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 キーラのうたた寝につきあっていたブランシュが、耳をぴくりと動かした。そして、すぐに頭を上げて少し考える仕草をした後、勢いよく玄関に向かった。

 

 そのせいで、隣でうとうとしていたキーラは目が覚めた。ぽかんとしたのもつかの間で、それが何を意味するのかを理解すると、遅れまいとブランシュの後に続いた。その様子を微笑して見ていたユリウスも、編みかけの小さなケープを机の上に置いてソファから立ち上がった。

 

「おとうさま!」

 

 キーラが玄関に到着したときには、とうにブランシュはレオニードの足元で後ろ足で立っていた。レオニードは足に飛びつこうとする娘を抱き上げて、お決まりの言葉をかけた。

 

「今日も可愛いな、キーラ。お母さまの言うことを聞いているか」

 

 キーラもいつものように、うん、と元気よく答えると、キャッキャッとはしゃぎながら、いつものおねだりをした。娘に弱いレオニードは、小さな体を高く持ち上げて回った。

 

 レオニードがこの館を訪れると、ブランシュ、キーラの順で大歓迎を受ける。お出迎えの最後を飾るのは、館の女主人だ。ユリウスが優雅に階段をおりてきた。おてんば娘のワンピースと同じ生地であつらえた服に身を包んでいる。おそらくパリにいるロドニナが母娘のために選んだ生地だろう。おそろいの花柄の服を着た母娘の姿は、見る者の世界を美しく彩り、心をなごませる。

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「キーラ、あなたは、お父さまに大切にされて本当に幸せよ。でも、少しあまえ過ぎかもしれないわね」

 

 ユリウスはやわらかな笑顔を浮かべ、レオニードにキスをしてから、あまえっ子の鼻を指でつついて言った。

 

 レオニードが娘をおろすと、今度はユリウスの腰を高く持ち上げた。突然のことに、ユリウスは、きゃっと小さな悲鳴を上げた。

 

「さすがに重いな。もっともキーラぐらいの軽さでは問題だが」

 

 こんなふうに抱き上げられたことのないユリウスは、笑い声を立てて言った。


「ふふふ。キーラが楽しみにしている気持ちが分かったわ。これからは、わたしもおねだりしてみようかしら」

 

 レオニードはユリウスをおろし、娘に聞こえないようにささやいた。

 

「寝室でなら」

 

「キーラ、約束のプレゼントだ」

 

 真珠と小さなキャンディーのような赤や青、緑の飾りの付いたネックレスが、キーラの首にかけられた。以前、ユリウスにネックレスが贈られるのを見たキーラが、ひどくうらやましがったので、レオニードがキーラにもプレゼントする約束をしたのだ。

 

 けれども、ユリウスは、幼い娘に与えられたものが、ガラス玉ではないと知ると、大はしゃぎの娘を横目に複雑な気持ちになった。レオニードはキーラにあま過ぎる。キーラがどんなわがままを言おうと、いいではないか、で済ませてしまう。レオニードの言い分はこうだ。

 

「大切な娘の願いを叶えることの、どこが問題なのだ? これからも、可能な限り叶えてやるつもりだ」

 

 ユリウスもキーラの願いは叶えてやりたいと思うのだが、どこか釈然としない。そんなユリウスにもプレゼントが待っていた。

 

「ユリウス、おまえの望むこともだ。これは、キーラをこの世に送り出してくれた母親にだ」

 

 そう言って、キーラのネックレスとおそろいの髪飾りを取り出した。レオニードは何かと理由をつけて、ユリウスにジュエリーを贈る。ユリウスは、その気持ちが嬉しくて、大きく喜んで髪に飾ってみせた。レオニードと会えることが最高の喜びだ、と伝えるのも忘れなかったが。

 

 思い返せば、レオニードは弟妹にもあまかった。信頼し放任してきたともいえる。ヴェーラの結婚についても、彼女の意思を尊重しているようだ。

 

