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27

 ブランシュが、尻尾を振り振り、久しぶりに会うペトロワに、まっすぐにご挨拶に飛んで行く。ペトロワも笑顔でブランシュの頭をなでた。

「おかえりなさいませ」

 レオニードが、かろうじて介助なしで歩けるようになったのを機に、ユリウスは館に戻って来た。ユリウスの留守の間も、ペトロワは住居の管理に手を抜かなかったようだ。ただ、いつも出迎えてくれる警備の姿がなかった。ペトロワに聞くと、その日の担当はシロコフで、控室で寝ているのだろう、と耳打ちした。昼間から二日酔いでふらふらしていたことがあったので、責任者に抗議をしたのだが、まだ返事はないらしい。

 ユリウスにしてみれば、少しばかり感じが悪くても、警備が手薄になれば外出しやすくなるので、気にとめないようにしていた。警備がいるのは、安全のためのほか、ユリウスを見張るためでもあることぐらい承知している。

 こじんまりとした住居に、ほっとすると同時に、いつもそばにいたレオニードがいない寂しさを感じる。再び彼がここを訪れるようになるまでには、少し時間がかかるだろう。彼が全快したら、以前と同じように会えると信じ、読書をし、縫物をし、ピアノを弾き、ときにはバーニャや市場に出かけ、ブランシュを犬の牧場に連れて行ったりして過ごした。

 カティアは、そんなユリウスを感慨深げに見ていた。

 ――彼女は強くなった

 カティアがユリウスを初めて見かけたときは、男装した姿に違和感を覚えたものだ。また、リュドミールに、おかしな言葉を言っていたので、頭のおかしな子だとも思った。何よりも、追いつめられた目が、心の不安定さやもろさを物語っていた。後になって、へんな言葉は、リュドミールがいたずらで教えたものだと知ったのだが。

 偶然、ヴェーラとエフレムとの会話を耳にしたときには、唖然とした。なんとあの男装娘は、誰かに恋をして、その男を追って来たのだという。彼女は自分が捨てられたとは思ってもいないようだったが、いったいどんな男が、あんな姿の娘を、まともに相手にするというのだろう。それに、年頃の女の子らしく、魅力的になろうとする様子もなかった。また、男は獲物を追う習性が強く、追われるのが苦手な生きものだ。そんなことも考えられないとは、たとえ外見を磨いたとしても、頭のほうの問題が残りそうだ、というのがカティアの率直な感想だった。

 どちらにしても、様々な仕事の依頼を受けていたカティアにとっては、彼女のことは関係のないことだった。知る人ぞ知るカティアの知見や手腕は、至るところで求められていたのだ。だが、痩せて、顔色の悪い、男装をした少女の顔が、カティアの頭のなかでちらつき続けた。

 ――彼女は女性としての幸せに背を向け続けるのかしら

 驚くべきことに、侯爵が彼女を気にかけていた。おそらく、危なっかしくて目にあまったのだろう。あるいは、カティアに見えない何かが、侯爵には見えていたのかもしれない。

 屋敷から連行された後には、彼女は見るからに精神を病んでいた。侯爵が彼女の存在について、箝口(かんこう)令をしいたときに、カティアは、この娘が、政治的に利用されうる立場にあると直感した。

 まもなく、精神を病んだ者にありがちなことが、彼女にも起こった。幸運にも、死にかけていたところを犬に発見され、侯爵が一晩中彼女に付き添って、一命を取りとめた。カティアは、そんな侯爵の様子を見て、ユスーポフ家を始め、マカロフ家、自分の夫、かつての恋人、そして自分自身のことなど、様々に思いをめぐらせた。そして、寄せられていた依頼をすべて断った。

 意外にも、ユリウスは素直にドレスを着た。すると、仕草が驚くほど優雅になった。見苦しいほど痩せていたのが、少しずつ女性らしい体になり、人並みに体の悩みなどを持つようになった。胸の大きさを気にしていると知ったときは、微笑ましく思ったものだ。

 また、根が純粋でお人好しでもあることも分かった。話を素直に聞く態度も好ましい。そんなユリウスの成長を見るのが楽しみになり、彼女をロシアで最もすてきな女性の一人にしたいとさえ思うようになった。気になった点といえば、過去を話そうとしないことだ。カティアのほうも、無理に聞き出そうとはしなかった。

 侯爵との関係が始まってからは、女性らしいやわらかな雰囲気になった。ユリウスは愛人という立場に抵抗を覚えていたようだが、カティアにしてみれば、心から誰かを愛することは、どんな結果に終わろうとも、きらきらとした記憶が魂に残ると思っている。相手に求めるだけの愛は、与えられなければ苦しいし、はたから見ても見苦しいが、純粋な愛は美しい。

 カティアもまた、結婚する前は、年齢の離れた地位ある男性の愛人だった。身分の違うその人との結婚は無理だと理解していたが、彼を独占したいと思うことはあった。しかし、それは、カティアを苦しめただけだった。ところが、彼の力になろうと決心したときから、不思議なことに心が解放された。彼との思い出は、年を経ても色鮮やかに残っている。

   *

 しばらくして、侯爵邸で身内だけのささやかな晩餐会が開催されるというので、ユリウスの料理人が、勉強もかねて応援に行くことになり、ユリウスを誘ってくれた。

「こんなにおいしいスープは、初めて」

 ウミガメのスープを口にしたユリウスの頬が、落ちそうなほどゆるんだ。ユリウスの料理人は、食材や料理の由来を楽しそうに説明しながら、キャビアとサワークリームのパンケーキ、ウズラとフォアグラのパイ詰めトリュフソース添えを、次々ユリウスに試食させてくれた。料理人たちに言わせると、特に珍しくない料理だそうだが、ユリウスにとっては、初めて口にするものばかりだった。

 おいしい食事で気分が大きくなったユリウスは、遠目でもいいから、レオニードの快復を確認したくて、居間に向かった。そこは、出席者たちが、食後に、くつろぎ、会話を楽しむ場所だ。

 物かげから、軍服に身を包んだレオニードの精悍な姿を見て、安心したのもつかの間だった。彼が美しく着飾ったアデール夫人と話しているのが視野に入ると、ユリウスの胸に苦味が走った。レオニードの父親らしき男性、侯爵の義父母とおぼしき夫婦、ヴェーラ、そして義弟妹らしき男女とともに、なごやかに談笑している。レオニードが、あんなに穏やかに夫人と話すのは、見たことがなかった。

 会話の一部が聞こえてきた。

「そろそろ、私たちも孫の顔を見たいものですわ」

「同感ですな。こればかりは天の配剤とはいえ、当人たちにも意識してもらわなければ」

「後継のことは意識していますよ」

 レオニードの平然とした返答に、ユリウスは、頭を割られたような気がした。いたたまれなくなって、よろよろと料理人のもとに戻ったが、後のことは覚えていない。

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 翌日、カティアがやって来たときも、ユリウスはベッドに突っ伏したままだった。隣にはブランシュが寄り添っている。

 

 カティアは、ベッドサイドに静かに腰かけて、ユリウスの頭をなでた。

 

「人生は、思いどおりにならないことばかり!」

 

 カティアは、ひととおりの慰めの言葉をかけた後に、ユリウスに尋ねた。

 

「あなたは、どうしたいのかしら。できないことを嘆くのも自由ですが、できることをするしかないのではないかしら」

 

 ――わたしがしたいこと?

 

 つぶれそうなユリウスの胸のなかで、何かが動き出した。

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