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 春の陽光が気持ちいい。

 

 ユリウスは、バーニャというロシアの蒸し風呂を初めて体験し、晴れ晴れとした気持ちで馬車に揺られていた。蒸気浴をしながら白樺の枝の束で体を叩き、最後にきれいな水で流すと、体だけでなく、鬱々した心まで洗い流されたようだ。蒸気浴にはあまり関心がなかったユリウスだったが、今回、カティアにぜひにと強く勧められて、富裕層が密かに通うバーニャを紹介してもらったのだった。

 

  それまでのユリウスの胸のうちは灰色だった。

 

 レオニードに大切にされているのは頭では理解しているが、高価な贈物だけでなく、もっと彼にそばにいて欲しいし、もっと彼のそばにいたいと思っていた。ユリウスの心には、もっともっと愛されたいという思いがくすぶっていた。彼から「愛している」という言葉を聞いたことがなかった。けれども、思えば、ユリウスもまた「愛している」と彼に伝えていなかったことに気づいた。ユリウスは自問した。

 

 ――わたしは、彼を愛しているの? それとも、これは単にみだらな欲望なの?

 

「侯爵様とのことでお悩みですか」

 

 沈鬱な様子のユリウスを見て、カティアが単刀直入に聞いてきた。

 

 カティアは、ユリウスとレオニードとの関係に気づいていた。カティアとのお茶の時間にレオニードが現れ、ユリウスを抱きしめ頬にキスをするのを見られていたし、もとより、勘のいいカティアに隠しとおせるとは思っていなかった。それでも、カティアは、二人が関係を持ったことに嫌悪感を抱いたりはしていないようだ。

 

「一方的に多くの贈物をもらうだけの関係で、対等ではないのが苦しいんです」

 

 本当のところは、肉体関係の対価として贈物をもらっているように感じて、ユリウスの良心がとがめるのだ。だが、たとえカティアであっても、人前で自分自身を娼婦扱いして、自己の尊厳をおとしめることはしたくなかった。

 

「きっと、あなたが驚いて喜ぶ顔が見たいんですよ。あなたの花の咲いたような笑顔を見ると、わたしも嬉しくなりますもの。あなたも、ブランシュが喜んでいるのを見ると、幸せな気持ちになるでしょう?」

 

 すっきりしない表情のユリウスに、カティアは気分転換をすることを提案した。そこで、勧められたのがバーニャだったのだ。

 

 カティアからは、ユリウスの顔が赤らむような男女のことについても聞いた。

 

 寝室の外では従順で貞淑に、寝室では情熱的に激しく。ある貴族の娘が結婚の際に母親から伝えられた言葉だそうだ。情熱が夫婦の問題を解決するし、また、情熱的でなければ、別の女に夫を取られてしまうのだという。最も顔を赤くしたのは、「男はプライドの生きもの。そのプライドを立ててあげなければ」の続きだった。

 

 きわどい話でありながら明快に語り、いやらしさを感じさせないカティアの話術には驚くばかりだ。

 

 馬車が玄関の前に到着すると、警備の者が扉を開けた。警備の者は侯爵邸から交代でつかわされてくる。礼儀正しく感じのいい者たちがほとんどなのだが、その日の担当者は下卑(げび)た目でユリウスを見ていた。ベールで顔を隠していなければ、さらに不快に感じただろう。ユリウスは、このシロコフには好感が持てなかった。家政婦のペトロワも同様に感じているようだ。

 

 だが、いったん館のなかに入り、飛び出して来たブランシュの楽しそうな顔を見ると、感じの悪い警備のことなど、どうでもよくなってしまう。こんなふうに歓迎されると、嬉しいし、自分が唯一無二の存在だと思えてくる。ブランシュは、侯爵邸にいたときから一貫してそれをユリウスに実感させてくれる。

 

