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 モスクワの空は、突き抜けるように青い。窓から見える雲一つない空とはうらはらに、ユリウスの心はどんよりとしていた。

 

 一か月ほど前に、ユリウスはここモスクワにブランシュを連れてやって来た。

 

 市場で懇意(こんい)になったシベリア商人は、モスクワの商売に力を入れているので、モスクワ事情に明るい。バーニャの管理人はモスクワの出身だった。ユリウスは、木箱に密かに貯めていた貨幣を使い、彼らの力を借りたのだった。

 

 モスクワは、ペテルスブルクとはずいぶん雰囲気が違う。シベリア商人は、ユリウスがアジア的な空気に慣れないだろうと思ったのか、ヨーロッパ人客の多い高級ホテルで仕事をしてはどうか、と提案してくれた。

 

 ユリウスは、運よくあるホテルのロビーやレストランでピアノ演奏をすることになったが、からんできた客に酒をかけたために、わずか三日で追い出されてしまった。そのため、レオニードからもらった宝飾品のうち目立たないものを売って、しばらくの間の生活の糧を得た。

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 住居は、バーニャの管理人に手配してもらった。織物や香水などの企業があり、フランス系住民の多い地域にある。住まいからそう遠くない石けん工場で求人があったので、応募したところ、ユリウスは店舗で香水の販売をすることになった。上流社会に販路を拡大しようとしていた会社にとって、ユリウスの上品な身のこなしは、うってつけだったようだ。

 

 年頃の女性の一人暮らしは、奇異の目で見られるものだ。だから、両親と死別し、勤めていたお屋敷でひどいいじめにあって逃げて来た、と会社やアパートの人たちには説明した。使用人に対するいじめは、実際によく耳にしていた。

 

 ブランシュといっしょとはいえ、初めての一人暮らしは心細いこともあったが、もとより好奇心旺盛なユリウスにとっては、新しい環境や仕事、これから始まる人生にわくわくしていた。ときおり、力強い腕や厚い胸、落ち着いた黒い瞳を思い出しては、涙することもあったが、そんなときは、ブランシュと遊んだりして気をまぎらわせた。

 

 一か月ほどして仕事に慣れてきたころだった。胸がむかむかして、食欲がなくなり、吐き気がした。同僚の女性が、ひょっとしたら、つわりではないか、と困ったように言った。未婚の女性の妊娠は、きわめて不道徳なことだ。

 

 ――どうしたらいいの?

 

 ユリウスは途方にくれた。それまで何もなかったのに、よりによって新しい生活を始めてから子どもができるとは。母子家庭で育ったユリウスには、女手一つで子を育てる苦労を知っていた。でも、それは子の立場での理解で、ここにきて、母親があのニセ医者にすがった気持ちが、身をもって分かった。

 

 ――母さまも、たった一人で、こんなに心細い思いをしたの?

 

 困惑しながら空を眺めていたときに、生まれた赤ちゃんをユスーポフ侯爵家の門前に置いたら、レオニードが使用人としてめんどうを見てくれるかもしれないという考えが、頭をよぎった。ユリウスがメモを残せば、筆跡で分かるだろう。ヴェーラも言っていたように、彼は根は優しい人なのだ。

 

 そのとき、頭のなかで懐かしい声が響いた。

 

「旦那様がおかわいそうです」

 

 どこかで聞いたことのある言葉だった。

 

「わたしなんかをひろって、育ててくださったのに、本当はお優しい方なのに」

 

 ――ゲルトルート?!

 

 アーレンスマイヤ家の使用人だったゲルトルートは、赤ちゃんのときに屋敷の裏口に捨てられていたそうだ。そのゲルトルートとユリウスは年齢が近い。

 

 ――もしかしたら、父さまは、ゲルトルートをわたしだと思って、ひろって育てたのでは?

