ユリウスの肖像
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「姉さま!」
リュドミールは喜びの声をあげて、ベッドタイムに顔を出した姉に飛びついた。ヴェーラも歳の離れた弟を抱きしめた。
エフレムとの一件があって以来、自室に閉じこもっていたヴェーラの顔には、まだ憂いが残っているようだったが、本来あるべき姿に戻った二人をユリウスは感慨(かんがい)深く見ていた。
「わたしが母にしてもらったことを、弟にもしてあげたいの。母親がいなくて寂しい思いをしているはずなのに、わたしったら、自分のことばかり考えていて自分勝手だったわ」
気持ちの整理が完全についたわけではないが、義務と責任を果たすべきだと思い至ったという。
新しい時代の女性の生き方に感化されて、身分違いの恋に浮かれ、大切なことを忘れていたとユリウスに打ち明けた。
ユスーポフ家に脈々と受け継がれている義務と責任。ヴェーラもその気高い精神を受け継いでいる。侯爵もまた、兄として家長としての義務と責任を果たしながら、軍人として有力者として国家に対する義務と責任を担っている。その背負っているものの大きさを思うと、侯爵の人となりが大きく感じられ、力強く頼もしくもある。
同時に、それは、ユリウスに、アーレンスマイヤ家の当主としての義務も責任も果たせなかったことを思い出させもした。
――姉弟
ユリウスはドイツの異母姉のことを思った。弟のユリウスのことを愛していると言ってくれた姉。それなのに、最後まで男として偽り続け、そのあげく、姉を一人残して黙って出て行ったことに、自分の無力さを感じる。
ヴェーラが回復したことによって、リュドミールのベッドタイムにユリウスがつきあう理由がなくなった。そうなると、ユリウスは、自分が必要とされていない寂しさを感じる。ユスーポフ家の一員でもなく、正式な客でもなく、使用人でもないユリウスは、食事の時間はいつも一人で、自分の居場所が見つからなかった。
*
夕食時に帰宅した侯爵は、久しぶりの弟妹との語らいの時間もそこそこに書斎に向かった。留守中に山積した書類や手紙が侯爵の決裁や返事を待っていることは、ヴェーラもリュドミールも理解している。侯爵は、執事と家政婦と話をした後、少しの間思い迷ってからユリウスを呼んだ。
書斎の明るい照明が、サイドの髪をまとめてすっきりしたユリウスの顔の輪郭を照らし出し、青い瞳と背中まで流れる金髪をきらめかせている。一段と美しくなったようだ。
侯爵は書斎机から立ち上がって、ユリウスに椅子を勧め、自分は立ったまま話を始めた。
「先日の非礼をまず詫びたい」
「礼儀にかなっていない行動をしたのは、わたしのほうです。吹雪で急に窓が開いて、それで怖くなって取り乱してしまったんです」
ユリウスは、伏し目がちに言った。
「だが、夜更けに男の部屋に来るのは、適切な行動ではない」
侯爵のとがめるような厳格な声でさえ、ユリウスには官能的に聞こえた。情欲にとらわれて、分別がつかなくなった女のようだ。そんなユリウスの思いなどおかまいなしに、侯爵はユリウスに恐怖の原因を尋ねた。
ユリウスは狼狽(ろうばい)した。恐怖の原因はかつて死に至らしめた男の亡霊だ。その男がどんな悪党だったとしても、人を殺したことは誰にも知られたくない。自分の記憶からも消し去ってしまいたいぐらいだ。
人の心を見透(みす)かすような侯爵の目が、ユリウスに向けられた。ユリウスは視線を下に向けたまま答えた。
「思い当たることはありますが、どうすることもできません。ところで、何の御用だったんでしょうか。謝罪のために、呼び出したのではないでしょう?」
侯爵はうなずいた。これからが本題だ。
「おまえのための住居を用意した。手入れの行き届いた住宅で、設備も問題ない。不自由はしないだろう。使用人もすでに準備を整え、すぐにでも住める状態だ。明日にでも移ってもらう」
「何ですって?!」
