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12

 

 翌日、髪を整えていたユリウスは、ふとブラシの手を止め、鏡のなかの自分の姿を見つめた。一、二か月前と比べれば、ややふっくらとして女性らしい体つきになったと思う。胸も大きくなった。ドレスを着ても、痩せた子どもが着ているようだったのが、年頃の娘らしく見えるようになってきた。

 

 かつては若き日の父親に瓜二つとも言われたこともあったが、母親に似てきたかもしれない。その母親は、十八歳で父親の愛人になった。ユリウスももうすぐ十八歳だ。

 

 アンナたちの結婚は、ユリウスに結婚適齢期であることを思い知らせた。そんなことを思いめぐらしていると、侯爵の姿が脳裏をかすめ、胸がぎゅっと締めつけられる。気がつくと、近ごろはいつも侯爵の姿が頭に浮かんでばかりだ。

 

 ――わたしは侯爵に恋している?

 

 けれども、彼は妻帯者だ。だから、恋をしていることに気づいたとたんに失恋決定だ。

 

 カティアは、結婚を焦る必要はないが、まずは、すてきな女性になることだと言っていた。カティアは、ときどき説教じみたことを言う。

 

 ――わたしは、すてきな女性だったかしら

 

 ユリウスにとって、最もすてきな女性は母親だ。三十歳半ばを過ぎても美しかった。単純で、難しいことを考えることができず、あさはかな行動をすることもあったが、元来お人好(ひとよ)しで、情にほだされやすく、父親に復讐するには優しすぎるほどだった。病身の父親と結婚した後は、かいがいしく世話をしていたので、父親のことは嫌いではなかったのだろう。

 

 母親には、子どものユリウスから見ても、守ってあげなければと思わせる雰囲気もあった。何よりも、やわらかな笑顔がすてきだった。あの笑顔があったからこそ、ユリウスは頑張れたのだ。

 

 ――もし、わたしが、母さまに似ているのなら、同じような優しい笑顔になれるかしら

 

   *

 

 リュドミールへの読み聞かせが終わり、部屋で寝支度をしていたときに、風が強くなり、雪が壁を打ちつける音がますます大きくなった。こんな夜は、さっさとベッドに潜り込むに限る。

 

 ユリウスが眠りかけたときだった。ばたんという音で目が覚めた。うっかり鍵をかけ忘れたのか、窓が一か所開いて雪が吹き込んでいる。ユリウスは、ベッドから出て窓を閉めたが、胸がざわつき、息苦しくなってきた。頭も締めつけられるように痛んだ。

 

 とたんに、得体の知れない恐怖感にユリウスは襲われた。以前にもあったような、どす黒いものが胸にまとわりついてくる。

 

 ――ヤーン?! 来るな!

 

 パニックになったユリウスは、とっさに廊下に飛び出して、心細い灯りの廊下を、行くあてのないまま走った。

 

 ――誰か助けて!

 

 階段をおりると、ようやく一つの部屋から光がもれているのを見つけた。

 

 ――光だ!

 

 ユリウスは、ノックもしないで光のなかに飛び込んだ。

 

「何か用か」

 

 書き物をしていた侯爵が、ペンを置いて書斎机から立ち上がった。

 

 無我夢中になっていたユリウスは、声の主が誰であるかにかまわず、抱きついてしまった。すると、全身にまとわりついていた黒いもやもやしたものが、すうっと消えていった。

 

「窓が開いていて」

 

 ユリウスは、声を絞り出すように言った。

 

「ただの風のいたずらだ。さあ、調べものの邪魔をしないでくれ」

 

「ひとりにしないで! 吹雪はいや、吹雪の音を聞くと不安で苦しくなるの!」

 

 平静さを失っているユリウスを、侯爵はひとまずカウチに座らせた。

 

 ――侯爵のそばにいると、どうしてこんなに安心するの?

 

 以前にも同じようなことがあった。侯爵は何をするのでもないのに、近くにいるだけで、ユリウスを脅かし不安にさせる何かが追いはらわれる。侯爵が帯びている雰囲気が、それらをはね返すようだ。

 

 侯爵がユリウスに背を向けると、ユリウスは不安になった。

 

「どこにいくの? ひとりにしないで!」

 

「あわてるな。そのかっこうでは、誘惑しに来たと思われても弁解できないぞ?」

 

と言いながら、侯爵はユリウスに毛布を手渡した。毛布を取りに向きを変えたのだった。

 

 かすかに葉巻の匂いのする毛布が、ユリウスを包み込んだ。そのときになって、やっとユリウスは自分の行動を自覚した。耳まで真っ赤になった。侯爵は男で、ユリウスは女なのだ。薄い夜着しか身に着けていないのが、とてつもなく恥ずかしい。少なくとも何か羽織ってくるべきだったと後悔した。

