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 レオニードとユリウスが、ゆりかごのなかの赤ちゃんをのぞき込んでいた。ブランシュの毛で編んだブランケットから小さな手がはみ出している。軽く握った両手が丸くて可愛らしい。眠っているのに、急ににやっと笑ったり、全身を使ってあくびをしたりする。そんな我が子の姿はいくら見ても見飽きない。

 

 赤ちゃんはキーラと名づけられ、ヴェーラが代母となって洗礼も受けた。キーラが寝ているゆりかごは、レオニードの母親のときからユスーポフ侯爵家の子どもたちに使われてきたものだ。我が子もそのゆりかごに揺られている様子を見て、ユリウスの胸はいっぱいになるのだった。

 

 ブランシュがキーラに初めて対面したときの興奮ぶりときたら、たいへんなものだった。以来、キーラが眠っているときは、ゆりかごの隣に陣取り、両親の腕に抱かれているときは両親の足元にまとわりつく。ブランシュは、キーラの子守り役のつもりのようだ。

 

 キーラが泣き出したときは、ブランシュは少しの間おろおろしたが、やがて泣き声にあわせて、オオーンと遠吠えを始めたので、館中の笑いを誘い、たまたま訪れていたレオニードまでもが笑い出す始末だった。

 

 キーラがはいはいをし始めたら、行くところ行くところをブランシュが心配そうについて回る。キーラが白い毛を引っ張っても、ブランシュは動じない。たくさん動き回った後には、ブランシュがふかふかの背中をキーラに提供し、キーラがうとうとし始める。

 

「キーラ、おばさまと遊びましょう」

 

 代母となったヴェーラも、キーラに夢中だ。頻繁に顔を出し、キーラを抱いてあやして、最後にはブランシュにキーラをよろしくねと言って、なごり惜しそうに帰っていく。

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「ギャアー!」

 

 あるとき、ユリウスがキーラから少し目を離したすきに、悲鳴と泣き声が聞こえた。椅子に自力でよじ登ったキーラが、おりるのに失敗したらしい。ブランシュの助けも、まにあわなかったようだ。だが、子どもの能力はたいしたもので、次に椅子に登ったときには、母親とブランシュが見守るなか、器用にも登ったときと逆の動作をして自力でおりた。よじおりたと言っていい。ユリウスは、子どもの学ぶ力を目の当たりにして、いたく感心した。

 

「おりこうさん。よくできたね」

 

 ユリウスはキーラを抱き上げてキスをした。

 

   *

 

 何にでもいやいやと言う時期をどうにかやり過ごしたら、今度はいたずらに手を焼くようになった。

 

 あるとき、ブランシュの毛の一部が薄い赤色になっていた。背を向けていたキーラが振り返ると、その顔には、何とも斬新(ざんしん)な化粧が施されていた。唇は倍以上の大きさになり、頬や目のまわりにもぶかっこうな円が描かれている。ほお紅を持った小さな手は、薄い赤色に染まっている。その手でブランシュに触ったようだ。

 

 ユリウスはその顔を見て、唖然としたが、すぐにおなかからこみあげてくる笑いを抑えきれなくなった。

 

 ――なんて、可愛いんだろう

 

 だが、壁やソファも赤色になっているところを見つけると、そうも言っていられない。ユリウスのお小言が始まった。

 

   *

 

「ヴェーラのおうち!」

 

 キーラが嬉々として言った。自分で靴がはけるようになると、ヴェーラに侯爵邸に連れて行ってもらうのを、楽しみにするようになった。侯爵邸では、オレグが馬と会わせてくれるし、一歳年上のミハイルとも会えるからだ。ミハイルとは、いっしょに庭で枯葉をかぶったり、雪にまみれたりして遊んだ。庭の花を片っぱしからへし折るといういたずらさえした。そんなときは、二人してヴェーラと家政婦に叱られたものだ。ミハイルの両親のアンナとボリスも、いろいろ世話をしてくれる。

 

 だが、キーラが何よりも楽しみにしているのは、父親に会うことだ。屋敷に行けば、運がよければ父親に会えるし、さらに運がよければ、いっしょに馬にも乗せてもらえるのだから。

 

