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「何を編んでいるんだ?」

 

 ベッドに横たわっているレオニードが、編み物をしているユリウスに力なく尋ねた。まだ声にも力が入らないようだ。

 

「ちょっとした、ブランケットを編んでいるの。春と秋にどっさりと抜けたブランシュの毛を、ペトロワが捨てるのはもったいないと言って、紡いでもらったの」

 

 サモエド犬は二重被毛で毛量が多く、そのふわふわの毛から、毛糸を紡いだり、フェルト生地をつくったりすることができる。可愛いブランシュの毛で編み物をしていると、気持ちが温かくなる。

 

 ある日、ブランシュが姿を消したと思ったら、雪の上で寝そべっていただけだったことがあった。白い毛が白い雪に溶けこんで、見分けがつかなかったのだ。そんな寒さに強いブランシュから、ふさふさした毛を取り除いたら半分ぐらいのサイズになるのではないかと想像すると、笑いがこみあげてくる。

 

 そんなたわいもないことを、ユリウスは、くすくすと笑いながらも、レオニードの怪我に配慮して、ささやくように話した。その声がレオニードには心地よいらしく、薬の効果とあいまって、やがて彼は眠りについた。ユリウスはレオニードの頬にキスをして、かたわらでブランシュの毛で編み物を続けた。穏やかな時間が流れていく。

 

 事件後、レオニードは、公には、行方不明、生死不明とされていたが、巷間では死亡したという噂が流れていた。

 

 爆発直後に、息も絶え絶えのレオニードが、かけつけたロストフスキー中尉にとっさの指示を出したのだ。犯人には成功したと思わせることと、身を隠すことだ。そして、ユリウスの館に連れて行くように命じたそうだ。中尉自身も怪我を負いながら、短時間でそこまで手を回した有能さには頭が下がる。

 

 そういう経緯で、レオニードはいったんユリウスの館に運び込まれたのだが、意識が回復すると、中尉の進言により侯爵邸で療養することになった。軍の要職にあるお歴々が訪れることを考慮すると、侯爵邸のほうが都合がいいからだ。そこで、レオニードが侯爵邸にいることは秘密とされ、侯爵邸のすみずみに至るまでその秘密を厳守するよう言い渡された。

 

 そして、身動きできないレオニードのために、ユリウスが付き添いという名目で侯爵邸に滞在することになった。レオニードが要望したらしい。付き添いといっても、そばにいて薬を飲ませるぐらいで、ほかには、何かあったときに中尉や屋敷にいる看護師らに知らせる程度の役目だ。

 

 ユリウスがレオニードの部屋に入ったのは初めてだった。淡いブルーと白を基調とした部屋は、書斎とは趣が異なるが、かすかに彼の葉巻の匂いが残っていた。

 

 部屋の奥には隣室に続くドアがあった。廊下に出なくても自由に夫婦の部屋を行き来できるドアだ。それを見るたびに、ユリウスの胸がちくりとする。たとえ侯爵夫妻の仲がぎくしゃくしていても、二人は神と世間に認められた夫婦なのだ。その妻のアデールは、クリミアに避寒に出かけているという。

 

 腕を動かせないレオニードのために、ユリウスが朝食を食べさせようとしたら、彼が不満を示した。

 

「そんなことは使用人がすることだ」

 

「食べさせるのと、薬を飲ませるのとでは、そんなに違わないでしょう?」

 

 そう言って、ユリウスはかまわず燕麦(えんばく)の粥を彼の口元まで運んだ。

 

 後になって分かったのだが、レオニードにしてみれば、こんな幼子のような姿をユリウスに見られたくなかったそうだ。不完全さや、弱々しさ、甘えを見せることは、彼のプライドが許さなかったのだろう。彼のそんな一面を知るたびに、ユリウスの心がやわらかくなるのだった。

 

 こんなふうに彼のそばで過ごしていると、寝たきりの父親の世話をしていた母親のことが思い出される。

 

