ユリウスの肖像
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バラやユリ、アナベルの花々が咲き誇るさまは、見る人の心にも花を咲かせるようだ。
ユリウスは、白い日傘を差して、侯爵家の庭園の一画を散策していた。一家が居住する建物から離れているにも関わらず、手入れが行き届いている。ユリウスが美しい庭園を優雅に歩くさまは、いっぱしの貴婦人に見えただろう。
ユリウスが外出できる場所に、侯爵家所有の犬の牧場がある。そこでブランシュを他の犬たちと存分に走らせるように、オレグが手配してくれた。
初めのうちこそ、ユリウスは、ブランシュが他の犬たちといっしょに喜んでかけ回る姿を、微笑を浮かべながら見ていた。ところが、ブランシュは、何かおもしろいものを見つけては、またたくまに目の届く範囲から走り去って、なかなか戻って来ない。その間、手持ちぶさたになったユリウスは、隣接した侯爵家の庭園の散策を楽しむのが習慣になった。
侯爵家の敷地内では、わずらわしいベールをかぶる必要がない。めんどうで視界が悪くなるベールを、なぜ着用しなければならないのか、とレオニードにつめ寄ったことがある。
「安全のため」が彼の答えだった。侯爵家が預かることになったとはいえ、反逆者と接点のある、いわくありげなユリウスを、政敵が指をくわえて見ているはずもなく、再びすきを狙って拉致(らち)されかねない。だから、顔は見られないほうがいいのだ。ユリウスのほうも、あんな怖い思いを二度としたくはないので、素直に従っている。
ベールをかぶらないときは、日傘を差すようにとカティアから口をすっぱくして言われている。海から帰ったときに、いあわせたカティアが、すっかり日焼けしたユリウスを見て、すぐに日傘を新調させた。そのときの日焼けは、水にひたした布を顔に長時間あてる処置をしたおかげで、すうっと引いたのだが。
ベールも日傘も必要のない場所は、料理人といっしょに出かける市場だ。さすがに上質の外出着に黒いベールでは、悪目立ちする。そのため、使用人のお仕着せや、自分で縫ったワンピースを着て、プラトークをかぶって出かけている。
市場は、ユリウスを最もわくわくさせる場所の一つだ。物珍しさから、あるいは、売り込み文句につられて、ついつい衝動買いをしたこともあった。シベリア産の松ぼっくり入りのはちみつや、魚市場のぴちぴち跳ねる魚などだ。料理人は心得たもので、その魚をすり身にしてスパイスと混ぜて油で揚げ、ユリウスの口にあうように調理してくれた。
外出できる場所のうち、侯爵家の庭園の片隅は、一人で歩ける数少ない場所だ。読書に最適な場所を見つけ、腰をおろし、持参したプーシキンの詩集を開いた。
もともと活字が嫌いではないユリウスは、文学作品のほかにも、中産階級向けの雑誌や、話題の探偵小説とそのパロディなども楽しんでいる。だが、ソファで雑誌などを読んでいると、ブランシュが膝の上に乗って来たり、遊んで欲しいとすり寄って来る。ブランシュに邪魔されることのない、このひとときに、じっくりと美しい詩を味わうつもりだったが、庭の心地よさのせいで眠気が襲ってきた。あるとき気がつくと、ユリウスはレオニードの膝の上に抱かれていた。彼の瞳がユリウスを見おろしている。
「目覚めの挨拶だ」
ユリウスが野外で開放的になることを知った男は、そう言って、驚いてぽかんとしている彼女に口づけた。
*
黄金の秋になると、レオニードはユリウスを乗馬に連れ出した。二人は、森のなかを、くつわを並べてゆっくり馬を進めた。
黄色に変わった白樺の葉が、秋の木漏れ日に反射して黄金のように輝き、樹木の幹をいっそう白く見せている。そのコントラストの美しさに、ユリウスは息をのんだ。
