ユリウスの肖像

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馬車が大きく揺れたせいで、ユリウスの目が覚めた。ずいぶん眠った気がする。外をぼんやり眺めたユリウスの顔がこわばった。
――ここは、どこ?
見えるのはカラマツばかりだ。侯爵邸に向かうときは毎回違う道を通るが、こんな林を通るルートはないはずだ。最悪の事態を想像したユリウスは、深呼吸をしてから、手袋をはめ直して座席の下に隠してある銃を手に取った。
ユリウスは、キーラが街中で男たちにからまれた後に、万一のときのために銃を持たせてくれるようにレオニードに頼んだ。レオニードは女性に銃を持たせることに難色を示したが、ついには節(せつ)を曲げてユリウスの銃を自ら選んで手ほどきをしてくれた。

馬車がスピードを落とした。もうすぐ止まるのだろう。馬に乗った男が近づいて来た。出発のときに顔をあわせた護衛ではなかった。ユリウスは、馬車のドアを力いっぱい開け、すぐに反対側から外に飛びおりた。ドアをぶつけられた馬には気の毒だが、馬のいななきと男の叫び声がした。
「どうした、大丈夫か」
聞き覚えのある声と、馬に乗っていたであろう男が、口汚い言葉をはくのが聞こえた。
「シロコフ、女が逃げたぞ。馬車を止めろ」
――シロコフ?
ユリウスは、一瞬その名に気を取られたが、そのまま走り続けた。林を分け入ったところに小屋が見えたので、そこに隠れようと考えたが、思いとどまって、足元にあった石を小屋に向けて投げた。
「小屋のほうだぞ、追え!」
シロコフたちは、うまく石にくいついたようだ。
「撃つなよ。生け捕りにしろとのことだ。小屋に追い込み、予定どおり閉じ込めろ」
やはりユリウスを小屋に監禁するつもりだったらしい。ユリウスは、シロコフたちが小屋に向かうのを見てから、馬車の来た道をたどった。だが、しばらくすると背後からシロコフと仲間の声が聞こえた。もう見つけられてしまったのだ。
「止まれ。撃つぞ」
「これ以上は、逃げられないぞ」
ユリウスは、拳銃をかまえて振り向いた。
「よしな、おまえにそんなものが扱えるのか。怪我をするぜ」
シロコフがにやにやしながら言った。ユリウスの目の前にいる敵は三人だ。かなわないかもしれないが、ユリウスは勝負に出た。
「試してみましょうか」
そう言ってユリウスは銃の引き金を引いた。耳をつんざくような音とともに、ユリウスは道の林に入り、木の背後に回り込んだ。
悪党どもも発砲し始めた。カラマツの木はユリウスの姿を隠すほど太くなかったが、少しは弾よけになるだろう。
「それで隠れたつもりか」
シロコフのあざけるような声が聞こえた。ユリウスの弾は彼にダメージを与えられなかったようだ。ユリウスは木のかげから大声で尋ねた。
「誰がわたしを生け捕りにしろと?」
「想像がつくだろう? けれども、おまえの情夫の親父は殺されたっていうのに、おまえは生け捕りにしろ、とさ」
シロコフは下品な声で続けた。
「おまえが坊主の相手をする前に、あの侯爵をたらしこんだその体を味わわせてもらうぜ」
そのとき、何頭かの馬が近づいてくる音が聞えた。別の一団がやって来たようだ。
「ち、まずい、誰か来たぞ」
シロコフ一味が気を取られたすきに、ユリウスはもう一度引き金を引いた。そして、すぐに林の奥に入り込み、目をつけていた太めの倒木のかげで、はいつくばった。足が痛んだ。くじいてしまったようだ。
シロコフの仲間の驚いた声が聞こえた。
「なぜ、あんたたちがここに?」
シロコフたちの知りあいのようだ。ユリウスは湿った地面の上で、腹ばいになったまま息を潜めて耳をそばだてた。
「銃声がしたが、女は生きているんだろうな?」
「どういうことだ?! おれたちに銃を向けるのか。女の居場所が分からなくなってもいいのか」
シロコフが驚きと怒りの声をあげた。彼らの会話から推測すると、どうやら新たに来た男たちがシロコフたちを殺そうとしているようだ。シロコフは利用されただけらしい。
ユリウスが状況を把握しようとしている間に、また別の男の声がした。敵はいったい何人いるのだろう。
「この道を少し入ったところに小屋があります」
「そうか、そこに女を監禁したのだろう。ご苦労だった。おまえたちには、もう用はない」
言い終わるやいなや、銃声が響いた。
「いまのうちだ。逃げろ、シロコフ」
発砲したのはシロコフ側のようだ。撃ちあいが始まった。
「追え!」
「女の居場所が分からなくなるぞ」
「女の足では遠くまで行けまい」
銃撃音と蹄の音が遠ざかってしばらくしてから、ユリウスは注意深く様子をうかがいながら林から道に出た。そして、痛む足を引きずって男たちとは逆の方向へ歩き始めた。だが、やがて疲労と空腹、眠気に襲われて、意識がもうろうとし始めた。
*
キーラは花冠を完成させると、満足げにブランシュの頭に、ちょこんとのせた。白い毛に矢車菊の青がよく映える。首にも花輪がかかっている。飾りをたくさんつけてもらって、ブランシュも嬉しそうだ。

