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「もしかして、以前どこかでお会いしませんでしたか」

 

 そう言って、ユリウスに言い寄ってくる男もいるが、確かにどこかで見たことのある顔だった。三十歳代のまじめな感じの軍人で、いつものように軽くあしらっていい相手ではなさそうだ。

 

 お互いに首をひねっていると、その男性が明るい声を出した。

 

「ユスーポフ侯爵殿の付き添いをされていた方ではありませんか。きれいな方だったので、印象が強かったんですよ」

 

 レオニードの見舞いに来た、あの豪快な中将に従っていた士官だった。休暇でモスクワにいる両親に会いに来ており、その日は妻への贈物を求めに来店したのだという。

 

 ユスーポフ侯爵の付き添いをしていた女性が、香水の売り子をしているのを不思議に思ったらしい。ユリウスに質問を浴びせようとしたが、ユリウスは、結婚のためにモスクワに来たと話しただけだ。嘘ではないが、それ以上は口をつぐんでしまった。

 

 このころ、このまま結婚していいのかユリウスは迷いのなかにいた。

 

 おなかのなかの生命を感じるたびに、愛情が増してくる。この子には、いい人生を歩んで欲しいと切に思う。そのためには父親が必要だ。だが、根が正直なユリウスは、自分がしていることに罪悪感を覚えている。隠すことと嘘をつくことは別だ、とユリウスは自分に言い聞かせたが、世間をあざむいて生きていたころの苦しみが思い出された。

 

 ――それに、もし自分の子ではないことが、相手に知られたら?

 

 ユリウスは、良心との葛藤のすえ、勇気を持って事情を求婚者に話した。もしかしたら、というわずかな期待が叶うこともなく、予想どおり相手は怒り出して破談になったが、困っているユリウスが正直に話したことに配慮して、口外しないでくれるという。

 

   *

 

 幸いにも後遺症もなく回復し軍務に戻ったレオニードは、難攻不落とさえ思われる旧態依然とした軍の改革に着手した。改革のために会議という会議には出席し、話題づくりのために夫人同伴のパーティーにも積極的に出席した。そのうえ、夜のパーティーから帰ったら、アデールの相手をすることになっている。

 

 アデールとは互いの義務について話しあった。アデールのほうも、両親から日頃の行動をたしなめられており、結婚した女性の義務を果たしてから自由を得ようと考えたようだ。

 

 アデールは、ときには舌鋒(ぜっぽう)鋭く相手をやり込めていた夫が泰然と構えるようになったのを、好ましく思っていた。取り巻き の男たちのように、アデールの美しさを礼賛したり、気のきいたお世辞を言ったりすることこそないが、辛辣(しんらつ)な物言いを慎むようになったので、安心してレオニードに同伴できるようになったのだ。

 

 こうして軍制改革のために奔走(ほんそう)していたレオニードには、ユリウスと会う時間は十分になかった。だが、ユリウスのことは常に気にかけていたので、先日は過密な日程をやりくりして会いに行ったのだ。そのユリウスが姿を消したという知らせが入ったのは、その日から数日後のことだった。

 

 レオニードは、急遽、予定していた外出を取りやめて、財務大臣を訪問し、ロストフスキーにはユリウスの捜索を最優先にするように命じた。

 

 ユリウスが療養中のレオニードに献身的だったからといって、油断したつもりはない。警備や家政婦、料理人からは問題ないと報告を受けていた。

 

 レオニードは馬車のなかで、最後に会ったときのユリウスの様子を思い起こし、彼女の言葉を頭のなかで反芻(はんすう)した。

 

「あなたを愛しています。あなたは?」

 

 久しぶりに会ったユリウスのひたむきな態度に、レオニードは自らを抑えられなくなり、その後の予定を変更してまで彼女につきあったのだ。レオニードにしてみれば、それがユリウスの問いに対する答えだった。それにしても、愛していると言っておきながら、自ら離れていくのは理にかなっていない。