 

「なぜ私のところへ来た?」

 

「それは、吹雪が怖くて、灯りがついているのは、この部屋だけだったから……」

 

 しどろもどろで、答えになっていないことは、話しているユリウスにも分かった。そんなユリウスに、侯爵は口元をゆがめて、思いもしなかったことを口にした。

 

「ほう、それで? 吹雪にかこつけて誘惑しに来たのか。アレクセイ・ミハイロフのことを忘れると言ったな。次の相手を探しているのか」

 

 侮辱的な言葉に、ユリウスは頬をぴしゃりと叩かれた感じがした。ユリウスは反射的に立ち上がり、侯爵の頬をめがけて手を振り上げた。だが、その手は、空中で侯爵にいとも簡単に取り押さえられてしまった。

 

 侯爵がユリウスの目を見ている。ユリウスの瞳もまた、侯爵に向けられたままだ。二人の視線がからみあい、そのまま動かせなくなり、ユリウスの胸の鼓動(こどう)が大きくなった。

 

 やがて、見えない力が働いているかのように、二人の顔が少しずつ近づき、少し離れては、また近づき、ついには唇と唇が触れあい、そして、それは徐々に深く激しくなっていった。ユリウスはおぼれそうに感じながら、侯爵の首に両腕を回した。胸が張るような感覚と、体の中心部がきゅっとする感覚に襲われ、夢中になってキスにこたえ続けた。いつの間にか侯爵の手がユリウスの腰に回され、愛撫が始まった。

 

 ユリウスは、うっとりし、さらにキスと愛撫を求めた。先ほど立ち上がったときに、するりと落ちた毛布が足元にくるまっている。熱を帯びた侯爵の掌がユリウスの胸に回され、今まで他人に触られたことのない場所が、愛撫に喜んでいる。侯爵の唇がユリウスの首筋に移動した。ぞくぞくした。誰にもキスされたことがない場所だ。ユリウスは、肉体の喜びに、逆らうことができず、この愛撫とキスがずっと続くことを願った。

 

 ――もっと、もっと、キスして、抱きしめて、そしてわたしを愛して

 

 ユリウスの体が、さらに愛撫とキスを求めているところで、侯爵の動きがぴたりと止まり、ぎゅっと抱きしめられた。ユリウスは、侯爵の力強い腕を感じて恍惚(こうこつ)とした。侯爵のほうは、何かと葛藤(かっとう)しているかのように腕にますます力が入った。

 

 どのくらいの間、抱きしめられただろうか。ついに侯爵は冷静さを取り戻した。そして、床に目を落とし、ユリウスを引き離した。

 

「すべきでないことをした。許せ」

 

 ユリウスも、はっと我に返った。恥ずべき行為に気づき、言葉もなかった。

 

「今のことは忘れてくれ。お互いのためだ。さあ、早く部屋に戻りなさい」

 

 いつもの落ち着いた口調に戻っていた侯爵にとまどいつつも、ユリウスは、はだけた胸元を直しながら、うつむいて書斎から出た。

 

 そのときには、書斎にかけ込む前の恐怖感は跡形もなく消え、代わりに、侯爵のまとっていた葉巻の匂い、濃厚な接吻、熱を帯びた瞳、胸を愛撫する掌や首筋を這う唇の感触に、ユリウスは支配されていた。 

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 リュドミールへの読み聞かせが終わり、部屋で寝支度をしていたときに、風が強くなり、雪が壁を打ちつける音がますます大きくなった。こんな夜は、さっさとベッドに潜り込むに限る。

 

 ユリウスが眠りかけたときだった。ばたんという音で目が覚めた。うっかり鍵をかけ忘れたのか、窓が一か所開いて雪が吹き込んでいる。ユリウスは、ベッドから出て窓を閉めたが、胸がざわつき、息苦しくなってきた。頭も締めつけられるように痛んだ。

 

 とたんに、得体の知れない恐怖感にユリウスは襲われた。以前にもあったような、どす黒いものが胸にまとわりついてくる。

 

 ――ヤーン?! 来るな!

 

 パニックになったユリウスは、とっさに廊下に飛び出して、心細い灯りの廊下を、行くあてのないまま走った。

 

 ――誰か助けて!

 

 階段をおりると、ようやく一つの部屋から光がもれているのを見つけた。

 

 ――光だ!

