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 レオニードが憮然(ぶぜん)として尋ねた。

 

「その姿は何だ?」

 

「食事を食べさせたり、体をふいたりするのは、使用人の仕事だと言っていたでしょう? だから、使用人のかっこうをしてみたの」

 

 ユリウスは、エプロンのすそをつまんで、いたずらっぽく笑って言った。レオニードは、口にこそ出さなかったが、内心あっけにとられたようだ。そんな彼の様子に、ユリウスは心のなかで「成功」と喜んだ。彼をからかってみたかったのだ。満足したユリウスは、にっこりして言った。

 

「冗談よ。料理人助手と百貨店に買い物に行って来たの。わたしが誰だか分からないようにすれば、外出してもいいのでしょう?」

 

 午前中に軍関係者の訪問があったので、ユリウスに空き時間ができた。ちょうどそのとき、料理人助手が買い物に出かけるというので、連れて行ってもらったのだ。アンナへの贈物も買いたかった。

 

 そんなことを話しながら、ユリウスはレオニードの体をふくために、彼の上半身を裸にしてタオルを絞った。

 

 軍医やその助手たちがレオニードの傷を処置する間は、ユリウスは席をはずしていたが、あるとき軍医たちから手伝いを求められ、彼の体をふき、包帯の巻き直しをした。それ以来、彼の体をふき、必要であれば包帯を直すことが、ユリウスの日課になったのだ。

 

 しかし、レオニードは、ユリウスが彼の体をふくことも最初は嫌がった。ユリウスに使用人のようなことをさせたくなかったらしい。加えて、侯爵の身だしなみを整えたり、入浴の世話をしたりするのは、原則として男性の側(そば)仕(づか)えの仕事だ。もっとも、レオニードは自分のことは自分でおこなうことを旨としているので、側仕えの世話になることはめったにないのだが。

 

 けれども、いまはユリウスにされるがままになっている。ユリウスに体をふいてもらうと、心身ともにすっきりすると言う。

 

 ユリウスが彼の胸のあたりをふいていたときだ。部屋の奥のドアが開き、どこかあわただしい衣ずれの音とともに、クリミアにいるはずのアデールの声が響いた。

 

「あなた!」

 

 アデールは、夫の上半身があらわになった姿が視野に入ると、目をそらして、うつむいたが、すぐに何事もなかったかのように顔を上げた。彼女の頬がうっすらと色付いている。

 

 大怪我をしているとはいえ、レオニードのがっしりした肩や、たくましい胸がむきだしになっているのだ。顔の傷のせいで、野性的な男らしさもただよっている。見慣れているはずのユリウスでさえ、どきどきするのだから、妻とはいえ、めったに顔をあわせないアデールが顔を赤らめるのも無理もない。

 

 そんなアデールの様子に、ユリウスの心は波立ち、レオニードの体をふく手におのずと力がこもる。動揺を隠せないユリウスに、レオニードが「もういい」と目で合図した。

 

 アデールは、相変わらず華やかで美しかった。光沢のあるベルベットのドレスを身にまとい、すばらしい毛並みのミンクのケープを手に持っていた。首にかけられた真珠のネックレスの中央には、大きなサファイアが輝き、おそろいのサファイアが金髪に彩りを添えていた。豪奢(ごうしゃ)なパーティーから抜け出してきたような装いだ。

 

 その姿は素朴な服装のアンナとは対照的だった。アンナは、地味な色目のワンピースにエプロンを着け、髪はすっきりとまとめていた。きらびやかに飾り立てられたアデールを見た後では、質素なアンナは、女神というより聖母のように思われた。

 

 アデールの、少しおおげさに上品に話す声が、タオルを片付けているユリウスの耳に届いた。

 

「まあ、なんてひどい怪我! 爆弾だなんて、ぞっとしますわ。重傷を負ったと聞いて、すぐにクリミアから戻って来ましたのよ」

 

「ニュースが伝わるのが、遅かったようだな」

 

 小声で言うレオニードに対してアデールが反撃した。

 

「軍事省での爆発事件のニュースは届いていました。でも、まさか、あなたが被害にあっていたなんて。重傷を負ったとサハロフ中将から連絡があったときには、耳を疑いましたわ。妻のわたしに知らせないなんて、どういうおつもりかしら」

 

 続けて、アデールは実行犯が捕まっていないことを話題にした。

 

「聞くところによれば、反乱兵の生き残りか、モスクワ蜂起の恨みを持つ者の、どちらかだそうではありませんか。それに、あなたはラスプーチンにも疎まれていますし。ああ、おそろしいこと!」

 

 アデールは、そう言って、身震いをしてみせた。夫のほうは、妻の言葉を聞いているのか聞いていないのか、無言のままだ。ユリウスが、桶を持って部屋から出ようとしたときも、アデールが一方的に話していた。

 

「あなたは、皇帝陛下のおひざもとで、親衛隊長として、連隊を指揮なさればいいはずだったでしょう。それを下層階級の兵隊なんかを相手に戦ったり、反逆者の平定にモスクワくんだり行ったりするから」

 

 どういうわけか、アデールの一連の言葉がユリウスの心に引っかかった。そのせいで、ドアの前でもたもたしていたら、アデールにとがめられてしまった。

 

「何をしているの。早く出ておいきなさい」

 

 夫の体を触っていたエプロンの女が、かつて自分が夫の政敵に差し出した少年だとは、彼女はゆめにも思っていないようだ。ユリウスは小声で謝り、部屋を出た。ドアを閉めても、アデールの尊大でよくとおる声が、ところどころ聞こえてくる。

 

「ラスプーチンの機嫌さえ損ねなかったら、そんな戦いに巻き込まれずに済んだのに」

 

「皇后の信任を得たラスプーチンににらまれたら、どうなるか、これでよくお分かりになったでしょう?」

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 ユリウスは胸が締めつけられるようだった。アデールの気持ちが痛いほど分かるのだ。レオニードには、あんな大怪我などして欲しくないし、戦場のような危険な場所に行って欲しくもない。安全な場所にいて欲しい。

 

 ユリウスの気持ちも、アデールとまったく同じだ。ユリウスは自分の気持ちをのみこんでいるが、アデールは素直に口に出しているだけだ。軍人として有力貴族として皇帝と帝国に貢献するレオニードの責任の領域に、皇帝の姪には割り込む力があるが、ユリウスにはそれがない。

 

 侯爵夫妻が別居状態になる前に、ユリウスは何度か二人が言い争う場面を目撃したことがある。初めのうちこそ、レオニードは、妻に対して反駁(はんばく)していたが、やがて辟易(へきえき)したのか、何も言わずにその場を去るようになった。その姿は、彼の果たすべき使命や本懐などは彼女には理解できまいという、あざけりとあきらめの気持ちとが混ざりあっているようだった。

 

 アデールは、そんな夫にますます業を煮やし、他の男に泣きつき、慰めを求めるようになった。そんなふうにして夫の体面を傷つける妻に、夫が愛想をつかすのも無理もない、とユリウスは思っていた。

 

 確かに、夫の不名誉は、妻にとっても不名誉だ。アデールが、自分の体裁を守ろうとするのは不自然なことではない。けれども、思い返せば、アデールはレオニードの身を案じればこそ、彼の領域に立ち入って口を出していたのだ。それは、レオニードを愛しているからにほかならない。レオニードを愛するようになったユリウスには、それが分かる。アデール自身が、そのことに気づいているかどうかは、分からないが。

 

 ――彼女は、レオニードを愛している

 

 ユリウスは立っていられなくなり、ドアの前でへたりこんでしまった。涙がユリウスの頬をつうっと伝った。

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