 ユリウスは思い切ってヴェーラに尋ねたことがある。自分の子どもは欲しくないのかと。ヴェーラは小さく笑って、弟のリュドミールは手に負えないほどわんぱくになってきたし、おてんばで可愛い姪もできたので十分だ、と言うのだった。それに、キーラに弟か妹ができることも期待しているようだ。

 

 ヴェーラは、まだ心の傷を抱きしめている。なかなか気持ちの切り替えができないようだ。

 

 いっぽう、ユリウスは失恋を受け入れ、窓の伝説に固執するのをやめた。だからこそ、新しい扉が開いたのだと思う。その結果、すばらしい宝物を手に入れた。愛する人たちに囲まれ、これまでにない幸福を感じている。そうなると苦い過去も懐かしい物語となった。何かを手放さなければ次に進めない、とカティアもよく言ったものだ。

 

 ヴェーラの執着はこんな言葉に表れていた。

 

「あなたがユスーポフ家に来て間もないときから、兄はあなたに惹かれていたようだったわ。兄には、あなたが誰だろうと関係ないのよ。わたしもそんなふうに愛されたいと夢見たこともあったわ。でも、それは叶わないと悟ったの」

 

 この言葉に対してユリウスは思うこともあったが、ヴェーラの心には踏み込まずに、レオニードのことを話題にした。

 

「ユスーポフ邸に来たころから? あのころの彼の行動からは想像もできないわ」

 

 ユリウスは、当時の彼の冷ややかであざけるような態度を、笑いながら話した。

 

「それは、あなたを敵だと認識していたからよ。それに、兄ときたら」

 

 ヴェーラは吹き出しそうになるのをこらえながら言った。

 

「まるで子どもだったわ」

 

 ヴェーラに言わせると、当時のレオニードの行動は、好きな女の子に素直になれず、いじわるをして気を引こうとする不器用な男の子と同じで、こっけいでさえあったそうだ。そして、いまやレオニードはユリウスにぞっこんだと言う。

 

 ユリウスがもうレオニードには素性が知られていることを話すと、ヴェーラは、きっぱりと、兄にとってはユリウスの身元など関係ないと言った。

 

 レオニードは、ユリウスの素性を知っているどころか、一人では背負いきれなかった過去のすべてを受け止めてくれた。そのとき、ユリウスは自身の存在が受け入れられた感じがした。そのうえ、彼は、このうえなくユリウスをあまやかしてくれる。彼のユリウスに対する優しさに偽りはないと思う。だから、ユリウスもレオニードを理解し受け入れようと思っている。

 

 レオニードは、血を分けた家族以外の者が彼に求めるものをヴェーラ以上に十分に承知している。彼が身内にあまいのは、家族の間には無条件の愛がいくばくか存在するからだ。そんな彼に何ができるのだろうか、とユリウスは自問することがある。

 

 ユリウスがレオニードの腕に抱かれるようになったのは、寂しかったからだ。彼の胸のなかでは安心できた。いつだったか彼が言ったとおり、二人の間には強い絆があるのも感じる。だが、その絆をどうするかは当人たち次第だとユリウスは思う。

 

 ユリウスは彼の孤独さに触れたときのことを、ときどき思い出す。たくましくて大きな背中が、そびえ立つ山のようだったこと。それが、とても愛おしく大切に感じられたこと。その背中にユリウスとキーラは守られている。ユリウスもまた、その愛しい者たちを守り支え、幸せにしたいと思う。

 

 とりわけキーラを守るためなら、自分はどうなってもいいとさえ思う。ドイツでも、子どものために盲目的になる母親たちを見てきた。母親とはそういうものなのかもしれない。

 

 そんなことを思うとき、母レナーテのことが脳裏に浮かび、ユリウスを混乱させる。レナーテは、元来お人好しで優しい性分なのに、残酷にもユリウスを男として育てたあげく、かけた梯子をはずすようにして、伝説の窓で出会った男と先に逝ってしまった。

 

 ――母さま、わたしはあなたにとって何だったのです?

 

 ユリウスは、キーラを見捨てることは絶対にしないつもりだし、できないと思っている。

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