ユリウスの肖像

39
空に見えるのは雲ばかりだ。
ユリウスとキーラを乗せた侯爵邸に向かう馬車が、がたんと大きく揺れて急に止まった。
ユリウスは、数年前に暴動に巻き込まれたことを思い出して、顔をひきつらせた。あのときと状況が違うし、今回はキーラがいっしょだ。ブランシュも驚いて上半身を起こしている。
「申し訳ありません。車輪に異変が生じました。目下、原因の調査中です」
馬車の隣を馬で伴走していた護衛のイリューシンから説明があった。襲撃にあったわけではなさそうだ。整備点検は念入りにしているはずなのに、と御者が首をひねっている。
「おあかさま、あれはなに?」
幼いキーラはしばらく窓外を眺めていたが、外の様子に興味を持ったらしく、そう言うと馬車から飛び出してしまった。すばしっこく動くキーラの後をブランシュが追って行く。
「キーラ、どこに行くの?!」
ユリウスは甲高い声をあげ、ブランシュの後に続いた。車輪に気を取られていたイリューシンは、声をかけるのが遅れた。
「奥さま、お戻りください」
「こんな道端で、あの子を一人にさせられないわ」
キーラは、路上のピロシキ売りやブリヌイ売りに目をつけたようだが、何を思ったのか小さな路地に入りこんだ。ユリウスがキーラに追いつくと、嫌な予感がした。ただでさえ薄暗いのに、そこは廃(すた)れた建物が並ぶ物騒な区域だった。
「ここは危ないわ。早く戻りましょう」
そう言ったとたん、案の定、ユリウスたちの前にがらの悪い二人組が立ちふさがった。ブランシュが珍しく力いっぱい吠えかかったが、男たちは少し驚いただけだ。
「うるせえ、この犬ころ」
一人の男がわめくと、続けてもう一人の男が何か言った。ブランシュが負けずに力いっぱい吠え続けるので、よく聞き取れなかったが、金目(かねめ)のものと外套をよこせ、と言っているようだった。外套には上質の毛皮があしらわれている。さらに、カシミア生地のきれいな色あいは、白に近い希少な原毛でしか出せないものだ。
男たちが、じりじりとユリウスたちのほうに近寄って来た。ユリウスはキーラを守るようにして自分の背後に押しやった。
「待ってちょうだい。手持ちのおカネは全部出すから」
ユリウスは、相手をにらみつけながら言うと、ポケットに手をつっこんだ。すると、男の一人が、おかしなまねはするな、と声を荒らげて、ユリウスの腕をつかもうとした。しかし、ユリウスはとっさによけ、外見からは想像もできないような悪態をついた。吠え続けるブランシュにも負けない大声でだ。
「触るな! ほら、カネだ」
ユリウスは、ポケットから取り出した硬貨を男の顔に力いっぱい投げつけて、相手がひるんだすきに、キーラの腕をつかんで走り出した。
「いてえ! この女」
ユリウスが硬貨を投げつけた男に追いつかれそうになったときに、別の男の大声が聞こえた。
「この女に手を出すな」
どこかで聞き覚えのある声だ。そこに護衛のイリューシンの声が加わった。
「手を上げろ! 撃つぞ」
二人組にイリューシンの銃口が向けられている。ユリウスはキーラをかばうようにして、イリューシンの背後に回り込んだ。聞き覚えのある声の主も銃をかまえているのが、ちらりと見えた。男二人に銃を向けられて、悪党たちは観念したのか、さっと姿をくらました。逃げ足は速いようだ。

助けに入った男がユリウスたちのほうを振り返ったときに、ユリウスもイリューシンも驚いて声につまった。が、すぐにそれぞれの口から同じ名前が出た。
「シロコフ!」
「シロコフ!」
シロコフは、ユリウスが失踪したときに解雇された警備の男だ。ますますやくざ者のような風体(ふうてい)になっている。聞けば、最近は、どこぞの羽振りのいい男の目にとまって、用心棒のような仕事をしているという。こんな男を雇うなんて、雇い主はまともじゃない、とユリウスは心のなかで思ったが、窮地から助けてくれた恩人だ。