驚きのあまり、ユリウスは立ち上がった。聞き間違えでなければ、明日この屋敷から出て行け、と宣告されたのだ。命令をすることに慣れた者に特有の、有無を言わさぬ口調だったが、このまま引き下がりたくはなかった。ユリウスはもともと気の強い性質なのだ。
「ど、どういう理由で、わたしは、この屋敷にいられないのですか。わたしは、わたしは」
ユリウスは、この屋敷にいるべき理由をやっきになって探し出し、どれだけこの屋敷の人びとにユリウスが感謝し、どれだけここで生活していきたいかを思いつく限り訴えた。
「わたしは、この屋敷の人たちが好きなんです。ヴェーラやリュドミールはもちろん、オレグやアンナたち階下の人たちも」
そして、言葉をいったん切り、少しためらってから思いを決して言った。
「あなたもです。ユスーポフ侯。皆と離れたくないんです。どうかここに置いてください。一人で住むなんて、いやです」
無言のまま腕組みをしている侯爵に、ユリウスは続けた。
「それに、あなたは、わたしを保護する命令を皇帝陛下から受けているのではないですか?」
ユリウスが言い終わると、侯爵がやっと口を開いた。
「言いたいことはそれだけか。この屋敷でなくとも、保護命令は実行できる。前回のような間違いがあれば、保護しているとはいえないだろう。だからこそ迅速に実行すべきだ」
「間違いですって? あのときに起こったことは、わたしたち二人の間に確かに存在する感情で、きちんと向きあうべきことだと思いませんか」
「ただの欲望だ。それ以上のものではない。話は終わりだ。さあ、部屋に戻りなさい」
と言って、侯爵は、ユリウスに背を向けて書斎机に戻ろうとした。ユリウスは涙ぐみそうになったが、侯爵につめ寄った。必死だった。
「あなたが簡単に誘惑されるような人だとは思えません。目をそらさないで、お願い。ご自分の心をあざむかないで」
しかし、侯爵の視線は書斎机に落とされたままだった。その様子から、侯爵の決定が容易に覆されないことを、ユリウスは悟った。ユリウスの両目に涙があふれてきた。
「わたしは、誰からも必要とされていない」
言うつもりがなかったつぶやきが、勝手にユリウスの口からもれ出てしまった。そして、とうとう観念して、震える声を何度もつまらせながら言った。
「わたしのために、いろいろと用意を整えてくれて、ありがとうございました。ヴェーラにも、リュドミールにも親切にしてもらって。あなたには、命を助けられたと聞きました」
ユリウスは、最後に、握手のために手を差し出したが、侯爵は動かない。ユリウスは小さくため息をついて、行き場を失った手を見た。お別れの握手さえ受け入れてもらえないとは。
ユリウスは肩を落として向きを変えた。そのときだった。突然、侯爵に呼び止められた。
「ユリウス!」
ユリウスが振り返ると、侯爵に乱暴なほど強く抱き寄せられ、そして、間髪入れずに口で口をふさがれた。ほとばしり出る侯爵の激情。その唐突さに、ユリウスはとまどったが、いつのまにか彼の首に腕を回し、深まっていくキスに夢中になって応じていた。
「あなたの心臓の鼓動がこんなに近くに聞こえる」
長いキスの後、侯爵の胸のなかでささやいたユリウスが顔を上げると、侯爵の顔がランプの炎に照らされ、黒い瞳が揺らめいていた。その瞳にユリウスの瞳は吸い寄せられ、しばらく言葉もないまま二人は見つめあった。
「もし、おまえに対して責任が持てるのなら、あのとき、力ずくででも、おまえをものにしたかもしれない」
侯爵は再びユリウスを抱きしめた。次第に腕に力がこもる。ユリウスはこの腕のなかにずっといたいと思った。
「今日だけでも、ずっとこのままでいたい。お願い」
「おまえは、自分が言っていることを理解しているのか」
ユリウスが潤んだ瞳で侯爵を見つめ返して、うなずくと、侯爵は何かつぶやいてから、ユリウスの肩を抱いた。ユリウスは侯爵の熱を感じながら、導かれるままにユリウスの部屋に向かった。