 バーニャで体も心もすっかり軽くなっていたユリウスは、飛び跳ねて喜んでいるブランシュの前足をつかんで、いっしょになって飛び跳ねた。微笑んで帰るカティアと入れ替わりに、ペトロワが笑いをこらえるように、小さく咳払いをしながら現れた。レオニードが居間で待っているという。

 

 開け放たれたままの居間のドアの向こうに、レオニードが目を閉じたまま、深くソファにもたれかかっているのが見えた。眠っているのだろうか。ユリウスは、ブランシュに向かって、しいっと口に人差し指をあてた。

 

「ブランシュ、いい子だから、ここで待っていてね」

 

と言って、嬉しそうにしているブランシュの目の前で静かにドアを閉めた。

 

 ユリウスはそろりと足音をしのばせてソファに近づいた。こうやって目を閉じているレオニードを改めて見ると、端正な顔をしていると思う。ユリウスは彼が眠っている姿は見たことがなかった。厳格ですきを見せることのない彼は、人前で眠ることなどしないのだろう。足元にブランシュの白い毛が落ちていた。

 

 いつも落ち着き払っているレオニードが、驚く様子を見てみたい。そう思う一方で、こんなふうに微動だにせずに眠っている彼を前にすると、愛しさがこみあげてきて、そのまま休ませてあげたいとも思う。

 

 ユリウスは、レオニードが目を覚まさないように、そっと腰をかがめ、ベール越しに頬にキスをしようとした。もし彼が目を覚ましたら、ベールをかぶった相手にとまどうに違いない。それはそれで愉快だ。もし、ユリウスだと認識されなかったら、突き飛ばされるかもしれないが。

 

 結局、突き飛ばされこそしなかったが、ユリウスは驚いて悲鳴をあげることになった。

途端に、ユリウスの腕と腰がつかまれて、彼の膝の上に崩れ落ちてしまったのだ。とっさに目を瞑ったユリウスが目を開けると、黒いベールの向こうに黒い瞳が見えた。

 

「眠っていなか」

 

 ユリウスが言いかけたときに、ベールと帽子が払いのけられ、ゆるく結われた髪が、ばさりとなだれ落ちた。そして、あっという間に唇がふさがれた。レオニードはキスをしながら、ユリウスをバランスよく膝の上で抱き直した。

 

 唇が離れると、ユリウスはレオニードを潤んだ瞳で見た。

 

「眠っていなかったのね。すっかり騙されてしまったわ」

 

 今度はユリウスからキスをしかけた。

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「不公平だわ」

 

 ぐったりとしたユリウスがレオニードにもたれかかったまま、つぶやいた。レオニードの目が、どういうことかと尋ねている。

 

「わたしにとって、あなたは世界のすべてを占めているのに、わたしはあなたの世界のほんの小さな一部分でしかないもの」

 

「それは逆だ。私のほうこそ、おまえに振り回されている。いまや、おまえは大切な存在だ」

 

「振り回されているようには見えないわ?」

 

 レオニードは軽く笑って、ユリウスの髪を一束すくい上げ、愛しそうに口づけた。彼は本心を言葉にしない。プライドが邪魔をしているのだろうか。

 

 服を着るためにレオニードがソファから立ち上がったときに、彼の背中が独りそびえ立つ岩のように見えた。筋肉質で、広くて大きな背中。堂々として頼もしい背中。それなのに、ひどく孤独で哀愁さえ帯びているように感じられる。その孤高な姿にユリウスの胸がつまった。

 

 その背中で、どれほどの重荷を支えているのだろうか。

 

 ユリウスもまた、その背中に守られている。その背中が、このうえなく愛おしく、かけがえのないものに感じられた。その愛おしいものを大切にしたいと思った。その孤独さに寄り添いたいと思った。

 

 そう思ったときに、何かとても大切なことに触れたような気がした。それが何なのか、はっきりしなかったのだが。

 

 ――わたしは彼のことが好き。それで十分じゃない?

 

 ユリウスは彼の後ろから抱きついた。

 

「レオニード、愛している」

 レオニードは振り向いて、ユリウスの頭に優しくキスをした。

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