ユリウスの肖像
13
侯爵は、書斎で椅子の背もたれに深くもたれかかり、葉巻から立ちのぼる煙を見ていた。

夜更けに、書斎に夜着でやって来たユリウスに対して、男としての欲情をかろうじてコントロールしたものの、理性を失いかけるとは、これまでの侯爵には、おおよそ考えられなかったことだ。
ここ最近、ユリウスは、不安定さを見せるようになり、亡霊でも見たかのように侯爵にすがりついてくる。今回で二度目だ。それが、彼女を守ってやらなければという騎士道精神を刺激する。女や子どもを守るのは男の義務だ。
――彼女を恐怖にかり立てているのは雪だ。過去二回、彼女が不安定になったときは、いずれも吹雪いていた。庭で倒れていたときも、雪の日だった。
ユリウスの瞳には、初めて会ったときから不安や恐怖の色が浮かんでいた。しかし、そこには微々とした光も見いだせた。まるで追いつめられた手負いの獲物が、まだ逃げる希望を捨てていないかのようだった。
そのかすかな光さえも消えたのは、憲兵隊に連行された後だ。帰路の馬車のなかでは、以前と態度は変わらなかった。暴動に巻き込まれ意識不明の状態で発見され、二、三日後に意識を取り戻したときには、まともな精神状態ではなかった。生気のない目をして、彼女にしか見えない何かと、ろれつの回らない言葉で話すだけで、一切のこの世の物や音が、見えも聞こえもしない様子だった。したがって、行方不明になってから意識不明になるまでの間に何事かがあったのだろう、と侯爵は考えていた。
しかし、その日には降雪はなかったことを考えると、吹雪の日に取り乱すのは別の理由がありそうだ。彼女の過去、おそらくロシアに来る以前の出来事に関係がある、と侯爵は結論づけた。
雪の庭からユリウスを救出した翌日に、ロドニナから、そのユリウスの話し相手、あるいは教育係として務めたい、と申し出があった。率直なところ、ユリウスの扱いに苦慮していた侯爵にとっては、その申し出は都合がよかった。
「慣れない異国での生活が、負担になっているとも考えられますが、年頃の娘が男のように振る舞ってきたことが、大きな足枷(かせ)となり、おそらくそれが彼女を追いつめたのではないでしょうか。そうであるならば、娘らしく振る舞ったほうが彼女のためになるでしょう。そのために、何かできることがあると思います。もちろん彼女が望まなければ、無理強いをするつもりはありません」
侯爵としても、皇帝陛下にユリウスのことを記憶喪失の「少女」と説明した以上、ユリウスが女性として振る舞ったほうが都合がいい。だが、ロドニナの言葉の奥にはまだ何かがある、と侯爵は認識している。
カティア・ロドニナは、ロドニンと結婚する前はカティア・マカロワといった。この侯爵家に代々忠誠心を持って仕えてきたマカロフ家の者だ。ユスーポフ家が代々ロマノフ家に忠誠を誓ってきたように、マカロフ家は、ユスーポフ家に忠誠を尽くし、表に出ることなく影で支えてきた一族だ。過去数百年にわたるマカロフ家の貢献があればこそ、現在のユスーポフ家があるといえる。
なかでもロドニナは、侯爵の祖父の信頼が厚く、彼女に任せておけばマカロフ家のことは心配ないと言わせたほどだ。言い換えれば、階下で働く使用人たちのことについては、ロドニナがうまく采配(さいはい)してくれるということだ。今ではユスーポフ家の正式な使用人でこそないが、カティアが事実上マカロフ家の家長だ。弟のオレグ・マカロフは、仕事熱心で気がきき、律儀(りちぎ)で、彼もまたユスーポフ家を第一に考える忠実な人物だが、見識はカティアに及ばない。侯爵個人に並みならぬ忠誠心を示しているロストフスキーもまた、母親がマカロフ家の出身だ。
そのカティアから、先日のボリス・マカロフの結婚祝賀パーティーで踊ったときに言われたことだ。
「侯爵様、ユリウスもアンナと同じ年頃ですし、結婚について何かお考えがあるのでしたら、ぜひ協力させていただきたいと存じます」
つまるところ、ユリウスの結婚をどうするのか、と尋ねてきたのだ。
ロドニナには、侯爵家にはユリウスを保護する義務がある、とだけ伝えてある。ユリウスにまつわる皇室の秘密や皇帝の保護命令などは、彼女が知るべきことではない。しかし、年頃の娘を「保護する」ということは、結婚の世話をすることまで含まれると解釈できる。それゆえ、ロドニナは自らの使命感から、思っていることを口に出したのだろう。
適齢期の男女が結婚するのは、ごく普通のことだ。だが、ユリウスの結婚と聞いたとたんに、侯爵は苛立(いらだ)ちを覚えた。

これまでもユリウスには腹立たしく思ったものだ。帝国の安泰に身を捧げる侯爵にとっては、革命家と名乗る反逆者などは許すべからず存在である。彼女が反逆者への思慕をあらわにするたびに、侯爵は正義感にかられ、胸に小さな怒りの火がともされたものだ。義憤(ぎふん)。侯爵はそのように理解していた。
ところが、ボリス・マカロフの祝賀会で、彼女が他の男と踊っているのが視界に入ると、ちりちりと胸が焼かれるような感覚とともに、その男から引き離したい衝動にかられた。つまり、ミハイロフであれ、誰であれ、彼女の視線が他の男に向けられていることが、許しがたかったのだ。ユリウスのこととなると、自分でも気づかなかった感情が動き出す。
これはユスーポフ侯爵が持つべき感情ではない。確かに、反逆者に熱をあげる女など許しがたい。だが、これは私憤(しふん)だ。嫉妬という私情が混在していたのだ。ユスーポフ侯爵たるもの、個人的な感情に振り回されることがあってはならない。自分自身を完全に統御しなければ、些末(さまつ)なことで足をすくわれ、狡猾(こうかつ)で強欲な者たちの餌食(えじき)になりかねないのだ。だから、侯爵は祖父から厳しくきたえられたのだ。自分自身を完全に理性の支配下に置いていないのは、自分が未熟だからだ、と侯爵は自らを戒(いまし)めた。
――私にそんな弱さがあろうとはな
ロドニナはユリウスとうまくやっているようだ。ユリウスは、すっかりと年頃の娘らしくなった。ロシア語もすばらしく上達した。
しかし、誤算もあった。以前は、逃げ場のない手負いの獲物が、力を振り絞るように侯爵をにらみつけたものだ。しかし、その不安と緊張感に満ちた追いつめられた瞳が、何かを吹き切ったような、透明感のある穏やかな瞳に変わった。そのまなざしは、まるで、静謐(せいひつ)な泉からあふれ出て、見る者の渇きを癒す清涼な水のようだった。
モスクワの反乱分子鎮圧のために出発する際には、どういう風の吹き回しか、そのユリウスが見送りに来ていた。階段の上に一人立つ姿が、すがすがしく光り輝き、その他のすべてがかすんで見えたほどだ。これまでに目にしてきたどんな女性よりも美しく見えた。彼女の澄んだ青い瞳と目があったときには、あたかも勝利の女神の祝福を受けているかのように、かつてないほどの力と自信がみなぎってきた。彼女一人がいれば、どのような相手であろうとも戦えるとさえ思われたほどだ。たとえ千人の敵に囲まれようとも、ひるまないだろう。
侯爵は葉巻を灰皿に置いて、腕を組んだ。