ユリウスはこの幸福な光景に目を細めた。キーラは思いやりのある子だ。
「おかあさま、これは、おかあさまのよ」
キーラが別の花冠を持って、ブランシュとともにユリウスのほうへかけ寄って来た。するとキーラが突然叫んだ。
「おかあさま、どこにいくの?」
「キーラ、何を言っているの? お母さまは、どこにも行かないわ」
だが、キーラたちはユリウスのほうに向かっているのに、ユリウスとの距離は縮まらない。それどころか、少しずつ開いていく。
「おかあさま、どこにいったの?」
「キーラ、お母さまはここよ!」
キーラが涙を浮かべながら、あたりを見回している。キーラには、ユリウスの姿は見えないようだ。声も届いていない。キーラの向こう側にレオニードが現れた。キーラがレオニードに飛びついたのが見えたと思ったら、二人と一匹の姿がさらに遠のき、そしてついには見えなくなった。ユリウスは、半狂乱になって叫んだ。
「キーラ、キーラ、レオニード!」
*
――夢?
がばっと起き上がったユリウスは、いやな夢を見ていたのだと気づいて、大きく息をはいた。しかし、次に別の恐怖にとらわれた。自分自身が寝ていた部屋に見覚えがないのだ。
――ここは、どこ? わたしは、どうなったの?
ユリウスは、状況を確かめるために、そろりとベッドから出た。足が痛んだ。そっとドアを開けると、少し離れた部屋から男たちの話し声がした。ユリウスは、左右を確かめてから、片足を引きずりながら声のするほうへ向かった。
「ユスーポフ侯に、もし宮廷へ密告でもされたら、我々人民救済委員会も終わりだ」
レオニードの名が出たので、ユリウスは思わずドアに近寄って聞き耳を立てた。
「大丈夫ですよ。父親の件といい、今回の左遷(させん)といい、宮廷のなかであの坊主を最も憎んでいるのは、ユスーポフ侯でしょうから。密告などしないでしょう」
ユリウスにはレオニードの左遷は寝耳に水だった。もっと知りたかったが、男たちの話題が変わり、宮廷の腐敗と皇后の愚かさについて話し始めたので、足音を忍ばせて先ほどの部屋に戻った。ドアの前で長居をして見つかりたくなかったのだ。
レオニードの口からは政治的な話は聞かないが、皇后がレオニードの政敵の僧侶の言いなりになっていることは、ユリウスは知っていたし、そんな皇后に不満を抱く勢力があることも知っていた。
あの部屋の男たちも皇后を快く思っていない一派のようだ。
――彼ら、人民救済委員会って、何者なの?
彼らは、レオニードの憎しみを利用し、その僧侶へ復讐をさせようと企んでいるのかもしれない。どうやら人民救済委員会とは、その善意に満ちた名称にふさわしくない団体のようだ。
――レオニードに早く知らせなければ