 

 ユリウスの父親は、ゲルトルートを愛人だったレナーテが産んだ子だと思ったのかもしれない。だが、レナーテの子だという確証もないため、使用人として引き取った可能性もある。髪の色や、顔立ちが違うことが分かっても、レナーテと自分の子の代わりのように思ったのかもしれない。

 

 ユリウスは、生まれる前から父親に捨てられたと思っていたが、それは真実ではなかったのかもしれない。もし、ユリウスがゲルトルートと同じように捨てられていたら、父親はかつての愛人と自身に似たユリウスを可愛がった可能性もある。たとえ、二人の娘の手前、使用人にしたとしても。

 

 しかし、その父親はもうこの世にはいない。真実を確かめるすべもない。だが、不思議なことに、ユリウスの胸に温かいものがこみあげ、生まれて初めて父親の愛を感じたような気がする。頬に涙が伝わり、むせび泣いた。

 

 ――わたしは、愛されていた?

 

   *

 

 ユリウスは妊娠を隠しながら香水売り場での仕事を続けた。体調の悪いときには、うまく言って休ませてもらい、妊娠に気づいた店員には、ちょっとした便宜(べんぎ)を図って協力してもらっている。

 

 仕事は必ずしも楽ではないが、最高の香水をつくろうとする調香師たちの熱意に触れ、ユリウスは心を動かされた。ある化学物質を使って香料の力をさらに発揮させようと、試行錯誤を繰り返している。ひたむきに取り組む彼らの姿を見たユリウスは、できる限り力になりたいと思った。

 

 もとよりユリウスはこの会社の香水を使っていたし、石けんも雑誌で見て知っていた。カティアも、上流階級が愛用する外国製の香水ではなく、この会社とそのライバル社のものを勧めてくれた。これらの石けんや香水をフランスで売り込む手伝いをしたときに、製品のよさを知ったのだという。

 

 香水売り場で、調香師たちの思いを伝え、製品のすばらしさを楽しそうに顧客に語り、いきいきと懸命に働くユリウスの姿は注目を引いた。妊婦独自の美しさも手伝ったのだろう。

 

 モスクワに来て四か月ほど経過したころだった。なんと会社経営をしている中年の男性から、結婚を申し込まれたのだ。娘や息子へ贈る香水選びを手伝ったことがきっかけだった。娘より少しばかり年上の女性に、結婚を申し込むことに照れながらも、ユリウスの美しさや気立てのよさなどをほめあげて、ぜひにということだった。

 

 ユリウスは前向きに考えた。彼に対する情熱的な思いこそなかったが、資産もそこそこあり、彼とその子どもたちの評判もまあまあだった。条件としては悪くない。愛もなく結婚した夫婦が、ともに生活するうちに愛情を育んだ話をカティアから聞いたことがあったので、なんとかやっていけるだろうと思った。何よりも、ユリウスには結婚を急ぐべき理由があった。おなかの子を父なし子にしてはならないのだ。

 

 初めは、ユリウスは、妊娠にとまどったものの、やがて、おなかの子が愛しくなり、手放すなんてとんでもないと思うようになっていた。いっぽうで、子どもには自分と同じ思いをさせたくはない。とはいえ、そのためにできることは限られている。

 

 店にいると、様々な噂が耳に入ってくる。月足らずの子どもが生まれた話や、子どもが父親と似ても似つかないという類の話もだ。だから、罪の意識を感じつつも、そう考えるのは自分に限ったことではない、と自らに言い聞かせた。

 

 何よりもユリウスは家族が欲しかった。レオニードとの関係を断ち、あの館を出る決意をしたのは、未来の家族を見つけるためだった。レオニードの胸に飛び込んだのは、寂しくて、孤独に耐えられなかったからだ。寄る辺ない心細さから、刹那(せつな)的に逃れるためだったのだ。

 

 だが、ユリウスは心が真に欲するものに気づいた。アンナの赤ちゃんを抱っこしたときの、あの温かみ。ユスーポフ兄弟たちの絆。それこそが、ユリウスが求めていたものだった。

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