日焼けと雪焼け、乾いた風が彼の皮膚を痛めつけたのだろう。目つきは厳しく、過酷な監獄の環境を体現しているようだった。


 しかし、その鳶色(とびいろ)の瞳は再びユリウスの心をつかんだ。ユリウスは、涙ぐみながら素直な気持ちを言った。


 「よかった、生きていてくれて。つらいシベリアで、よく耐えたんだね」

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