 ――母さまもこんな気持ちで、父さまの世話をしていたのかしら

 

「恐れいりますが、ただいま食事中です」

 

 侯爵邸に移ってから二、三日経過したころだった。昼食の終わりかけに、ドアの外からロストフスキー中尉の恐縮した声が聞こえた。

 

「かまわんさ、いまさら堅苦しいことはなしだ」

 

 相手の男が豪快に笑う声がした。

 

 ユリウスが食後の薬をレオニードに飲ませているときに、ドアが開いて、部下を従えた大柄な男が現れた。胸の勲章の数々が彼の地位を物語っている。気さくな人物のようで、年齢も階級も下のレオニードに、ざっくばらんに話しかけた。

 

「食事中に押しかけて悪かった。ところで、怪我は痛むかね。なに、負傷は勲章のようなものだよ。しかも、こんな美人に食事の世話をしてもらえるのなら、私が代わりに怪我をしたかったぐらいだ」

 

「サハロフ中将、こんなに早くいらっしゃるとは」

 

 続けて、レオニードは横になったまま対応する非礼を詫びた。

 

 レオニードが生きていることを知る者は、軍にもほとんどいないと聞いていたが、中将と呼ばれた男は知っていた。よほどレオニードが信頼を寄せている人物なのだろう。

 

 その立派な中将が、テーブルの上の焼き菓子に目をとめると、ちゃめっ気たっぷりに言った。

 

「これは、うまそうだ。一つもらうよ、美人さん」

 

 どうぞ、とユリウスが笑顔で差し出した菓子皿から、中将は菓子を一つつまんで、片目を瞑ってみせた。そして、ユリウスたちに退出するように目くばせをした。レオニードと内密の話があるようだ。

 

 美人と言われて、ユリウスも悪い気がしない。男と偽っていたときは、女のようだ、きれいだ、などと言われるたびに気が気ではなかったのだが、いまは素直に喜べる。

 

 手が空いたユリウスは、ブランシュの様子を見に厩舎に行ったが、そこにブランシュの姿はなかった。きっと、大好きな雪のなかをかけ回っているのだろう。

 

 ため息をついて厩舎から出ると、ユリウスはぎょっとした。白い雪のかたまりが動いたのだ。よく見ると、背中に雪を積もらせたブランシュだった。

 

「ブランシュ、背に雪が積もるほど、何に夢中になっていたの?」

 

 腰をかがめて笑うユリウスの足元で、ブランシュはぶるぶるっと体を震わせた。そのせいで雪がかかってしまったユリウスは、やれやれと空を仰いだ。

 

 レオニードの怪我については、いたましく思うけれども、四六時中彼の近くにいられるし、これまで気づかなかった彼の一面を発見する喜びもある。ブランシュは相変わらずユリウスを笑顔にしてくれる。ここには、リュドミールやヴェーラ、オレグもいるし、使用人たちも多く活気がある。しかも、会う人皆から、きれいになった、と言われて、ユリウスはまんざらでもなかった。

 

 使用人たちの休憩所をのぞくと、アンナの姿が見えた。もともときれいな女の子だったが、ますます美しさに磨きがかかったようだ。地味な使用人のいでたちにも関わらず、やわらかな光に包まれた彼女は、神々しくさえ見えた。

 

 ――まるで女神のよう

 

 アンナがユリウスに気づいて立ちあがったときに、その美しさの理由が明らかになった。大きなおなかをいたわるようにしていたのだ。身ごもっている女性は、なんて美しいのだろう。アンナがボリスと結婚してから、もうすぐ一年になる。

 

 アンナは、おなかの子どもが成長していくのを喜んでいた。命を育むのはとても神秘的で、早くこの子に会いたいと言う。

 

 ユリウスと同じ年頃のアンナが、母親になる。そんなアンナの姿は幸福感に満ちていた。そして、それは、ユリウスに自分が子どもを生む側の性であることを意識させた。

 

 ――わたしも母親になるときが来るのかしら

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