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 ユリウスは、ふうっと息をついた。

 

 夜更けに、男一人の部屋に女のほうから薄い夜着をまとっただけの姿で押しかけたうえに、抱きついたことは恥ずべき行為だ。侯爵に、次の相手を探しているのか、と侮辱されても言い訳できない。

 

 もし侯爵が途中でやめなかったら、そして、そのことが世間に知られたら、ユリウスに「娼婦」のレッテルが貼られ、まともな男たちは近寄らなくなるだろう。そういう種類の女を求めてくる男たちの間で評判になるだけだ。

 

 だが、ユリウスには、あのときの感覚が忘れられなかった。葉巻の香り、侯爵の熱いまなざし、執拗なまでの深いキス、体がとろけるような彼の手の感触、それらすべてが、いまだにユリウスの体にまとわりついているようだ。もっと先に進みたいとさえ思った。それが決して尊敬されない行為だとしても。

 

 ――侯爵が途中でやめたのは、わたしに女としての魅力がないから?

 

 男のふりをすることに命をかけてきたユリウスには、自分の女性らしさに自信がない。同世代のロシア女性たちを見ると、見劣りするように感じられる。ヴェーラも、ヴェーラの友人のアナスタシアも、先日結婚したアンナも、目鼻顔立ちが整っていて、透きとおった肌をしている。なかでも侯爵夫人は群を抜いて美しく、高貴なオーラを発している。

 

 さらに、人を殺した罪人であることが、ユリウスの自己評価を下げていた。だから、ユリウスが侯爵にとって魅力に欠けるとしても、当然であろうと思うのだった。

 

 ユリウスは、やるせない気持ちを追いはらおうと、深呼吸をした。

 

 カティアは縫物をしながら、隣でため息ばかりついているユリウスの様子を見守っていたが、とうとうユリウスの手が止まったのを機に声をかけた。ユリウスは、少し躊躇(ちゅうちょ)してから小声で答えた。

 

「ドレスを着るようになってから、少しは女性らしくなった、と自分では思うのですが、まだまだ女性としての魅力に欠けているように思えるんです」

 

「まあ、ユリウス、あなたに魅力がないなんて、とんでもない。どうか、そんなことを考えないで。自分が他人にどう見えるかを気にし過ぎているのではなくて? さては、気になる男性がいるのかしら」

 

 鋭いところを突かれて、ユリウスは言葉につまった。だが、カティアは何事もなかったように微笑んで、ユリウスを鏡の前に立たせた。

 

「ほら、この輝く青い瞳を見てごらんなさい。とても美しいわ」

 

 続けて、光に透けて光る金髪、なめらかな肌、形のよい唇、高すぎない身長などなど、様々な比喩を用いながらほめていった。カティアはほめ上手だ。

 

「何よりも、表情の豊かさが最大の魅力だと思いますよ。それから笑顔がすてきなこと。特にブランシュと遊んでいるときの笑顔は最高ですよ。瞳がきらきらしているの」

 

「それでは、まるで子どものように聞こえます。それが、わたしの年齢にふさわしい魅力なんでしょうか」

 

 そして、小声でぼそりと付け加えた。

 

「胸だって、小さいほうだと思います」

 

 女性として生きる決意をしてからは、押さえつけられていた女性性が解放されたように主張し始め、胸も大きくなったが、まだ人並みとは思えない。男と偽っていたときは、胸はぺったんこのほうが都合がよかったのだが、ドレスを着るようになると話が違ってくる。それに、男子校にいたときの同級生や先輩たちの間では、女性の胸の大きさが話題になることも少なくなく、男にとって大きな関心事であるはずだ。

 

 はにかむユリウスが可愛らしくて、カティアは再びにっこりした。

 

「確かに、女性らしい体型と胸の大きさの関係は否定しませんが、それよりも大切なことがあるのではなくて? それに胸もまだ大きくなりますよ。恋をすれば、さらにね」

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   *

 

