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 夏も終わり、日に日に空気がひんやりするようになった。

 

 プラトークを頭にかぶったユリウスは、市場で買い物を済ませて、とぼとぼと帰路についていた。アパートの手前まで来たときだ。

 

「おい、ちょっとつきあえよ」

 

 以前、店で言い寄ってきた男だった。ユリウスは、ぷいと顔をそむけて通り過ぎようとしたが、行く手をふさがれてしまった。

 

「気取るなよ。あばずれのくせに」

 

「つきまとわないでよ」

 

 ユリウスが鋭い声をあげたときに、ブランシュがかけ寄って来た。だが、嬉しそうにユリウスのまわりを飛び跳ねるだけで、からんできた男に吠えかかろうともしない。こんなときには、助けにならない犬だ。それにしても、管理人の部屋にいるはずのブランシュが、どうして外にいるのだろう。

 

「いやがっている女性に、何をしている?」

 

 すごみのある声が近づいてきた。

 

 ――レオニード!

 

 男は声の主を認めると、ほかにも男がいやがったのか、尻軽女が、と舌打ちして姿を消した。

とっさに、ユリウスは逃げ出そうとしたが、安心感と懐かしさと恐怖の感情が入り混じり、脚が凍りついたように動かない。もはや、これまで、と観念して震える声で言った。

 

「わたしを殺しに来たの?」

 

「ほう?」

 

 レオニードは眉を上げて、そう思う理由をユリウスに尋ねた。

 

「逃亡したら、射殺すると言っていたでしょう?」

 

「そこまで覚悟をして出奔(しゅっぽん)したのは、アレクセイ・ミハイロフのためか」

 

 思わぬ問いに、ユリウスは意外な顔をして、首を横に振った。レオニードはユリウスを見つめている。

 

「では、なぜだ」

 

 ユリウスはうつむいた。どうやら自分を殺しに来たのではなさそうだが、どうするつもりなのだろう。

 

 さしあたり、ユリウスは、アパートの前で立ち話はしたくないし、買い物から帰ったばかりなので、少し部屋で休みたいと主張した。アパートの管理人も、部屋からユリウスたちのほうをうかがっているようだ。

 

 古ぼけた椅子に腰かけたユリウスが、頭からプラトークをはずすと、まとめた金髪と形の良い顔の輪郭が現れた。立ったままのレオニードを前にして、ユリウスは肩に羽織ったプラトークを胸の前でぎゅっとかきあわせた。ブランシュは二人の間の緊張感を察知したのか、足元で静かにしている。

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 ペテルスブルクに連れ戻す、と宣告したレオニードに対し、ユリウスは、どうするつもりなのかと力なく聞いた。

 

「おまえの望みは何だ? 望みを叶えてやりたいと思っている」

 

 ユリウスは、はっとしてレオニードを見上げた。予想だにしなかった彼の言葉に、ユリウスの目頭が熱くなった。だが、ユリウスが逃亡したら射殺すること、それが皇帝の命令だったはずだ。ユリウスの頭は混乱した。

 

 ユリウスが欲しかったのは、レオニードだ。けれども、彼は夫人とよりを戻した。ユリウスは自分が侯爵夫人になれるとは思ってはいなかったが、彼に愛されているのならば、あるいは、彼が望むのならば、彼のそばにいようと考えていた。「愛している」という彼の一言があれば、自分が結婚して家庭を持つという望みをあきらめようと思った。だが、その言葉はなかった。

 

 ユリウスは、正直に答えた。

 

「わたしは、普通に結婚して家庭を持ちたいのです」

 

「相手がいるのか」

 

 レオニードの声が鋭くなった。

 

「結婚話はありましたが、破談になりました。引き続き、結婚相手を探したいと思います」

 

 ユリウスは懇願するようにレオニードを見つめた。

 

 レオニードはぎゅっと拳を握った。この数か月間でレオニードが達した結論は、ユリウスの幸福を第一に考えることであった。だから、ユリウスの欲するものは、どんなものでも与える心づもりでいた。しかし、皇帝の姪を妻に持つ身では、ユリウスに妻の座を与えることはできない。レオニードは努めて動揺を抑えた。

