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 ユリウスは、樹木のかおる風を切り、森の新鮮な空気を体いっぱいに浴びながら、馬を走らせた。サイドサドルに最初はとまどったが、いったん走り出すと、横向きに座っていることなどすっかり忘れて、夢中になって手綱(たづな)を握っていた。

 

 隣にいるレオニードの手綱さばきはさすがで、馬をまるで体の一部のように自然に操る。人馬一体とはこのようなことをいうのだろう。

 

 森を抜けると、視界が開け、前方がきらきら光っているのが見えた。ユリウスは歓声をあげた。

 

「湖!」

 

「海だ」

 

 内陸育ちで海を見たことのないユリウスは、目を見張った。

 

「これが海?!」

 

 ブランシュも海に来るのは初めてだ。それまでは、ユリウスとレオニードの横や後ろを走っていたブランシュだったが、一気にスピードを上げ、一番乗りで水際に到着した。ブランシュは、波が打ち寄せると驚いて飛び退き、波が引くと今度は波を追った。

 

 ユリウスもまた、光にきらめく海を前にして、はやる気持ちを抑えられずに馬から飛びおりた。歓声をあげながら、ブランシュの後に続いて波打ち際に向かった。

 

 さわやかな空には、薄い雲が浮かんでいた。初めて見る水平線。その開放的な景色に、ユリウスの心まで解放されたようだ。胸の扉が開き、心に残っていた毒素が流れ出していき、体までが軽くなったようだ。

 

 ユリウスは、ずり落ちてきた帽子を手に持ち、もう片方の手でスカートを軽く持ち上げた。そして、引く波を追いかけては、押し寄せる波から逃げ、ユリウスもブランシュに負けず大はしゃぎだった。

 

 空と海の青を背景に金髪が揺れる様子は、まるで海の精が波と戯れているようだった。レオニードは馬をつないで、そんなユリウスを目を細めて眺めていた。

 

「きゃあ!」

 

 砂と波に足を取られて、尻もちをついたユリウスが悲鳴をあげた。かけ寄ったレオニードが笑いながら手を差し出すと、ユリウスの目がいたずらっぽく輝き、その手を力いっぱい引っ張った。ユリウスは彼を転ばせようとしたのだが、力強い手はびくともしない。

 

「私を巻き添えにしようとしても無駄だぞ」

 

 ユリウスは、考えがレオニードに見抜かれていたことを知って、声を立てて笑い出した。

 

「ブランシュに似てきたな。行動が同じだ」

 

 ユリウスを引き上げたレオニードが、からかうように言った。

 

 犬と同じと言われて、ユリウスは口をとがらせたが、その口からすぐにまた笑い声がもれた。確かに、波を追いかけたり、波に追いかけられたり、ブランシュと同じだ。

 

「いや、ブランシュのほうが賢いぞ。転んだりはしないからな」

 

「だって、ブランシュは足が四本あるんだもの。転ばないに決まっているわ」

 

 ユリウスは、なおも屈託なく笑っている。

 

「顔までブランシュに似てきたな」

 

 からかわれたら、いつもならむくれるユリウスが、おかしそうに笑い続けている。海風にあたって、心まで風通しがよくなったようだ。

 

「ブランシュの、あの幸せそうな顔に?」

 

 ああ、と言ってレオニードはユリウスの頬に唇を寄せた。サモエド・スマイルといわれるサモエド犬の笑ったような顔つきは、見る人を幸せにする。

 

 レオニードはユリウスの肩に手を回し、ユリウスはレオニードにもたれかかり、二人は見つめあいながら海岸を歩いた。ユリウスがふざけて、ブランシュのあの笑顔をまねして見せると、肩に回されたレオニードの手が、ユリウスの頬にのびて指でつつく。

 

「ぬれた服を脱いだほうがいいな」

 

 突然、レオニードが言い出した。

 

「ここで?! まさか」

 

 レオニードが冗談を言っていると思ったユリウスは、再び声を立てて笑った。そのすきに無防備になっていたユリウスからジャケットがはぎ取られ、ブラウスにまで彼の手がかけられた。