「ブランシュ、おまえまでキーラといっしょに行っちゃうの?」


 キーラのお出かけには、ブランシュもいっしょに馬車に乗り込んで行く。ユリウスは少し悲しそうな声を出してみせた。ブランシュは、少し迷ったようだったが、ユリウスの顔をなめて行ってしまった。それでも、帰って来たら、真っ先にユリウスに飛びついて来るのが憎めないところだ。ブランシュの後に続いて、キーラもユリウスに飛びついて来る。

 

「キーラはヴェーラと出かけたのか」

 

 レオニードは、愛娘に会えないと分かると少し肩を落としたようだったが、小さな子どもに気兼ねする必要がないと分かると、ユリウスの肩を抱いて寝室へと向かった。男女のことが終わり、二人がベッドでくつろいでいるときに、階下でキーラの元気な声と、ペトロワが階上に聞こえるように言うのが聞こえた。

 

「お嬢様、ヴェーラ様、おかえりなさいませ。早かったですね」

 

「うん、けっこんしき! おかあさま、どこ?」

 

 キーラは、ちんぷんかんぷんの言葉を元気に口にして、ぱたぱたと可愛らしい音を立てながら階段を上がった。

 

 ユリウスとレオニードは顔を見あわせた。キーラがいるときでも、機会をうかがって二人で睦みあったものだが、このときは油断していた。すぐさまレオニードは手元にあったガウンを羽織り、ユリウスの部屋の居間へと向かった。

 

「お嬢様、大人の部屋に勝手に入ってはだめだったでしょう?」

 

 ペトロワの大きな声が追いかけたが、キーラには届かなかったようだ。

 

「わあ、おとうさま!」

 

 母親の部屋のドアを開けると父親が現れたので、キーラは大喜びだ。レオニードは、娘の行儀の悪さをごく軽く叱っただけで、キーラを抱き上げ、その頬に何度かキスをすると、宙高く持ち上げ、母親と同じ色の瞳をのぞきこんだ。キーラは、キャッ、キャッと歓声をあげている。

 

「お母さまの言うことを、きちんと聞いているか」

 

 口調は厳しめだが、レオニードの目は笑っている。


「うん。キーラ、おとうさまの、およめさんになる!」

 

「ほう、何があった?」

 

「けっこんしき!」

 

 レオニードは少し考えてから聞いた。

 

「結婚式を見たのか」

 

「うん、きれい!」

 

 ヴェーラと教会に行ったら、ちょうど結婚式が終わったばかりで、そこで見た花嫁の美しさと装いが忘れられないらしい。さすがのレオニードも、娘から結婚を申し込まれてめんくらったが、動揺を見せることなく、キーラの好きな遊びを始めた。キーラを軽く宙に投げ上げるのだ。キーラは、すぐに笑い声を立てて、この遊びに夢中になった。父親は、もう一回、もう一回と娘におねだりされるままに、何度か繰り返した。ブランシュが、二人のまわりを飛び跳ねている。

 

「さあ、もう終わりだ」

 

 部屋着のうえにガウンを羽織ったユリウスが、寝室から出てきたので、レオニードは愛娘の頬に再び口づけて、遊びの終わりを宣言した。

 

「おかあさま、キーラ、おとうさま、けっこんする!」

 

 ユリウスは、キーラに抱きつかれたまま、とっぴょうしもない娘の言葉に目をぱちくりさせた。その様子を見たレオニードが娘を再び抱き上げた。

 

「誰も自分の娘と結婚することはできないのだ。父さまもだ」

 

 幼いキーラには、父親の言うことが分からなかったが、だんだんと自分の願いが叶えられないと理解し始めたようだ。顔をくしゃくしゃにして、どうして、どうして、とつめ寄った。そんな娘を、レオニードは再び高く抱き上げた。

 

「だが、キーラ、父さまは永遠にキーラの父さまだ」

 

「そうよ、キーラはお父さまと深い絆で結ばれているの」

 

 ユリウスはそう言うとレオニードの腕のなかの娘にキスをした。レオニードはユリウスの肩を抱いてその頬にキスをした。

 

「キーラは、強い絆で結ばれた、お母さまとお父さまの宝だ」

 

 ユリウスはレオニードを見上げた。強い絆。その言葉がユリウスの胸に響いた。

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