 

「本音を言えば、おまえが他の男のものになるのは、認めたくない。だが、おまえが幸福になるのならば、受け入れよう」

 

「わたしが幸福に?」

 

 思いがけない言葉に、ユリウスは目を見開き、そして、いまにも泣き出しそうな顔をした。

 

 レオニードは、ユリウスが他の男に嫁ぐことを口では認めたものの、内心では受け入れられなかった。数か月の間で目の前の女性は一段と美しくなった。肌は輝き、澄んだ青い瞳は深みを増し、美しさに強さが加わった。何が彼女をかくも美しくしたのか。破談になったという男だろうか。そう思うと、その男の首をへし折ってやりたいとさえ思った。

 

 同時に、何か違和感を覚えた。レオニードは、その違和感の理由を見つけようと、ユリウスを注意深く観察した。

 

 ユリウスは、羽織ったプラトークの前を不自然なほどかたく閉じて、まるで体の一部を隠しているかのようだ。歩き方も、どこかぎこちない。足元には、かごが置かれており、市場で調達したと思われる生地が入っている。衣服用ではなさそうだ。レオニードは考えをめぐらせながら、 結婚相手を探すのはペテルスブルクでもできる、ともっともらしく説明した。

 

 レオニードの強い視線を浴びたユリウスは、目をそらし、再びプラトークを胸の前でかきあわせた。

 

 そのユリウスの動作から、レオニードは、寒いのなら火をおこそうと言って、ペチカの火床に薪を入れて火をつけた。

 

「部屋が暖かくなるまで時間がかかるから、火の近くに来なさい」

 

 レオニードはそう言って、ユリウスの手を取って立ち上がらせた。だが、ユリウスは彼の手を拒むように後ずさったために、椅子にぶつかって転びそうになった。即座にレオニードがユリウスの腕をつかんで引き寄せた。そのとき、レオニードの手がユリウスの腹部に触れた。ふくらんでいる。

 

 レオニードは平静心を失いかけたが、できる限り冷静に聞いた。

 

「妊娠しているのか」

 

 ユリウスの肩がびくっと動いた。やはり、そうらしい。レオニードは少し間をおいて、いつ頃生まれるのか探るように尋ねた。自分の子の可能性がある。

 

 二月頃、と少しためらってから答えたユリウスに、レオニードは低い声で問いただした。

 

「私の子ではないのか」

 

 ユリウスの顔色が変わったのを見て、レオニードの顔つきが厳しくなった。

 

「ユリウス、出奔した本当の理由は何だ。私の子を身ごもったまま他の男と結婚するためか」

 

「結婚相手を探すためというのは、本当です。わたしが、あなたの妻になれるとは思ってはいませんから。けれども、妊娠は想定外でした。だから、この子が父なし子にならないように手を打ちたいのです」

 

「子は私が引き取る。そうすれば、父なし子にはなるまい」

 

「わたしの子だわ。わたしからこの子を取りあげるなんて、ひどい人!」

 

 ユリウスの声が高くなった。

 

「おまえこそ、私から子を奪うつもりか。私の子が他の男を父と呼ぶことを認めるつもりはない」

 

 レオニードの声が強圧的になったが、ユリウスも負けてはいなかった。

 

「わたしは、この子を私生児にしたくないのです。あなたは、私生児がどんな目にあうのか知らないんだわ」

 

「私生児というのは侮辱だ。おまえは、私の子を侮辱するのか。私は、目の届くところで私の子を蔑(さげす)む者を、見過ごすつもりはない。たとえ、その母親であってもだ」

 

 レオニードの毅然とした重い声にユリウスは声をつまらせたが、すぐに感情を抑えきれなくなり、泣きながらレオニードの胸を両手で叩き始めた。

 

 ひどい、この子を侮辱してなんかいない、心配しているだけ、と涙声で繰り返すユリウスを、レオニードはきつく抱きしめた。

 

「私は、おまえを手放したくない。おまえたちは私が守る」

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