 

「このままでは風邪をひく」

 

 レオニードはしごく真面目だ。ユリウスは、彼の手を止めようとしながらも、きゃっきゃっと笑い続けた。

 

「やめて、こんなところで」

 

 そう言ったときに、ユリウスの口は、レオニードの口によってふさがれてしまった。その間も、レオニードの手の動きは止まらなかった。

 

 それまで波と遊んでいたブランシュが、急にかけ出した。ブランシュの向かう先に、オレグとペトロワの姿が見えた。ブラウスを脱がされて上半身が下着姿になっていたユリウスは、とっさに背を向けてレオニードの胸のなかに隠れた。

 

 オレグたちは昼食を持って来たのだった。岩場のかげに敷かれた敷物の上に、ランチボックスが置かれていた。ユリウスの着替えも用意されていた。

 

「どうして着替えが必要だと?」

 

 レオニードの胸のなかに隠れたまま、ユリウスはその手際のよさに驚いて尋ねた。

 

「雪の庭では、犬と雪まみれになっていらっしゃったんで、今日は海岸に行くとお聞きして、もしやと思ったんです」

 

 オレグは、ころあいを見計らって馬車で迎えに来ることを告げ、ユリウスたちの馬を引いて、ペトロワとともに帰って行った。

 

 レオニードが笑いをかみ殺している。そのすきに、ユリウスは彼の胸からするりと逃れた。だが、そのひょうしに、下着もはだけて胸があらわになってしまった。ユリウスはあわててアンダードレスをつかもうとしたが、それはすでにレオニードに取り押さえられていた。

 

「ぬれた服は脱いだほうがいい」

 

 太陽の下に白い裸体がさらされた。恥ずかしさよりも、解放感がまさっていたユリウスの気持ちが高ぶった。それでも、もったいぶって、ささやかに抵抗してみせた。

 

「待って、こんなところで? 誰かに見られるのではないかしら」

 

 とはいえ、ユリウスは笑いながら言うのだから、やめて欲しいようには聞こえない。

 

「ここは、我が家の地所だ。誰も来ない」

 

「ブランシュが見てる」

 

 来なくてもいいのに、ブランシュがユリウスたちのほうに近寄って来た。ブランシュにしてみれば、自分の名前が呼ばれたのだから当然だ。レオニードが、ランチボックスの隣に、犬の大好物があるのを見つけ、それを放り投げた。

 

「ブランシュ、ごちそうだ」

 

 ブランシュは、とっさに空中を飛んでいく獲物を追って走り出した。何とかありつけたようだ。これでブランシュは、当分の間、大好物の骨にかかりきりになるだろう。 

 

「さて、我々もごちそうの時間だ」

 

「わたしが、ごちそうですって?」

 

 ユリウスは、おおげさに顔をしかめてみせたが、すぐにくすくすと笑い出した。

 

「お互いにだ。ユリウス、自分を解放しろ。抑圧するな」

 

 言われるまでもなく、青空の下でユリウスは身も心も開放的になっていた。

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 ユリウスは、かつては、男と偽るために重い鎧(よろい)を心にまとっていた。女々しくならないように、攻撃される前に攻撃的になった。武器は心の手に持った槍(やり)と言葉だった。斜(しゃ)に構え、肩をいからせていた。そんな重装備がユリウスの心を外界から隔て、素の姿をひどくゆがめていた。

 

 しかし、いまや、その重い鎧から解放され、ユリウスが本来持つ光輝くような姿が発現し始めていた。それは、天真爛漫(てんしんらんまん)で、受容的で、どこか母親ゆずりの優しさと鷹揚(おうよう)さを伴う美しさだった。

 

  *

 

 波が打ち寄せては、くだける音が聞こえる。

 

 ユリウスの呼吸が次第に激しく、苦しくなっていく。ついには、これまでにない大きな波が押し寄せ、のみこまれた。全身が震え、体がのけぞり、知らず知らずのうちに叫び声をあげていた。体が浮いているような感じ。空を飛んでいるのかもしれない。そして、時が止まり、ユリウスは意識を失った。

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