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 キーラとブランシュのいない館は火が消えたようだ。

 

 ユリウスは、ふと縫い物の手を止め、キーラとレオニードと三人が写っている写真を眺めた。キーラの誕生日に撮影したものだ。

 

 キーラが初めてユリウスと離れて侯爵邸に宿泊したときは、ユリウスは体の一部を失ったような寂しさを感じた。それなのに、キーラときたら、嬉々として出かけただけでなく、帰って来てからも、楽しかったことを次々と話して、また泊まりに行きたいと言うものだから、ユリウスは複雑な気持ちになったものだ。キーラは、ミハイルや他の少し年の離れた子どもたちといっぱい遊んで、ブランシュと広い庭をかけ回って、夜になったらぐっすりだったそうだ。

 

 ユリウスが子どものころは、女だと知られないように他の子どもたちと距離を置かなければならなかった。しかし、キーラは、ユリウスが持ち得なかったものを持っている。遊び友だち。叔母と叔父。もう会うことはできないが、祖父。そして父親。

 

 ユリウスは、写真のなかの可愛いキーラの隣に立っている父親に目を移した。彼は、政治や宮廷での出来事に関する発言はユリウスの前ではしない。しかし、彼を取り巻く環境が変わりつつあるのはユリウスも感じ取っている。

 

 亡くなったモスクワ知事の解職はユスーポフ侯爵の政敵が仕組んだというのが、もっぱらの噂だった。世間では、解職だけでなく、その死についても関係がないとは思われていない。

 

 ――レオニードのまわりで何かが起きている

 

 しかし、別居中とはいえ、皇帝の姪のアデールがレオニードの妻である限り、レオニードは皇帝の義理の甥であり、いざというときには、その立場が彼を守る防波堤となるだろう。だから、アデールは彼のために必要な存在であり、ひいてはキーラのためにも必要な存在だということになる。ユリウスはそう自分に言い聞かせ、彼女に対する個人的な感情は無視するよう努めている。

 

 そんなことを考えていたら、階下が騒がしくなった。レオニードが来たようだ。突然のことだった。侯爵邸にいるキーラに何かあったのだろうか。ユリウスの顔から血の気が引き、挨拶もそこそこに、思ったことを口に出した。

 

「もしやキーラが」

 

 レオニードは、ユリウスの青ざめた顔を見て軽く笑った。

 

「キーラは問題なく過ごしているはずだ。ふと無性におまえの顔を見たくなって、回り道をして来たのだ。あまり時間がないのだが」

 

 ユリウスの顔がぱっと輝いた。

 

「なんて偶然なの! わたしも、ちょうどあなたのことを考えていたところよ。とても嬉しいわ」

 

 だが、いつものように後ろでロストフスキー大尉が目くばせをしている。顔を一目見る程度の時間しかないらしい。

 

「なんだか今日は特に帰って欲しくないわ」

 

「私もだ。だが、戻らなければならない。元気そうでよかった」

 

 お互いに頬にキスをした後、ユリウスは、レオニードの後ろ姿が視界から消えるまで見送った。どういうわけか、館を去るレオニードが、このときほど名残(なごり)惜しく感じられたことはなかった。

 

 ユリウスは、寂しさを追いはらおうと頭を振った。そして、キーラの喜ぶ顔を思い浮かべて、再び子ども用のワンピースづくりに取りかかった。先日出かけたときに、キーラに似合いそうな生地を見つけたので、ついつい購入してしまったのだ。

 

 肩がこって、ふとテーブルを見やると、外出したときに気まぐれで購入した新聞が片隅に置かれたままだった。読むつもりだったものの、裁縫のほうに気を取られて忘れていた。ユリウスは、なんとなしに手に取って読み始めた。

 

 その新聞は、政治などのおかたい記事よりも、街の身近な出来事や音楽、演劇、その他娯楽などの内容が充実している。それでも、ドイツとの外交悪化や、ドイツ系住民が肩身の狭い思いをしていることなども報じられていた。 

 

 さらに新聞をめくると、「アカトゥイ全焼」という見出しが目にとまった。シベリアの監獄で火災が発生したらしい。「ずさんな管理体制」、「不正が横行」、「政治囚全員死亡か」、と読み進めるうちに、ユリウスの手が震えた。「収監されていた囚人は以下のとおり」の下に記載された名前のなかに、ユリウスの知っている名前があったのだ。嘘だと思った。だが、目をこらして何度見ても、その名前はそこにあった。

 

 アレクセイ・ミハイロフ。

 

 ユリウスの手から新聞がはらりと落ちた。そして、ユリウスの目に涙がたまり、ぽたぽたと流れ落ちた。

 

 ――クラウス!

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   *

 

 レオニードがシベリアの監獄の火災について知ったのは、新聞に掲載される前日だった。囚人は全員焼死したと考えられているが、ミハイロフの遺体は確認されていない。

 

 そして、アナスタシア・クリコフスカヤがオーストリアの治安当局に自ら出頭したとの知らせを受けたのが、火災発生から二日後のことだった。

 

 ――なぜクリコフスカヤは、あのタイミングで自首したのか。ミハイロフは死んだのか、それとも

 

 ペテルスブルクの治安当局は、ストラーホフ伯爵の不審な死とその妻の国外演奏旅行が続いたことに疑いを抱き、調査を開始していたらしい。当局は、ユスーポフ侯爵の卓見(たっけん)に感心しながらも、クリコフスカヤの取り調べのために、より詳細な情報提供をレオニードに求めてきた。レオニードのほうも、手のうちを知られることなく、当局が得た情報を知る必要があった。

 

 ――ユリウスは巻き込まれていないのか

 

 そういう経緯があったためか、あるいは何かの虫の知らせか、レオニードはユリウスに会う必要性を強く感じていた。一昨日、ごくわずかながらも無理に時間をつくって会いに行ったのは、 そのためもあった。そのときのユリウスの様子は、いつもとなんら変わらなかった。

 

 ところが、その晩、ペトロワがユリウスの様子がおかしいと知らせてきた。レオニードが館を去った後、どういうわけかユリウスは部屋に閉じこもって、食事もまともに取らなかったので、ペトロワが心配したのだ。

 

「おとうさま、おとうさま」

 

 帰宅したレオニードは、かけ寄って来た娘を抱き上げて頬にキスをした。珍しくキーラが不安げな顔をしている。

 

「キーラ、どうかしたのか。お母さまは、どうしている?」

 

「おかあさま、まだこないの」

 

 キーラは今にも泣き出しそうになった。警備責任者がそばに来て、深刻な面もちで侯爵に目くばせをした。

 

 レオニードは、娘の頬にもう一度キスをした。

 

「お母さまは大丈夫だ。さあ、ミハイルのところに行って遊んでもらいなさい。お父さまには、まだ仕事が残っているのだ」

 

 娘が十分離れたのを見届けてから、レオニードは警備責任者に報告を求めた。

 

「奥さまの馬車の到着が遅れていたため、捜索を開始しましたが」

 

 警備責任者が言いかけたところで、イリューシンが走って来た。

 

「奥さまの馬車の御者から頼まれたという男が、本邸に参ったのですが」

 

 その男によると、御者は御者台から何者かに突き落とされて負傷し、動けなかったところを、偶然に通りかかった男に助けられたという。現在、御者は現場付近の民家で手当てを受けているそうだ。

 

 また、御者が言うには、馬に乗って伴走していた護衛が、乗っ取られた馬車を追跡したが、しばらくして落馬したのが遠目に見えた、とのことだった。そこで、近隣住民たちが落馬したあたりに向かったところ、意識を失って倒れている護衛を発見したそうだ。

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