ユリウスは、夏に名前を覚えた鳥の声を聞くと、嬉々としてその名を口に出した。美しい高い声でさえずるクロウタドリや、可愛い鳴き声のツグミたち。聞いたことのない鳥のさえずりを耳にすれば、鳥のロシア名をレオニードに聞いた。
秋の森は動物たちの活動が活発だ。ユリウスは、リスが頬をぱんぱんにふくらませているのを見ては、可愛いと言って笑った。
木の根元には様々な形のキノコが頭を出している。キノコを見つけるたびに、嬉しそうに声をあげるユリウスだったが、毒キノコだと教えられると、残念そうな表情をする。
そんなユリウスに、レオニードは穏やかな目を向けた。
秋の森の冷涼な空気と、金色にきらめく木の葉、白く照らされた樹幹、秋の実りを喜ぶ動物たち。それらに、喜び、屈託なく笑うユリウス。帽子からはみ出した金髪が揺れ、透けて光っている。金色に輝く森に、ユリウス自身が持つ輝きが溶けこんで一体となっているようだ。
以前のレオニードは、年頃の娘たちが些末なことで甲高(かんだか)い声をあげて笑う様子を、冷めた目で見たものだ。不快にさえ感じることもあった。しかし、ユリウスの笑い声は、どういうわけかレオニードの耳に心地よく響く。
レオニードが身を置く宮廷は、権力に群がり、ポストをめぐって争い、陰謀と裏切りの世界でもある。侯爵の肩書や財産をねたみ、皇帝の姪を妻としたことや、若くして親衛隊長に就いたことに、不満を持つ者も少なくない。
レオニードが弟妹たちと暮らす侯爵邸は、そんな醜悪(しゅうあく)さとは無縁の空間だったが、宮廷内の力関係に敏感な妻と結婚してからは、そこにも宮廷政治の空気が加わった。妻は、まれに姿を見せるだけで、その雰囲気を残していく。
いっぽう、ユリウスの笑顔を前にすると、まるで別世界にまぎれこんだようだ。モスクワ出征のときには、涼やかな瞳と女神然とした姿に驚いたものだが、この頃は、ますます光り輝いている。以前のような不安定さは、もう見られない。レオニードは、彼女の美しさに慰められている自分に驚きを禁じえなかった。
そのうえ、すっかり、それも急速に女になったユリウスは、レオニードの男としての欲望を満たし、充足感を与えてくれる。他方で、女に溺れることがあってはならない、と自分に言い聞かせた。
「ブランシュが見あたらないが」
レオニードがふと歩みを止めて、後ろを振り返った。
「いつの間に! さっきまで後ろにいたと思ったのに。きっと、どこかで何かへんなものを見つけて、夢中になっているんだわ」
ブランシュは、犬の牧場でも、鳥などを追いかけて、あっという間に目の届かないところに行ってしまう。そうなると、小一時間は戻って来ない。
「ほう。では、我々も楽しむとするか」
と言ってレオニードが馬からおりるのを、ユリウスは首をかしげて見ていた。
「歩くのも、いいわね」
ユリウスの青い瞳がいっそう鮮やかに輝いた。
レオニードが、ユリウスの腰をつかんで馬からおろし、まぶしそうに見つめた。
「私は、こちらのほうがいいが」
レオニードはそう言うと、ユリウスのあごを持ち上げ、その頬に接吻した。金色の光が二人を包んでいる。生命を育む黄金の森だけが、男女の自然の営みを見守り、激しい息づかいと声を聞いていた。
*
二人が馬上に戻り、馬を歩かせているときに、ブランシュがかけ寄って来た。その姿を見たユリウスは、思わず甲高い声を出した。
「ブランシュ、なんてこと! いったい何をしてきたの?」
ブランシュは、ユリウスが声を張りあげているのも、どこ吹く風で、くるんと巻いた尻尾を勢いよく動かして、誇らしげに馬上のユリウスを見上げている。顔や胸に付いた土や泥がまるで勲章だとでもいうように。
レオニードが破顔一笑した。続いてユリウスも笑い、黄金の森に笑い声が響いた。
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