 

 ユリウスは、ノックもしないで光のなかに飛び込んだ。

 

「何か用か」

 

 書き物をしていた侯爵が、ペンを置いて書斎机から立ち上がった。

 

 無我夢中になっていたユリウスは、声の主が誰であるかにかまわず、抱きついてしまった。すると、全身にまとわりついていた黒いもやもやしたものが、すうっと消えていった。

 

「窓が開いていて」

 

 ユリウスは、声を絞り出すように言った。

 

「ただの風のいたずらだ。さあ、調べものの邪魔をしないでくれ」

 

「ひとりにしないで! 吹雪はいや、吹雪の音を聞くと不安で苦しくなるの!」

 

 平静さを失っているユリウスを、侯爵はひとまずカウチに座らせた。

 

 ――侯爵のそばにいると、どうしてこんなに安心するの?

 

 以前にも同じようなことがあった。侯爵は何をするのでもないのに、近くにいるだけで、ユリウスを脅かし不安にさせる何かが追いはらわれる。侯爵が帯びている雰囲気が、それらをはね返すようだ。

 

 侯爵がユリウスに背を向けると、ユリウスは不安になった。

 

「どこにいくの? ひとりにしないで!」

 

「あわてるな。そのかっこうでは、誘惑しに来たと思われても弁解できないぞ?」

 

と言いながら、侯爵はユリウスに毛布を手渡した。毛布を取りに向きを変えたのだった。

 

 かすかに葉巻の匂いのする毛布が、ユリウスを包み込んだ。そのときになって、やっとユリウスは自分の行動を自覚した。耳まで真っ赤になった。侯爵は男で、ユリウスは女なのだ。薄い夜着しか身に着けていないのが、とてつもなく恥ずかしい。少なくとも何か羽織ってくるべきだったと後悔した。

 

「なぜ私のところへ来た?」

 

「それは、吹雪が怖くて、灯りがついているのは、この部屋だけだったから……」

 

 しどろもどろで、答えになっていないことは、話しているユリウスにも分かった。そんなユリウスに、侯爵は口元をゆがめて、思いもしなかったことを口にした。

 

「ほう、それで? 吹雪にかこつけて誘惑しに来たのか。アレクセイ・ミハイロフのことを忘れると言ったな。次の相手を探しているのか」

 

 侮辱的な言葉に、ユリウスは頬をぴしゃりと叩かれた感じがした。ユリウスは反射的に立ち上がり、侯爵の頬をめがけて手を振り上げた。だが、その手は、空中で侯爵にいとも簡単に取り押さえられてしまった。

 

 侯爵がユリウスの目を見ている。ユリウスの瞳もまた、侯爵に向けられたままだ。二人の視線がからみあい、そのまま動かせなくなり、ユリウスの胸の鼓動(こどう)が大きくなった。

 

 やがて、見えない力が働いているかのように、二人の顔が少しずつ近づき、少し離れては、また近づき、ついには唇と唇が触れあい、そして、それは徐々に深く激しくなっていった。ユリウスはおぼれそうに感じながら、侯爵の首に両腕を回した。胸が張るような感覚と、体の中心部がきゅっとする感覚に襲われ、夢中になってキスにこたえ続けた。いつの間にか侯爵の手がユリウスの腰に回され、愛撫が始まった。

 

 ユリウスは、うっとりし、さらにキスと愛撫を求めた。先ほど立ち上がったときに、するりと落ちた毛布が足元にくるまっている。熱を帯びた侯爵の掌がユリウスの胸に回され、今まで他人に触られたことのない場所が、愛撫に喜んでいる。侯爵の唇がユリウスの首筋に移動した。ぞくぞくした。誰にもキスされたことがない場所だ。ユリウスは、肉体の喜びに、逆らうことができず、この愛撫とキスがずっと続くことを願った。

 

 ――もっと、もっと、キスして、抱きしめて、そしてわたしを愛して

 

 ユリウスの体が、さらに愛撫とキスを求めているところで、侯爵の動きがぴたりと止まり、ぎゅっと抱きしめられた。ユリウスは、侯爵の力強い腕を感じて恍惚(こうこつ)とした。侯爵のほうは、何かと葛藤(かっとう)しているかのように腕にますます力が入った。

 

 どのくらいの間、抱きしめられただろうか。ついに侯爵は冷静さを取り戻した。そして、床に目を落とし、ユリウスを引き離した。

 

「すべきでないことをした。許せ」

 

 ユリウスも、はっと我に返った。恥ずべき行為に気づき、言葉もなかった。

 

「今のことは忘れてくれ。お互いのためだ。さあ、早く部屋に戻りなさい」

 

 いつもの落ち着いた口調に戻っていた侯爵にとまどいつつも、ユリウスは、はだけた胸元を直しながら、うつむいて書斎から出た。

 

 そのときには、書斎にかけ込む前の恐怖感は跡形もなく消え、代わりに、侯爵のまとっていた葉巻の匂い、濃厚な接吻、熱を帯びた瞳、胸を愛撫する掌や首筋を這う唇の感触に、ユリウスは支配されていた。

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