ユリウスの肖像
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「ユスーポフ侯が連れていらっしゃる美しい女性はどなたかしら」
ユスーポフ侯爵の腕を飾っている金髪の女性は、劇場で社交を楽しんでいる上流階級の目を引いた。
翡翠色のリボンを編み込んだ髪には、おそろしく高価な、緑がかった黒真珠が飾られている。まとっているドレスは、ハイウエストでゆったりとしたポール・ポワレ風だ。ベージュのワンピースに重ねられた翡翠色のチュールのオーバードレスには、ビーズと金糸で花の刺繍が施され、帯風のサッシュベルトは、ぱっくりと開いた背中で結ばれている。装いも魅力的だが、何よりも人を惹きつける宝石のような瞳と笑顔がすばらしい。
「ユスーポフ侯は奥方様とうまくいっていらっしゃらないから、もしかしたら」
女性たちが噂した。
「ご存知ありませんでした? ユスーポフ侯には、すでにお子様がいらっしゃるっていう噂ですわよ」
「では、あの女性が?」
ユリウスにとっては久々のオペラ鑑賞だ。以前にもレオニードが劇場に連れ出してくれたことはあったが、そのときは彼の都合で開演ぎりぎりに到着し、幕がおりると真っ先に劇場を後にした。キーラがお留守番をしていたからだ。今夜は、キーラは侯爵邸にお泊まりだ。
今回、余裕を持って劇場に着いたら、ユリウスは値踏ぶみするような視線とささやき声に囲まれた。次第に視線と話し声が近くなり、みるみるうちにレオニードの前に年上の奥様方が集まった。
「隣の美しい方を紹介してくださらないの、レオニード?」
「そんな顔をなさってもだめよ」
ユリウスは、ユリア・スミルノワとして、本心からの笑顔で言葉を交わした。レオニードが年上の奥様方に親しまれている様子が、ユリウスには、おかしくもあり嬉しくもあったからだ。女性たちのあたりさわりのない言葉には、探るような意図が感じられた。だが、まるで小さなバラのように可愛らしく優雅なユリウスの立ち居振る舞いは、悪くない印象を彼女たちに与えたようだ。

そろそろ開演だというときに、ユリウスは同年代の上品な女性に呼び止められた。どこかで会った記憶がある。
「わたくしのこと、覚えていらっしゃる?」
ユリウスがとまどっていると、彼女はまわりを気にしながら声を潜(ひそ)めて話し始めた。
「わたくしたちが、アレクセイのために動くべきときが来たわ。彼はいまシベリアの監獄にいるの」
思い出した。アナスタシア。アレクセイ・ミハイロフの幼なじみにして、十年以上も彼を恋い慕ってきた女性。ヴェーラの友人でもある。彼女は続けた。
「手を貸して欲しいの」
ユリウスがユスーポフ家に閉じ込められて間もないころ、どういうわけか彼女が現れ、お互いのアレクセイの思い出を語りあったことがある。だが、それは、ユリウスにとっては、屋敷から逃亡するチャンスでもあった。だから、名門公爵家の令嬢のアナスタシアを人質にして逃亡を図った。そのときに、彼女は、アレクセイが逮捕されたときに助けられるのは、わたしたちしかいない、だからユリウスに侯爵家に戻るようにと訴えた。その助けるときが到来したようだ。
ユリウスは動揺した。監獄にいるアレクセイのために動くということは、脱獄を手伝うということに違いない。
ほんの数秒のことだったが、ユリウスが答えにつまっていると、アナスタシアの体がびくりと動いた。レオニードが、いつのまにか割り込んでいたのだ。
「失礼、ストラーホフ伯爵夫人。ユリウス、来なさい。開演だ」
オペラの幕が上がってからも、ユリウスは落ち着かなかった。クラウスのことが思い出され、頭から離れなかったのだ。初めての出会い、けんか、ボート、カーニバル。彼のからかいの言葉と寂しそうな姿。胸のときめき。甘酸っぱい思い。ミュンヘンで置き去りにされたこと。そして、ここペテルスブルクでの非情な再会。
ユリウスのせいで彼の帰国が知られ、そのために捕まったのだから、何か償いをしたいとは思う。そうでなくても、知っている人がつらい目にあっているのなら、助けようとするのが人情だ。
ユリウスは波立つ心をしずめようと、レオニードの横顔を見た。彼の目は、何事もなかったかのように舞台のほうに向けられていた。
これまでレオニードとともに過ごした時間も、負けずにユリウスの心からあふれ出す。
アレクセイの脱獄に加担することは、レオニードへの裏切り行為ではないだろうか。レオニードは、ユリウスのすべてを知り、受け止めてくれた。いまやレオニードは、ユリウスにとっての住みかのような存在だ。その彼を裏切るなんてできない。ましてやキーラはどうなるのかと思う。
ふと何かが引っかかった。
――ストラーホフ伯爵夫人?