 侯爵は、あの夜の翌日から軍司令部に出かけていた。もう数日が経過している。

 

 リュドミールは大好きな兄に会えず、寂しい思いが強くなっているようだ。母親代わりの姉も引きこもっているのだから、なおさらだ。

 

「兄さま、早く戻って来ないかなあ」

 

 話題が侯爵のことになると、書斎での出来事が思い起こされ、ユリウスの心臓が騒ぎ出す。ユリウスは、胸のざわつきを追い出そうと、読み聞かせに集中しようとした。

 

「リュドミール、続きを読むけど、いいかしら。『セミョーンは、イワンに兵隊をせがみ』」

 

「兄さまがね」

 

 リュドミールが兄のことを話し出したら止まらない。ユリウスの読み聞かせも、さえぎられてばかりだ。ユリウスは観念した。


「さあ、今日は侯爵のどんなお話なの?」

 

「ユリウスにも関係がある話だよ」

 

 ユリウスは、またどきっとした。

 

「前に、突然、ユリウスがどこかへ連れて行かれたよね」

 

 ユリウスが憲兵たちに連れ去られた後に、連れ戻して欲しいと兄に頼んだのは自分だ、ということをリュドミールはまず強調した。

 

「姉さまは難しいと言っていたのに、兄さまは、ちゃんと連れ戻してくれたんだ」

 

 自慢の兄が、自分の願いを叶えてくれたことが嬉しく、また、困難なことを実現させた兄を誇りに思っているのが伝わってくる。

 

「でも、その後、ユリウスは死にそうになっちゃったでしょ?」

 

「死にそう? 何の話かしら」

 

「覚えていないの?」

 

 ユリウスは、暗くて汚い牢屋のような場所に監禁されたことや、クラウスとの苦い再会など、一連のことを思い出したつもりでいた。しかし、クラウスと再会した後のことは覚えていない。侯爵から廃屋の窓から飛びおりたと聞いてはいるが、この屋敷にどうやって帰って来たのかは知らない。その後の記憶は、ぶかぶかのドレスとおいしい蕎麦粥から始まっている。

 

 リュドミールの説明によると、ユリウスは、ひとり言を繰り返して、気が触れたようだったらしい。そして、いつの間にか部屋から姿を消し、行方不明になったそうだ。偶然にも、雪の舞う庭でユリウスが倒れているのを侯爵が見つけて、部屋まで抱きかかえて来たということだった。

 

 そのときの様子を思い出したリュドミールは、兄がどんなにかっこよかったかを、またも得意げに話すのだった。

 

 そんなことがあったとは、ゆめにも思わなかったユリウスは、リュドミールの話を黙って聞いていた。

 

「雪でお医者さんも呼べなくて、夜遅かったし、兄さまが、ぼくたちに『もう寝なさい』って。ユリウスには兄さまがついているから大丈夫だって」

 

 侯爵がユリウスに一晩中付き添っていたそうだ。

 

「そんなことが、あったの⁈」

 

 ユリウスの声は驚きでひっくり返った。全身がほてり、心臓が爆発しそうだった。先日感じた侯爵のたくましい胸、ぬくもり、重量感のある手、愛撫が思い出されてしまうのだ。

 

「ユリウス、顔が赤いけど、大丈夫?」

 

「ぜんぜん覚えていないことだったから驚いたの。そんな大切なことを忘れていたなんて恥ずかしい」

 

 ユリウスは高鳴る胸を押さえながら言った。

 

「すごく怖い目にあったんでしょ? 何があったの?」

 

 子どもは、ときには無邪気に残酷なことを聞く。だが、もう過ぎ去ったことだ。

 

「たいしたことないわ。わたしが愚かだったの。もうそのことは忘れることにしたの」

 

 リュドミールからは、それ以上は聞かれなかった。リュドミールにおやすみのキスをして、自分の部屋に戻った後も、ユリウスの胸の鼓動は止まらなかった。

 

 ――侯爵がわたしに一晩中付き添っていたなんて。いったい、どんなふうに?

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