「ありがとう、助かったわ」
ユリウスは馬車のなかから手さげを取り出して、紙幣を何枚かシロコフに渡した。
「ありがとうよ」
そう言ってシロコフはもらうものをもらうと、すっとその場を去った。
その日のキーラは、父親からも叱られてさんざんだった。
「だって、だれかが、おいで、おいでって」
キーラは泣きながら弁解したが、だからといって、おいそれとついて行ってはいけない、と厳しく言い含められた。決して路地裏には入ってはいけないとも。ブランシュが吠えなかったら、護衛が見つけるのがもっと遅れただろう。
*
数日後には、レオニードの父親がモスクワ知事を解任され、侯爵邸に来る予定だった。厳格で古い道徳観を持つレオニードの父親は、キーラを孫となかなか認めなかったが、たまたまキーラと対面してからというもの、一変して好々爺(こうこうや)となった。だが、ユリウスとは、偶然に会うことはなかったし、会おうともしなかった。
「若さま、たいへんでございます。だんなさまが、ああ、だんなさまが」
めったに取り乱すことのない執事が、血相を変えている。
「お父上様が、何者かに」
狙撃(そげき)されたらしい。
庭でキーラとミハイル、それにブランシュと遊んでいたユリウスのもとに、ボリスが同じことを告げに来た。ユリウスは、キーラたちをボリスに任せ、レオニードのいる書斎に向かった。
レオニードは拳で書斎の壁を叩いていた。そんな彼にユリウスが後ろから抱きつくと、レオニードは振り返ってユリウスを痛いほどの力で抱きしめた。人の心を見透(みす)かすような彼の瞳には涙がたまっている。
――この人が泣くなんて
いつもあんなに毅然(きぜん)として動じることのなかった彼が、たくましく大きな肩を震わせている。ユリウスがこれほどまでに感情を乱した彼を見るのは初めてだった。
ユリウスは、レオニードの背中をさすりながら彼の気持ちを受け止めようとした。悲しみ、怒り、無念。しかし、レオニードがいつもの彼に戻るのに、さほど時間はかからなかった。
「もう行ってくれ」
「でも、あなたを一人にしておけないわ」
「心配をかけてすまなかった。だが、一人になりたいのだ」
「分かったわ。でも、忘れないで。あなたの力になりたいの」
ユリウスはレオニードにキスをして書斎を出た。ドアの外では、キーラが見慣れない毛皮を持って待っていた。
「これ、おちていたの」
ドアから少し離れたところに落ちていたそうだ。淡い色目のブルーフォックスのショールで、しっとりやわらかで弾力と光沢があり、毛なみのそろった逸品だ。
そこから香るのは、イギリスの王族も愛用する有名な香水のもので、ヴェーラの香りではなかった。ユスーポフ家でこの香りをまとう可能性があるのは一人。
――アデール夫人が、ここに?
モスクワ知事の埋葬式が厳かに執り行われた。祈祷(きとう)書と聖歌が交互によまれ歌われ、司祭が香炉を振りながら棺のまわりを歩き、聖書らしきぶ厚い書物を開いて読んで閉じて、と延々と儀式が続く。参祷(さんとう)者はかたい床に起立したままだ。ユリウスも疲れたが、ヴェーラの隣にいる幼いキーラは、もうぐずりそうだった。
棺から最も近い位置に侯爵夫妻、リュドミール、ヴェーラとキーラがろうそくを手に持って並んでいる。レオニードは直立不動のままだ。ヴェーラは涙で顔がぐしゃぐしゃだ。リュドミールもつらそうな顔をしていた。
正式な家族ではないユリウスは、少し離れた場所でろうそくを持って立っていた。
家族。ユリウスの胸が苦しくなる。レオニードの家族が集まるときはいつもそうだ。ユリウスには一線を越えられない。だが、キーラはそこに入るのが認められた。それでいい、とユリウスは自分に言い聞かせた。