アナスタシアは結婚したのだ。アレクセイの脱獄を謀るほど、まだ彼に想いを寄せているのに、なぜ彼女は結婚したのだろう。ユリウスは記憶のなかの彼女の言葉をたぐり寄せた。
「疑惑を持たれないように、細心の注意をはらいながら機会が訪れるのを待って、そして、そのときが来たら、手を貸してちょうだい」
アナスタシアは、アレクセイへの思いを隠すために、結婚したのかもしれない。そうであるならば、同様にユリウスも疑惑をそらす目的でユスーポフ侯爵と関係を築いた、と彼女が誤解した可能性もある。
舞台の幕がおり、レオニードの知りあいたちと軽く歓談し、なんとかやり過ごして外に出た。
「スミルノフ嬢の馬車はどうぞ」
係に誘導された馬車にレオニードとともに乗り込んだ。馬車のなかで、ユリウスはずっとレオニードの肩にもたれかかっていた。彼を感じながら心をしずめたかったのだ。
*
館に到着するやいなや、ユリウスはレオニードに襲いかかるように求めた。
――お願い、すべてを忘れさせて
レオニードもまた、いつにもまして猛然と攻めてきた。
ぐったりとレオニードに寄りかかったユリウスに、レオニードが淡々とした口調で尋ねた。
「ストラーホフ伯爵夫人とは連絡を取りあっているのか」
ユリウスは首を横に振った。
「突然声をかけられて驚いたわ。伯爵夫人となられたことさえ知らなかったもの」
ユリウスは、アナスタシアの伴侶のストラーホフ伯爵について尋ねた。
ストラーホフ伯爵は、アナスタシアにバイオリンを教えたバイオリニストだそうだ。出自は貴族ではなく資産家だが、かつてライバル関係にあったアレクセイの兄、ドミートリィ・ミハイロフの反逆の証拠をつかみ、その功績により爵位を手に入れたという。レオニードの見解では、競争相手を消したかったのだろう、ということだった。
そういえば、音楽家の世界がいかに汚いものか、とクラウスが憤り嘆いたことがあった。
だが、ユリウスは、ますます混乱した。アナスタシアは、愛するアレクセイの仇ともいえる男と結婚したのだ。復讐するつもりなのだろうか。数年前のアナスタシアの落ち着きはらった態度も、ユリウスの理解を超えていたが、アレクセイへの愛ゆえに、そんな男と結婚までした彼女の謀略と忍耐力に驚かずにはいられない。
いっぽうで、アナスタシアの行動には、どこか腑に落ちないものを感じる。一つの愛を貫くために、愛を偽るなんて。ヴェーラを苦しめたエフレムを彷彿(ほうふつ)とさせる。ただ、その伯爵は、腹黒い男のようなので自業自得なのかもしれないが。それに、復讐はもうたくさんだ。ユリウスはこれ以上考えたくなかった。
「お願い、もう一度」
ユリウスが言うと同時に、再びレオニードがおおいかぶさってきた。ユリウスは必死に彼に背中にしがみつき、彼の息づかい、彼の体温、彼のエネルギー、彼のすべてを全身で感じ、彼のすべてで全身を満たそうと、力尽きるまで求めた。