 

「行かないで」

 

 そう言った彼女は何を訴えたかったのか。もし行かなかったのならば、別れの言葉はなかったのだろうか。しかし、行かないわけには、いかない。ユリウスもそのくらいのことは理解しているはずだ。レオニードにはユリウスの言葉と行動は不可解だった。

 

 帰宅してから間髪入れずにロドニン夫人を呼んだ。ロドニン夫人も、ユリウスの失踪については心外だったようだ。

 

 神妙な顔つきでレオニードと向きあったロドニン夫人は、意外な話題を振られて驚いたようだった。だが、数時間後、話が終わるころには、彼女はこれまでにないほど緊張感に満ちた面持ちになっていた。

 

 レオニードは、最後にユリウスの行動についての疑念をロドニン夫人に尋ねた。

 

「ご自身で直接お尋ねになるのが、最善の方法だと存じます」

 

 ユリウスの捜索は難航した。

 

 警備担当のシロコフは泥酔していて、ユリウスが館から抜け出したことに気づかなかったそうだ。シロコフについては、ペトロワだけでなく料理人からも不満が上がっていた。料理用の酒まで盗み飲みしたことがあったという。こともあろうか、ユリウスはそれを大目に見ていた。つまり、シロコフの習性を利用した計画的な逃亡だといえる。

 

 ユリウスは普段と変わりなく夕食を済ませ、皆が寝静まったころに館を出たようだ。ユリウスだけでなく、犬まで外に出たことに誰も気づかなかった。もともとあの犬は、やたらと動き回るが、むやみに吠えたりはしないのだ。

 

 移動には身分証が必要となる。以前渡したユリア・スミルノワの身分証を使用しているだろう。加えて、身なりのいい若い女性一人と犬一匹で行動すれば目立つはずだ。しかし、ペテルスブルク市内では、ユリア・スミルノワの身分証が使われた形跡もなく、目撃情報もなかった。ロストフスキーがストラーホフ夫人の周辺も何度も洗い直したが、手掛かりは得られなかった。

 

 シベリア商人や魚売り、行きつけのバーニャの管理人のところへ、ロストフスキーが料理人やペトロワを伴って訪れたが、シベリア商人はシベリアに戻っており、バーニャの管理人も辞めていた。そこで、シベリア商人の本拠地や、バーニャの管理人の出身地まで部下を派遣した。

 

 男を追って単身でロシアに来たユリウスのことだ。シベリア流刑になったその男を探している可能性もある。その男の収監(しゅうかん)先までは知らないはずだが、牢獄付近の地域にも人員を派遣した。

 

 ユリウスに与えた宝石類が持ち出されていたことから、これらを生活の糧に変えるであろうと考え、ペテルスブルクやモスクワの質屋や宝石店をあたらせたが、これも手ごたえがなかった。

 

 ユリウスが失踪して三か月経過したころ、アデールが、夫が一人の女性を執拗に探していることを突き止めた。突然、楽しみにしていた外出をキャンセルされ、不審に思ったのがきっかけだった。それ以来、夫とその腹心の部下の様子を探らせていたようだ。彼女の侍女の偵察能力には驚くばかりだ。

 

 御用達の宝飾店にレオニードが発注した特別仕様のネックレスが、夫人に贈られなかったことが発覚し、プライドを傷つけられたアデールは、恥をかかされたとヒステリックに騒いだ。

 

「あなたが愛人をかこうのなら、わたくしも自由にしてもいいのではなくて?」

 

 夫に愛人がいる妻と、妻を寝取られた夫とでは、どちらが世間の物笑いになるかは明白だ。しかも、正妻にしかできないことがある。だが、アデールはその義務を再び放棄した。

 

 失踪から四か月が経過し、捜索が手詰まりになっていたときだった。サハロフ中将との打ちあわせが終わったときに、ロストフスキーが待機中に中将付の士官から聞いた話を耳打ちした。

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