ユリウスの肖像
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自室に戻ったユリウスは、倒れ込むようにソファに腰かけて一人つぶやいた。
「レオニード、そばにいて」
カティアは、以前、男性は大空を飛びはばたく鳥なのだと言っていた。特にレオニードのような有能で有用な男は、広い空が必要なのだ。かごに閉じ込められたら、存在の意味を失い、生ける屍(しかばね)となるだろう。
――違う、気になるのは奥方のことだ
カティアの話のなかで、不仲だった夫婦が、妻の態度が変わってから円満になったという話があった。
――もし彼女が自分の本当の気持ちに気づき、彼を受け入れ、彼も彼女に歩み寄ったら?
ユリウスは震えおののいた。
――わたしは捨てられる
なんといっても彼らは神と法に認められた夫婦なのだ。
レオニードには、聞きたいことが山ほどある。
――アデール夫人とは、どういう経緯で結婚したの? プロポーズの言葉は?
しかし、ユリウスが本当に知りたいことは、尋ねてはいけないように思えた。いや、答えを聞くのが怖いのだ。
――夫人を愛している? もし彼女があなたを愛していると知ったら、あなたはどうするの?
日頃の夫人の言動からは、彼女が夫を愛しているなどとは、レオニードは想像だにしないだろう。
ユリウスにとっての救いは、最後に一目会いたかったと言ったレオニードの言葉だった。とはいえ、ユリウスの胸には不安が渦巻(うずま)いている。
ユリウスが鬱々としているところに、オレグがブランシュをかかえてやって来た。ブランシュは、興奮してばたばた動き出し、ついにはオレグの腕からこぼれ出て、ユリウスの膝の上に飛び乗った。
「重いよ、ブランシュ」
もうすっかり成犬のブランシュはけっこうな大きさだ。ユリウスの顔をめがけてべろべろなめてくる。ユリウスは涙顔に驚きの表情を浮かべて、オレグに何があったのか尋ねた。
「寂しそうにしていたんで、家政婦さんの承諾をもらって、連れて来たんです。昼間は外で遊ばせて、夜は部屋のなかに入れてやってください。旦那様も反対なさらないと思いますんで」
ユリウスの館では、日がな一日、ユリウスのそばにいたのだから、ユリウスが恋しくて仕方がなかったのだろう。以後、夕方にオレグが厩舎から連れて来てくれることになった。ユリウスは、退出するオレグに礼を言って、ブランシュのほうを不思議そうに見た。
「わたしが落ちこんでいると、ブランシュにも伝わるの?」
*
リュドミールが兄の部屋に来ると、その場にいあわせたユリウスといっしょに、チェスやカードゲームをするようにもなった。
「チェックメイト」
リュドミールが歓声をあげ、ユリウスが両手を上げると、対戦の様子を静かに見ていた兄が言った。
「ユリウス、手加減しただろう? 動きが不自然だった」
ユリウスは、リュドミールの連敗を見かねて、ときには勝たせてあげようと思ったのだが、手加減されたほうのリュドミールは、弱者扱いされ、義理で勝たせてもらったのが、どうやら不満のようだ。
「そんなのずるいよ。もう一度」
そこで、再度勝負することになったが、今度は、これまで口を出さなかった兄の助言付きだ。ユリウスは天を仰いだ。レオニード相手に戦うようなものだ。勝てる見込みは薄いだろう。
「リュドミール、対戦する前には、大まかな作戦を立てておくものだ」
「おまえの動きをユリウスはどう読んでいるか、考えるんだ。その次はどうだ?」
「最終目的を意識しろ。目先の利益に惑わされるな」
レオニードは、初めは細かい口出しをすることなく、どのように考えるべきかヒントを出すだけだったが、終盤にリュドミールに何かささやくと、苦戦していたユリウスは、さらに追いつめられ、ついには降参した。今度は手加減なしの敗北だ。
リュドミールが小おどりしているときに、ヴェーラが入って来た。
「まあ、楽しそうですこと」
「姉さまもいっしょに入って」
「そうね、三人そろうのは久しぶりですものね」
ユスーポフ家の兄弟たちは仲がいい。お互いを尊敬する気持ちと程よい距離感が、そこにはあった。
リュドミールが来ると、兄弟でゲームをすることもあるが、兄からロシアやユスーポフ家の歴史を聞いたり、兵法を学んだりすることのほうが多い。教師たちでは教えられない内容だ。レオニードたちが、自分たちの国と家系に誇りと愛着を持っていることが、ひしひしとユリウスに伝わってくる。
レオニードは、リュドミールに説明させ、間違えたときには、矛盾点を指摘した。そして、レオニード自身の経験や、代々の侯爵から語り継がれた武勇伝や人物評などを交えてコメントする。レオニードもまた、彼を可愛がり教育を施した先代の侯爵から学んだという。
そんな兄弟の問答を聞いていると、ユリウスとの違いがあぶり出されるようだった。彼我(ひが)の違いを知ることで、これまで見えなかったものが見えてくる。
アーレンスマイヤ家が由緒ある古い家柄だというのに、父親に対する憎悪を植えつけられて育ったユリウスは、自分の家系について知ろうとしなかった。また、母親の期待にこたえるために、良家の子弟にふさわしい教養を身につけようと、人一倍本を読むなどの努力をした。しかし、名家の子弟たちには、ユリウスが頑張っても得られない何かがあると感じていた。今思えば、その何かとは、父親の後ろ姿であり、ユリウスにとっては、やり手だと評判だった父親の経験知だ。
*
アンナとボリスの夫婦が挨拶にやって来た。アンナの腕には赤ちゃんが抱かれている。
「旦那様、息子のミハイルをお目にかけることができて光栄です。多大なお祝いも、ありがとうございました」
「母子ともども健やかそうで何よりだ。母親になった感想はどうだ」
「こんなにたいへんだとは、思いませんでした。真夜中でも、三、四時間おきに授乳しなければならないんです」
そう言うアンナの顔には少し疲れが見えるものの、赤ちゃんを抱いた姿は聖母のように穏やかで優美だった。ついついユリウスの目が美しいアンナの姿を追ってしまう。ユリウスの視線に気づいたアンナが、うやうやしく申し出た。
「もしよろしければですが、後で抱っこしてみますか?」
ユリウスは、赤ちゃんを抱いたことがない。どうやって抱いたらいいのか分からないし、壊してしまわないかと心配だ。それほどアンナの胸のなかで安らかにしている乳児は、小さくて繊細に見えた。ユリウスがためらっていると、レオニードがボリスに初めて自分の子を抱いた感想を尋ねた。
「それはもう、自分の子だと思うと胸が熱くなりました。でも、正直なところ、こんなに小さくて弱々しいのに、泣くときの勢いときたら、すさまじいんです」
と大柄なボリスが相好(そうごう)を崩して言う。最初は、抱くと大泣きするので不安だったそうだ。
「私は、体が回復したときに、抱かせてもらうとしよう」
当主が新生児の祝福をするのが、ユスーポフ家の習わしだそうだ。そう言うとレオニードはユリウスに、抱いてみないかと促した。
ユリウスは、おそるおそる大切なものを扱うように赤ちゃんを抱っこした。
――温かい
ブランシュよりも小さくて軽い。赤ちゃんのにおいと体温を感じる。顔をのぞくと、閉じていた目が少し開き、にっこりしたように見えた。このとき、ユリウスの胸に何かが灯った。
アンナとボリスが、ユリウスと自分たちの子どもに微笑みかけている。ユリウスには、彼らがまぶしく見えた。そこには、ユリウスがあきらめてきたものが存在した。
家族。
