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「ブランシュは、踊りが上手ね」

 

 カティアが、ユリウスのピアノ演奏を賞賛した後に、床に転がっているブランシュに言った。ブランシュがごろごろして足を動かしていたのを、ユリウスもピアノを弾きながら目の端でとらえていたが、それが踊りだとはつゆほども思わなかった。

 

 確かに、ブランシュはピアノの音がすると体を揺すり始め、終わると動きを止めたので、音楽にあわせていたのかもしれない。

 

 ほめ上手なカティアは、ユリウスが失敗だと思った縫物や料理なども、努力のあとを見つけては、ほめてくれるが、人だけでなく犬をもほめるようだ。そういえば、オレグも、犬や馬だって、ほめられたときには嬉しく感じていると言っていた。

 

 そんなカティアにかかると、レオニードの強引で傲慢(ごうまん)な点も賛辞に変わる。多少の強引さがなければリーダーたりえないし、意志が強く、実行力があり、決断が速く、他者の意見をうのみにしない、というのだ。傲慢に見えるのは、若さゆえに自分を大きく見せるためだ、と説明した。

 

 ときには強引で傲慢なレオニードだが、ユリウスが彼の孤独さをかいま見てから、ときどき考えることがある。それは、彼の妻、アデールとの関係だ。

 

 レオニードは誇り高い侯爵だ。妻が他の男といることなど、意にも介さないように見える。だが、レオニードの面前でアデールが他の男の胸のなかで泣き崩れたときには、彼はぐっとこらえていたようにユリウスには見えた。たとえ、名誉やプライドが傷ついたとしても、心の動揺を他人に見せることは、彼の矜恃(きょうじ)が許さないのだろう。

 

 少年と大人のはざまの時期まで、男の世界に身を置いたユリウスは、男は弱点を見せられないことを知っている。怖いときに怖いと言えば、男の間では臆病者(おくびょうもの)と認定されるだけだ。

 

 そんなことを思いながら、ピアノの後片付けをしていると、階下が騒がしくなった。ブランシュは、いつの間にか階段をおりていた。

 

 レオニードの副官のロストフスキー中尉の取り乱した声が聞こえた。

 

「屋敷から応援を呼べ、秘密裏にだ! それから、清潔な布と湯だ!」

 

 館の警備たちとペトロワが、あたふたと指示に従っていた。

 

「レオニード!」

 

 担架(たんか)に乗せられた血まみれの男を見て、ユリウスは金切り声をあげた。

 

「いったい何があったの、どうしてこんなことに⁈ ロストフスキー中尉、答えて!」

 

「ユリウス様、部屋を用意してください。まもなく軍医が来ます」

 

 たたみかけるように叫ぶユリウスに、中尉がどなるように返した。そこに、さらにカティアの声が加わった。

 

「ロストフスキー中尉、あなたも手当てをしなければ」

 

 見ると、中尉の額には血がこびりつき、左腕の出血を止めるように右手で押さえている。だが、中尉は、侯爵の処置が先で、自分は軍医に状況を説明し、そばに控える義務があると言い張った。

 

 まもなく軍医と助手が到着し、中尉が経緯を説明するために部屋に残った。ユリウスたちは、ドアの外でまんじりともせずに、彼らが出てくるのを待った。

 

 処置を終えて出てきた軍医は、おそらく今夜が峠であろうと述べた。応急処置が適切だったのが幸いし、一命を取りとめたが、予断を許さないとのことだ。軍医は、看護の注意点などをひととおり説明すると、今度は中尉の怪我に取りかかった。

 

 中尉は、三角巾で腕をつって、足元もおぼつかない様子で戻って来ると、侯爵の隣で待機するのが自分の義務だと主張して、そばを離れようとしなかった。そんな中尉の態度に、ユリウスは胸が熱くなり、休むようにという言葉をのみこんだが、カティアは、中尉の気概(きがい)をたたえてから、さとすように言った。

 

「侯爵様が意識を取り戻したときには、必ず、あなたの働きが必要となるでしょう。ですから、今はどうかお休みください」

 

 ロストフスキーはなおも、何か言いたげだったが、レオニードの容体が変化したら必ず知らせることを条件に、休むことを決めたようだ。ペトロワが客室を急遽(きゅうきょ)整えた。

 

 しばらくカティアもいっしょだったが、ユリウスは、彼女も休ませ、一人でレオニードのそばに残った。

 

 身動き一つしないレオニードを前に、ユリウスは胸がつぶれる思いだった。レオニードに何が起こったのかさえも分からない。説明できるであろう中尉も静養が必要だ。それに、いまさらユリウスが原因を知ったところで、レオニードの容体が変わるわけでもない。

 

 中尉と軍医の話をつなぎあわせると、レオニードは、爆発事件の現場にいあわせて、爆風で飛ばされたらしい。重傷はそのときに負ったものだ。数か所、骨折もしている。

 

 何かの事件に偶然巻き込まれたのか、それとも誰かに命を狙われたのか。レオニードの命が狙われたという考えに、ユリウスはぞっとした。政敵がいることは聞いている。数々の戦功のかげには、仲間や身内を失った者たちの怨恨もあるだろう。こんな目にあうようなことは、やめて欲しいと切(せつ)に思う。

 

 ユリウスは、生死の境にいるレオニードを見つめながら、彼と出会ってからのことを思い返した。今となっては、レオニードは、ユリウスにとってかけがえのない存在だが、初対面のときに、そうなることが予想できただろうか。

 

 うさん臭い目で見られ、スパイの嫌疑(けんぎ)をかけられたこと。そのときの彼の冷ややかで意地の悪い目。恋に狂った低能な女と見くだされ、侮辱されもした。ユリウスは、そんな彼に正面切って歯向かうこともできず、憤慨し、心のなかで強く反発した。

 

 しかし、それは、二人の間に強い力が働いていたことにほかならない。大きく反発する力は、その向きが変わると、大きく引きあう力となった。思い起こせば、クラウスとの出会いもけんかだった。

 

 出会いには未知の力が働いている。そもそも、ユリウスが流れ弾にあたって、侯爵家に運び込まれたこと自体が奇跡だ。

 

 死もまた、いつ訪れるか分からないものだ。けれども、数々の死を身近で見てきたユリウスは、レオニードまで失いたくなかった。強引でも傲慢でもいい、ただ生きてさえいてくれればいい。

 

「お願い、死なないで、生き抜いて」

 

 同じ言葉が繰り返しユリウスの口からついて出てくる。

 

「あなたのために、まだ何もしていない」

 

 レオニードの頬に、ユリウスの涙がぽたぽたと落ちた。自分の無力さに涙が止まらない。ユリウスは、むせび泣きながら彼の頬に何度も何度もキスをした。

 

 ――神様、彼を助けてください、お願いします

 

 いつの間にか、ユリウスは、ひざまずき、手を組んで、彼への思いを込めて必死に祈っていた。

 

 それまでのユリウスは、心から神に祈ったことがなかった。自分の出生や存在が祝福されているとは、とうてい思えなかったし、神に見放された自分が祈ったところで、祈りが届くとは、とうてい思えなかったからだ。ヤーンを手にかけてからは、さらに罪の意識が加わり、ますます神の目をおそれ、神から遠ざかっていった。

 

 だが、半死半生のレオニードを前にして、神にすがらずにはいられなかった。

 

 ――神様、どうか、彼を助けてください。そのためなら、何でもします

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