ユリウスの肖像

25
レオニードは鋭い目を天井に向けていた。
順調に快方に向かってはいるが、ベッドから動けず、自分の体が自由にならないのを、もどかしく思っていた。だが、見方を変えれば、それは考える時間が与えられたということだ。
レオニードの頭のなかを常に占めているのは、陸軍のことである。近年の技術は日進月歩だ。技術が変われば、戦術が変わり、作戦が変わり、軍事戦略が変わり、政策が変わる。旧態依然の組織では対応できない。脱皮しない蛇は死ぬというが、古い体質を残す陸軍も脱皮が必要だ。
それに、この機会に、さきの日本との戦争について自分なりに分析したいと考えていた。戦争終結後しばらくしてから、各国の観戦武官による報告書がまとめられるようになった。軍は、これらの報告書を特別なルート等を通じて入手している。レオニードはそれらを読むつもりでいたのだが、まだ一人ではページをめくるのも困難だ。そこで、軍関係の報告書などは、ロストフスキー中尉に口頭での要約を頼んだ。
考えるべきことは、ほかにもある。それまでのレオニードは、若さゆえか、軍人でありながら自身の死を想像したことがなかった。しかし、死に直面してからというもの、いつ最期を迎えても悔いのないように、可能な限り準備しておくべきだと考えるに至った。それには、なすべきことをなすのみだ。
「お兄さま、考えごとの邪魔をしてしまったかしら?」
ヴェーラは、相変わらず部屋に閉じこもりがちだが、一日に一、二回、レオニードの様子を見に来る。
「いや、大丈夫だ。ところで、また結婚の申し込みがあったそうだが」
ヴェーラは、きまり悪そうに目を伏せた。
「お父さまに、断るようにお願いしました」
レオニードも、そうか、とつぶやいただけで、それ以上は言及しなかった。
ヴェーラが反逆者に利用されたと知ったときは、妹の愚かさと、妹を守り切れなかった自分自身の不覚に、怒りがこみあげたものだ。ヴェーラの心の痛手は思いのほか深く、男性不信に陥っている。モスクワにいる父親は娘が結婚しないのを憂慮しているようだが、レオニードは無理強いするつもりはなかった。財産と知恵が彼女を守ってくれるだろう。
「ところで、リュドミールは、まじめに課題に取り組んでいるか?」
「課題を増やされて、悪戦苦闘しているようですわ」
重たい表情だったヴェーラがくすりと笑って、弟が兄ともっと話したがっていることや、ユリウスと遊びたがっていることを話した。
弟の課題を増やしたのは、レオニードが弟の年齢だったときに比べて、弟は考え抜かずに結論に飛びつく傾向があるからだ。日頃の会話から薄々と気づいてはいたが、療養を機にリュドミールと話す時間が増えて、それがはっきりした。しかし、弟が遊びたい盛りなのも理解できる。
「ユリウスと遊びたいのか。考えておこう」
そのユリウスはアデールの突然の帰宅に動揺していた。アデールが言いたいことを言い終えて、さっさと出かけた後に、ユリウスを呼んだら、その目には涙のあとがあった。
「目が赤い。アデールに何か言われたか」
ユリウスは、うつむいたまま首を横に振った。
「私に言いたいことがあるのだろう。話してみなさい」
「わたしは、あなたを愛しています。だから、あなたにそばにいて欲しいし、危険なことはして欲しくない。同じように、奥さまもあなたのことを思っています。それが不安なの」
ユリウスはまだ何か言いたげだったが、レオニードの療養を優先させて、自分を抑制しているようだ。
「私は軍人だ。戦場は死と隣りあわせだ。それに、妻は陛下の言葉に従って私と結婚しただけだ。私を心配するなどありえんことだ。そうだとしても、何が問題なのだ?」
そして、レオニードは不安げな表情のユリウスを見て、つぶやくように言った。
「以前にも話したが、死を覚悟したときに願ったことは、おまえの顔を見ることだった」
ユリウスは、はっとして顔を上げた。その青い瞳には涙が光っていた。ユリウスの顔が、レオニードの顔に近づき、彼女の唇が彼の頬にそっと触れた。
ユリウスは、危険なイガをまとった栗のようだ。かたい鬼皮のなかの実は、甘く、もろい。渋皮は、苦い過去を表しているかのようだ。
ユリウスからは血の匂いもする。アーレンスマイヤ家の調査報告書によると、ユリウスの失踪と同時に下の姉も姿を消している。床には、おびただしい血痕が残されていたそうだ。ユリウスがペテルスブルクに現れたのは、その後まもなくのことだ。したがって、その血は、下の姉のものか、あるいは第三者のものだ。ユリウスが手にかけた可能性も十分にある。
疑わしさのあるユリウスだが、犬と遊んでいるときなどは天真爛漫な笑顔を見せる。軍医たちの手伝いをするときは、真剣で緊張した面持ちになるが、ときにはいたずらっ子のように、目をくりくりさせて唇の両端を上げている。首をかしげて考えるしぐさも可愛らしい。寝室では官能的だ。彼女が処女だったことも、男の独占欲を満足させた。
とはいえ、彼女が安全な女だという保証はない。過去は忘れる、と彼女は言っていたが、反逆者を恋い慕い、危険を覚悟で単身で外国に乗り込んだ女が、簡単にその男を忘れるのか疑わしい。
ユリウスが逃亡を図ったときのロストフスキーの報告によると、人質になったアナスタシア・クリコフスカヤが、妙なことをユリウスに言っていたそうだ。そこで、クリコフスカヤの調査をおこなったところ、幼少のころからアレクセイ・ミハイロフに夢中で、婚約まで申し出たことが判明した。彼女の結婚相手の経歴も興味深い。ミハイロフ兄弟を密告した男だ。クリコフスカヤ、現ストラーホフ伯爵夫人は、その清楚で、おとなしそうな外見に似あわず、油断ならない人物だと考えていい。
レオニードの頭に、将来を嘱望(しょくぼう)されながらも、女のために分別を失い、道を踏みはずした迷惑千万な愚か者たちのことが、思い浮かんだ。決闘で命を失った者、賭博(とばく)で全財産を失い家族を路頭に迷わせた者、酒や阿片(あへん)におぼれた者など、枚挙にいとまがない。
だが、それは、レオニードにとって、もはや他人事ではなくなった。死を覚悟したときには、誰よりもユリウスに会いたいと思うほど、彼女に魅了されていたのだ。悪女とは、必ずしも妖艶で毒々しい美女とは限らない。ユリウスやストラーホフ伯爵夫人のような女にも警戒が必要だ。
ユリウスの館の警備たちは、怪しい場所や危険人物を把握している。家政婦のペトロワや料理人もだ。ユリウスと不審人物との接触は、現在のところ報告されていないが、慎重であるべきだ。さもなくば、レオニード個人だけでなく、帝国にも害を及ぼしかねない。
ユスーポフ侯爵には、世襲貴族としての義務がある。称号も財産もすべて世襲のものであり、レオニード個人のものなどない。それらを次の侯爵に引き継ぐことが、現侯爵の役目である。
いっぽう、侯爵夫人は夫に対する尊敬もなく、妻としての義務を果たすつもりもないようだ。結婚後、まもないときから娘時代の気分が抜けないと噂されるほど、妻としての自覚に乏しかった。夫が戦地にいるときでさえ、あからさまに他の男と外出をするなどして、夫の面汚しを続けた。
いまのユスーポフ侯爵夫妻は、妻も夫もそれぞれ自由勝手に行動しているように見えるだろう。貴族階級ではよくあることだが、世襲貴族の妻のばあい、それは、たいていは務めを終えた後のことだ。
レオニードは、天井に向けていた目を閉じた。